第9話 神の一部
【冒険者の少年ガイア十六歳視点】
クーデの街の東側に広がる森は、僕たちがゴブリンと戦った北側の赤黒い森とは、まるで別の場所だった。
太古の神の巨大な肋骨で造られた東門。その白いアーチを抜けた先には、青々とした木々が茂り、澄んだ小川が流れる美しい森が広がっている。
ここを管理しているのは『森人』たちだ。
神を殺した人間を今でも深く憎み、神の骸を資源として使うことにも反対している彼らは、普段、人間が森へ立ち入ることを許さない。
ただし月に何度かだけ、互いの領域を行き来できる交流日が設けられていた。
「わあ、すっごくいいお天気! 絶好のキノコ採り日和だね!」
「あんまり奥まで行かないようにね。交流日でも、森人の生活してるところまで入ったら怒られるから」
「ええっ。そんな怖いこと言わないでよぉ」
「槍でつつかれるかもしれない」
「もっと怖くなった!」
僕の隣を歩くリリアは、大きなつる編みのバスケットを抱えながら頬を膨らませた。
今日は、その交流日だった。
森人たちは薬草や珍しい果実を持ってクーデへ向かい、人間側は許された範囲まで森へ入り、キノコや木の実を採ることができる。
東門へ向かう途中でも、何人もの森人とすれ違った。
顔には泥や獣の血で描いた複雑な模様。首や腕には、小さな神の骨を削って作った装飾品が下がっている。
彼らは僕たちを見るたび、鋭い目を向けてきた。
僕も笑顔で軽く頭を下げる。
返事はない。
(やっぱり嫌われてるなあ)
それでも今日は交流日だ。
森人たちは武器へ手を伸ばすこともなく、そのまま静かに街の方へ歩いていった。
「美味しい木の実がいっぱい採れたら、お母さんにまたシチューを作ってもらおうね!」
「それ最高。マーサおばさんのシチューがあれば、白骨パンがいくらでも食べられる」
「あたしもお弁当作ってきたんだよ」
「本当!?」
「途中で食べようね」
「やった!」
思わず頬が緩む。
肩には、すっかり武器として定着してしまった物干し竿。
隣では、リリアが手作りの弁当を入れたバスケットを揺らしている。
前回は畑仕事だったけれど、今日はギルドの依頼ですらない。ただのキノコ採りだ。
戦闘なし。
危険なし。
途中で弁当あり。
(完璧だ)
どう考えても、平和な一日になるはずだった。
東門の衛兵へ冒険者証を見せ、僕たちは森へ入った。
木漏れ日が葉の隙間からキラキラと降り注ぐ。
湿った土と若葉の爽やかな匂い。足元には小さな野花が咲き、枝の上では鳥が楽しそうにさえずっている。
「きれい……」
「北の森とは全然違うね」
「こんなところでお弁当食べたら絶対美味しいよ!」
リリアはすっかり上機嫌だ。
魔物の気配なんて、どこにもない。
命に満ちた、清らかな森。
――そのはずだった。
「……あれ?」
森へ入って十数分ほど歩いたところで、リリアが足を止めた。
「どうしたの?」
「なんか……変じゃない?」
僕も周囲を見る。
そして、すぐに気づいた。
さっきまで頭上を覆っていた鮮やかな緑の葉が、いつの間にか赤黒く濁り始めている。
足元も違う。
柔らかかった土が湿った腐葉土へ変わり、踏むたびにグチャリと嫌な音を立てた。
風に乗ってきた匂いに、僕は眉をしかめる。
「この匂い……」
「ねえ、ガイアくん。ここ、なんだか……」
「北の森と同じだ」
甘ったるい鉄の匂い。
腐った肉の臭い。
僕は肩から物干し竿を下ろし、両手で握った。
「リリア。僕から離れないで」
「う、うん……」
おかしい。
ここは森人たちが守っている森だ。
北の森みたいに、神の腐肉が露出した毒沼があるわけじゃない。
少なくとも、僕が知る限りでは。
それなのに。
木々は赤黒く変色し、空気まで死体の腹の中みたいに濁っている。
そのときだった。
トクン。
「ぐっ……!」
胸の奥で、重い鼓動が鳴った。
僕は思わず胸を押さえる。
「ガイアくん!?」
熱い。
ただ心臓が強く脈打っただけじゃない。
煮えたぎった何かを血管へ流し込まれたみたいに、胸から全身へ熱が広がっていく。
「なんだ……これ……」
トクン。
トクン。
神の心臓が、今までにないほど強く脈打つ。
痛い。
なのに。
同時に、何かを見つけて喜んでいるようにも感じた。
『居る』
頭の奥へ、声が響いた。
「……!」
地鳴りのような低い声。
いつもの神の心臓だ。
『我と近しい存在だ』
「近しい……?」
思わず声に出してしまった。
リリアが不安そうに僕を見る。
「ガイアくん? 誰と話してるの?」
「ちょっと待って」
説明している余裕はなかった。
胸の奥から流れ込んでくる感情が、あまりにも強い。
喜び。
懐かしさ。
そして、燃えるような怒り。
全部がごちゃ混ぜになって、僕の身体まで震わせている。
『神の一部だ!』
「神の……一部?」
言葉の意味を考えるより早く。
「きゃあああああっ!」
森の奥から悲鳴が響いた。
「逃げろ! 街へ走れ!」
続いて男の怒鳴り声。
バキバキバキッ!
太い木が何本もへし折れる音がした。
直後、大地そのものが揺れる。
ドォン!
「きゃっ!」
リリアがよろめいた。
僕は反射的にその腕をつかむ。
「森人たちだ」
「えっ?」
「まだ森に残ってた人たちが襲われてる!」
物干し竿を握り直す。
「リリア、僕の後ろから離れないで!」
「う、うん!」
僕は悲鳴の聞こえた方向へ駆け出した。
リリアも必死についてくる。
赤黒く変色した枝が顔をかすめる。頬にヒリッと痛みが走ったが、止まっている暇はない。
バキッ!
また木が倒れた。
「くそっ……!」
肺が痛い。
胸の神の心臓は、ますます激しく脈打っている。
近い。
何かが。
神の心臓と同じ何かが、この先にいる。
木々の間を抜け、少し開けた場所へ飛び出した。
「――っ!」
僕は立ち止まった。
そこは、さっきまでの美しい森とは別世界だった。
何十本もの太い木が根元からなぎ倒され、地面には巨大な穴がいくつも開いている。
森人の戦士たちが、何人も倒れていた。
血を流して動かない者。
仲間へ肩を貸して逃げようとしている者。
まだ戦える者たちは槍を構え、一つの巨大な何かを取り囲んでいる。
「なに……あれ……」
後ろから来たリリアが、震える声を漏らした。
それは、山のように巨大な肉の塊だった。
いや。
肉だけじゃない。
表面の一部は、神の骨と同じ滑らかな白い外殻に覆われている。
太い関節がいくつも連なり、その先には地面を深々とえぐる巨大な爪。
グニャリ。
それが動いた。
森人の槍が突き刺さる。
だが、白い外殻に弾かれた。
「下がれ!」
一人の森人が叫ぶ。
巨大な肉塊が横へ薙ぎ払われる。
ドォン!
「うわああっ!」
戦士たちが、まるで小石みたいに吹き飛んだ。
「嘘だろ……」
僕は物干し竿を握る手に力を込める。
その形。
太い付け根。
一つ目の関節。
二つ目の関節。
そして、その先に生えた爪。
見間違えるはずがない。
あれは。
人間でも。
魔物でもない。
太古に殺され、この世界そのものになったはずの神。
その身体の一部。
目の前で森を破壊し、今なお生き物のように蠢いている巨大な肉塊は――。
神の左手の、小指だった。
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