第10話 神の小指
【冒険者の少年ガイア十六歳視点】
木々をなぎ倒し、大地を深くえぐりながら暴れ狂う巨大な肉の塊。
太古に死んだはずの神の、左手の小指。
その圧倒的な大きさを前にして、僕は全身の血が冷たくなるような恐怖を覚えた。
長さは十メートルを軽く超えている。
巨大な大蛇かイモムシのようにうねる身体。その表面の一部は、クーデの城壁にも使われている滑らかで硬い神の白骨に覆われていた。
先端には、地面を深くえぐるほど巨大な爪が生えている。
ただ身をよじるだけで周囲の木々が倒れ、森が無惨に破壊されていった。
「うわあああっ!」
「下がれ! 槍が通じない!」
森人の戦士たちが次々と後退する。
鋭い槍を全力で突き出しても、白い外殻へ当たった瞬間、
カキンッ!
硬い音を立てて弾かれた。
一本。
また一本。
槍が折れていく。
神の小指が苛立ったように関節を曲げた。
「避けろ!」
巨大な肉塊が横へ薙ぎ払われる。
ドォン!
「ぐああっ!」
数人の森人が枯れ葉みたいに吹き飛び、太い木の幹へ叩きつけられた。
「ガイアくん……っ」
背後からリリアの震える声が聞こえる。
このままじゃまずい。
森人たちが全滅する。
「リリア、あの太い木の陰に隠れてて」
「えっ?」
「絶対に出てきちゃ駄目だよ!」
「でも、ガイアくん!」
「大丈夫!」
本当は全然大丈夫じゃない。
でも、そう言うしかなかった。
僕はリリアを木の陰へ下がらせると、両手で物干し竿を握りしめた。
土煙の向こうで、一人の森人が倒れている。
そこへ神の小指が巨大な爪を振り上げた。
「させるかよッ!」
僕は広場へ飛び出した。
意識を大地の底へ伸ばす。
地脈。
太古の神の神経。
そこへ自分の意識をつなぎ、残された力を引きずり出す。
青白い光が指先へ集まった。
「ファイブアロー!」
五本の青白い光の矢が、一斉に空気を切り裂いた。
以前、ゴブリンたちをまとめて倒した魔法だ。
光の矢が巨大な小指へ殺到する。
だが。
カァンッ!
「えっ?」
全部、弾かれた。
青白い光が砕け、空中へ散っていく。
白い外殻には傷一つついていない。
「嘘だろ……。ファイブアローが通じない!?」
『愚か者め』
胸の奥から、地鳴りのような声が響いた。
『あれは我の骨であるぞ。貴様の貧弱な力で、正面から貫けるものか』
「だったら、どうすればいいか教えてくれよ!」
こんなときまで偉そうだ。
胸の中の神の心臓は、目の前に自分と同じ神の一部がいるせいか、ずっと激しく脈打っている。
熱い。
喜んでいるようでもあり、怒り狂っているようでもあった。
『関節を見よ』
「関節?」
『骨と骨の間だ。柔らかな肉が残っている。そこへ力を一点に束ねて撃ち込め』
僕は目を凝らした。
「あそこか……!」
白い外殻に覆われた巨体。
その中で、関節が曲がる部分だけは赤黒い肉がむき出しになっている。
あそこなら。
僕の魔法でも通るかもしれない。
問題は――。
「動きすぎなんだよ!」
ドォン!
巨大な爪が地面を叩く。
土と石が爆発したように飛び散った。
あんなものに一発でも当たったら終わりだ。
森人たちみたいに吹き飛ばされるどころか、僕の小さな身体なんて簡単に潰されてしまう。
それでも。
やるしかない。
「……よし!」
僕は物干し竿を地面へ放り出した。
『何をしている』
「邪魔だから!」
身軽になった僕は、そのまま神の小指へ向かって駆け出した。
ズシン!
ズシン!
一度動くたび、大地が揺れる。
小指が僕に気づいた。
巨大な爪が持ち上がる。
「うわっ!」
振り下ろされた。
僕は地面を蹴り、横へ飛ぶ。
ドォン!
ほんの少し前までいた場所が、巨大な穴になった。
飛び散った土の塊が背中へぶつかる。
「ぐっ!」
痛い。
でも止まれない。
『今だ!』
神の心臓が叫ぶ。
『限界まで力を引き出せ!』
「簡単に言うなよ!」
僕は地脈のさらに奥へ意識を伸ばした。
いつも触れている場所よりも深く。
もっと深く。
神の神経の、さらに太いところへ。
つながった。
「ぐああああっ!」
全身へ激痛が走った。
煮えたぎったものを血管へ流し込まれたような熱。
視界が白く染まる。
鼻を刺す、雷に焼かれたような鋭い匂い。
青白い光が、僕の右手へ集まり始めた。
いつものファイブアロー。
五本の矢。
でも、今度は広げない。
一点へ。
全部、同じ場所へ叩き込む。
「集まれ……!」
一本目。
二本目。
三本目。
四本目。
五本目。
五本の青白い矢が、重なるように僕の周囲へ浮かび上がった。
光が強くなる。
雷の焼けるような匂いが、さらに濃くなる。
足元の草が青白い光を浴び、みるみるしおれていった。
「うおおおおおっ!」
巨大な小指が身をよじった。
関節が曲がる。
赤黒い肉が見えた。
『そこだ!』
「ファイブアローッ!」
右手を突き出した。
五本の青白い矢が放たれる。
散らばらない。
ほとんど同じ軌道を通り、一直線に関節の隙間へ飛んでいく。
一発目が赤黒い肉へ突き刺さった。
二発目が、その傷をさらに深くえぐる。
三発目。
四発目。
そして最後の一発が――。
ドォン!
関節の奥で弾けた。
ギルルルルルルッ!
「うわっ!」
森全体を揺らすような声が響く。
耳が痛い。
神の小指が激しくのたうち回った。
関節の内部から青白い光があふれ出す。
次の瞬間。
バキンッ!
巨大な小指が、関節から折れた。
白い外殻がガラガラと崩れ落ち、その下にあった赤黒い肉も急速に形を失っていく。
「なんだ……?」
肉が溶けている。
悪臭を放ちながら泥のように崩れ、地面へ広がっていく。
やがて。
動かなくなった。
「はぁっ……はぁっ……」
僕はその場へ膝をついた。
「ぐっ……」
身体中が痛い。
魔力を引き出しすぎた。
腕も足も、自分のものじゃないみたいに震えている。
呼吸をするだけで胸が痛む。
指先にも力が入らない。
「ガイアくん!」
リリアの声が聞こえた。
「待って……リリア……」
来ちゃ駄目だと言いたかった。
でも、もう戦いは終わっている。
リリアは木陰から飛び出し、僕のところまで駆けてきた。
「もう! 無茶しすぎだよ!」
「ごめん……」
「すごい音したし、吹き飛ばされそうになるし……あたし、心臓が止まるかと思ったんだから!」
涙目だ。
リリアは僕の隣へしゃがみ込み、胸の前で両手を開いた。
「じっとしてて」
「え?」
「昨日の魔法。人にも効くか試す!」
そう言って目を閉じる。
「お願い……。ガイアくんの痛いの、飛んでいけ……!」
ポワン。
緑色の光が生まれた。
丸くて柔らかな、リリアの魔法。
焼きたてのパンみたいな甘く香ばしい匂いが広がる。
血と土、それから雷に焼かれたような匂いの中で、その香りだけがひどく場違いだった。
緑色の光が僕の身体へ触れる。
「……あれ?」
暖かい。
張りつめていた腕の痛みが、ゆっくりと引いていく。
震えていた指先も止まった。
完全に元気になったわけじゃない。
魔力を使いすぎた疲れは残っている。
でも、さっきまで身体中を走っていた痛みは、明らかに軽くなっていた。
「リリア」
「な、なに?」
「これ、人にも効くよ」
「ほんと!?」
リリアが目を開く。
「すごい。回復魔法だ」
「回復……魔法……」
リリアは自分の両手を見た。
緑色の光が、まだ指先の周りをふわふわ漂っている。
「やった……!」
「よかったね」
「これで冒険者らしくなった!」
「青い矢じゃないけどね」
「それはまだ諦めてないから!」
「まだ!?」
こんなときなのに、少しだけ笑ってしまった。
周囲を見る。
吹き飛ばされた森人たちも、何人かは自力で身体を起こし始めていた。
重傷者もいる。
でも、息はある。
「リリア。あの人たちも」
「うん!」
これなら助けられるかもしれない。
そう思って、僕も立ち上がろうとした。
そのときだった。
「……ん?」
赤い光が見えた。
泥のように崩れた神の小指。
その中心から、ぽつんと小さな光が浮かび上がっている。
「ガイアくん。あれ……なに?」
「分からない」
血晶石に似ていた。
でも、街で使われているものとは比べものにならないほど赤い。
見ているだけで胸の奥が熱くなるような、濃い光。
それが急速に縮み始める。
握り拳ほど。
親指ほど。
最後にはビー玉くらいの大きさになった。
トクン。
「……!」
胸の心臓が反応した。
『来るぞ』
「え?」
赤い光が浮かび上がった。
次の瞬間。
「うわっ!」
一直線に飛んできた。
避ける暇なんてない。
赤い光は僕の胸へぶつかり――。
そのまま身体の中へ消えた。
「ガイアくん!?」
トクンッ!
「ぐあっ!」
巨大な鼓動が、身体を内側から殴りつけた。
熱い。
今までとは比べものにならない。
「な、なんだ……これ……!」
全身の血が、一瞬で沸騰したようだった。
身体の中へ、何かが入ってくる。
違う。
入ってくるんじゃない。
僕の中にある神の心臓が、あの赤い光を取り込んでいる。
神の小指だったものを。
自分の一部として。
「ぐっ……あああっ!」
「ガイアくん! どうしたの!? ガイアくん!」
リリアが僕の肩をつかむ。
でも、その声が遠い。
世界がぐにゃりと歪む。
空と地面が入れ替わったように回転した。
「リリア……」
名前を呼んだつもりだった。
ちゃんと声になったのかも分からない。
目の前が暗くなっていく。
巨大すぎる神の力に、僕の意識は耐えられなかった。
最後に聞こえたのは、僕を呼ぶリリアの声だった。
そして僕の意識は、深い闇の底へ落ちていった。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
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