第11話 心臓との対話
【ガイア視点】
深い、深い闇の底へ落ちていく感覚があった。
魔力を限界まで引き出したことによる全身の焼けるような激痛も、神の小指が放っていた圧倒的な熱も、今はもう遠い。ただ、妙に身体がフワフワしている。
まるで温かな水の中をたゆたうような、夢特有の心地よい無重力の感覚だった。
ゆっくりと目を開く。
そこは、僕が知っている狂った世界とはまったく違う場所だった。
見渡す限り、どこまでも澄んだ青空が広がっている。足元には鏡のように空を映す薄い水面があり、歩みを進めるたびに波紋が静かに広がっていった。
吹き抜ける風には、焦げた血や腐肉の匂いなど欠片もない。春の木漏れ日を集めたような、甘く清らかな香りが漂っている。
(ここは……)
周囲を見渡す僕の前に、ぽつんと浮かぶものがあった。
脈打つ赤い光の塊だ。
太陽の欠片をそのまま削り出したかのようにまぶしく、狂おしいほどの熱を放ちながら、ドクン、ドクンと重々しい音を立てている。
『目覚めたか、小さき器よ』
地鳴りのような、それでいて今はどこか穏やかな声が、青空の下に響き渡った。
僕の胸の中に宿る、太古に殺された神の心臓。その霊体となった姿が、すぐ目の前で赤い光を揺らしている。
「これ、夢だよね。僕の意識の中ってこと?」
『いかにも。そなたが強大な力に耐えきれず眠りに落ちたため、精神の奥底でこうしてまみえることになったのだ』
「そっか……。それなら、ちょうどいい機会かもね」
僕は足元の水面を静かに踏みしめた。冷たくて心地よい感触が、素足の裏から伝わってくる。
「ずっと聞きたかったんだ。君たち神の部位は、いったい何をしようとしてるの?」
僕の問いかけに、赤い光の塊はわずかに明滅した。
大地の底に残された神経。魔法の源である地脈。そして森を破壊しながら蠢いていた、あの巨大な骨と肉。
どうして彼らは、長い時を経て動き出したのか。
僕がずっと知りたかった答えが、ようやく返ってくる。
『再び一つとなり、復活することだ』
静かな、けれど絶対的な意思を秘めた言葉だった。
神の復活。
それは、クーデの街にいる狂信的な教会の信徒たちが思い描くような、祈りによる奇跡などではない。
物理的に砕かれ、大地となり、世界中に散らばった神の肉体そのものが再び集まり、一つの巨大な生命として蘇るということだ。
僕は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
「復活したらどうするの?」
『再び、世界を作り直す』
あまりにも淡々とした声に、背筋が寒くなる。
世界を作り直す。
それはつまり、今の世界の終わりを意味していた。神の骨でできた街も、血を燃やす帝国も、すべてが一度なくなるということだ。
「みんなはどうなるの? 街の人たちや、僕の友達は」
『転生か転移してもらう。この穢れた骸の上で、争い続ける必要はなくなるのだ』
神にとっては、それが慈悲なのだろう。
自らを殺した愚かな人間たちを、それでもまだ愛しているのか。それとも、これ以上、自分たちの死体の上で醜く争いながら生きる姿を見たくないだけなのか。
どちらにせよ、人間という小さな存在にはどうすることもできないほど、果てしなく巨大な意思だった。
僕はふうっと一息つく。
澄んだ風が髪を撫で、足元の水面に小さな波を作っていった。
「そっか。きっと君は霊体だから、僕が命を絶っても止められないんだろうね」
もし僕が自分の胸を刃で貫いたとしても、器が壊れるだけで神の意思まで消えるわけじゃない。
別の器を見つけるか、霊体のまま力を蓄える。それだけのことなのだろう。
『そうだ。ならば我に協力せよ』
「わかったよ。そのかわり、意見は言わせてもらうからね?」
理不尽な神の意思に、ただ黙って従うつもりはなかった。
僕には僕の生きたい日常がある。
『……了解した。そなたは既に指の一本を取り返している。礼はしよう』
それなら、少なくとも一方的に命令されるだけの関係ではない。
僕の言葉を認めるように、心臓がトクンと答えるような鼓動を響かせた。
同時に、僕を包んでいた温かな水のような感覚が、少しずつ薄れていく。
『さて、そろそろ目覚めよ。あの女子が心配しておるぞ?』
「あっ、最後に一つだけ。指はどうなったの?」
『お前と我の一部となった。使ってみるがよい』
光が弾けた。
青空も、足元の水面も、すべてが真っ白な光の渦に飲み込まれていく。
身体がフワリと浮き上がる感覚とともに、僕はゆっくりと目を開いた。
◇◆◇
最初に感じたのは、清潔で乾いたシーツの手触りだった。
鼻をくすぐるのは、ほのかな薬草の香り。それに混じって、僕がよく知っている甘く香ばしい焼きたてのパンの匂いがする。
どうやら、あの隙間風だらけの馬小屋ではなく、マーサおばさんの家のベッドに寝かされているらしい。
窓から差し込む夕日が一筋、部屋の中をオレンジ色に染めていた。
視線を横へ向ける。
そこには、泣きじゃくるリリアがいた。
ベッドの端に突っ伏し、僕の右手を両手でぎゅっと握りしめている。栗色の髪は乱れ、細い肩がかすかに震えていた。
「……んぐっ……ぐすっ……」
小さな嗚咽が聞こえる。
あの凄まじい力の奔流の中で僕が倒れたあと、彼女がどれほど怖くて、どれほど心配したのか。それが、震える指先から痛いほど伝わってきた。
僕は乾いた唇を開き、できるだけ優しい声を出した。
「ただいま」
リリアの肩がビクッと跳ねた。
ゆっくりと顔を上げる。
その瞳は真っ赤に腫れ、大きな涙の粒が次から次へとこぼれ落ちていた。
僕が目を覚ましているのを確かめると、リリアは何かを言おうとして口を開く。けれど声にならず、何度も何度もうなずいた。
「うん、うん……」
次の瞬間、リリアは僕の胸元へ顔を埋めた。
「ガイアくん……!」
わあっと声を上げ、そのまますがりついてくる。
僕は痛みの消えた左手をそっと伸ばし、震える背中を優しく撫でた。
柔らかな髪の感触。
腕の中から伝わってくる、リリアの温かな体温。
それが、僕がちゃんと現実の世界へ帰ってきたことを教えてくれた。
世界がどうなるとか。
神の復活がどうだとか。
そんな途方もない話は、今だけは頭の隅へ追いやってしまおう。
今は、この温かさだけでいい。
僕は泣き続けるリリアの背中を撫でながら、しばらくそのまま彼女を抱きしめていた。
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