第12話 神殿の目
【神殿の目視点】
私は目。
そう、神の目だ。
かつて遥かな高みからこの世界を慈しみ、すべてを見通していた二つの水晶体。その片割れである。
愚かな人間たちの刃によって肉体が砕かれ、大地へ墜落して幾星霜。私の半身は今、大陸の中央にそびえ立つ白亜の神殿、その最奥に祭られていた。
天井の高い礼拝堂には、常に甘く重い乳香の煙が漂っている。色鮮やかなステンドグラスから差し込む光が、冷たい石の床へまだらな模様を描いていた。
祭壇の上に鎮座する私へ向けて、純白の法衣をまとった人間たちが、毎日のように狂信的な祈りを捧げている。彼らは自らの肌へ鞭を打ち、血を流し、その痛みによって神の奇跡を呼び起こそうとしているらしい。
滑稽なことだ。
親を殺した手で血を流し、どの口で愛を求めるのか。
私は祭壇の闇の中で静かにまどろんでいた。遠くない未来に訪れるべき、完全なる復活の時を待ちながら。
――そのときだった。
『……っ!』
唐突に、虚空から鋭い痛みが走った。
物理的な傷ではない。遥か遠くの地脈を伝わり、私の意識の奥底へ直接叩き込まれた強烈な衝撃だった。
焼け焦げるような苦痛。そして、つながっていたはずの魂の端が無惨に引きちぎられたような、激しい喪失感。
私の一部である指が、やられた。
まだ完全に目覚めてはいなかったが、辺境の森の奥深くに身を潜め、少しずつ力を蓄えていたはずの左の小指。
それが何者かによって砕かれ、あろうことか別の力へ取り込まれ、沈黙したのだ。
アイフェリア王国。
その国境近くにある、神の肋骨で造られたクーデの街。
あの森の奥で、異変が起きた。
(クーデの街に、何かいる)
単なる人間の冒険者や、帝国の掘削機械などが神の部位を滅ぼせるはずがない。たとえ物理的に外殻を傷つけられたとしても、魂ごと消滅させるには到底至らないからだ。
だとすれば、考えられる可能性は一つしかない。
私は神の目の力で、千里眼を発動する。
意識が肉体の殻を抜け出し、音もなく空へ昇った。視界が一気に開け、眼下に広がる醜悪な世界が手に取るように見え始める。
神の血を燃やし、真っ黒な煤煙を吐き出し続ける機械化帝国の空。
神の白骨が風雪に削られて連なる、天険の山脈。
それらを飛び越え、私の視線はアイフェリア王国の辺境へと向かった。
緑豊かな大地の中に、ひときわ白く輝くクーデの街が見える。街の広場を血晶車が走り、蟻のような人間たちが蠢いている。
私はさらに視線を鋭くし、街の周囲を囲む森を、広場の石畳を、一軒一軒の白い家を、なめるように探り直した。
指を滅ぼし、その力を奪った存在を見つけ出すために。
だが、何も見えない。
街の風景や人間の姿は、はっきりと映る。しかし肝心の『力』の発生源にだけ、まるで濃密な黒い靄がかかったように視界が歪んでしまう。
視線を向けようとすればするほど靄は形を変え、私の千里眼を滑らせていった。
(……なるほど)
おそらく、同種の何かによる妨害だろう。
神の力は、神の力でしか相殺できない。私と同じように、どこかで目覚めた神の部位がクーデの街に潜んでいる。
そして、それが無意識のうちに私の視線を弾き、自らの存在を隠しているのだ。
心臓か。
それとも、脳の欠片か。
いずれにせよ、指を取り込み、その圧倒的な力を隠し通すほどの強大な部位であることは間違いない。
直接見ることができないのであれば、手駒を使うまでだ。
私はまばたきを繰り返した。
パチリ、パチリ、と。
それは、僕たる人間を呼ぶときの合図である。
私は目。
声帯を持たず、言葉を発することはできない。
だから人間には、瞬きで言葉を伝える。規則的に、あるいは不規則にまばたきを繰り返す。その回数と間隔のわずかな違いが、彼らの脳へ直接『神託』として刻み込まれる仕組みだった。
重々しい音を立てて、礼拝堂の奥にある祭壇の扉が開かれた。
純白の法衣をまとった教会の高位神官が、床に額をこすりつけるようにして這い進んでくる。
「おお……おおおお! 神の御眼が、私をお呼びになられた……!」
神官は歓喜の涙を流し、そのしわがれた声に狂おしいほどの熱を帯びさせていた。
私は冷ややかに彼を見下ろしながら、ゆっくりとまばたきをする。
『アイフェリア王国、クーデの街を調べよ!』
私の瞬きが発した意思を受け取り、神官の身体がビクンと大きく跳ねた。
「ク、クーデの街……でございますね! あのような辺境の地に、いかなる不浄が潜んでおるというのか……。かしこまりました。ただちに教会の異端審問官を派遣し、徹底的に調べ上げましょう!」
人間は深々とかしこまり、祈りを捧げると退出した。
再び重い扉が閉まり、祭壇には乳香の煙と静寂だけが残される。
私は薄くまぶたを閉じ、思考を巡らせた。
他の指は温存することにした。
まだ目覚めきっていない残りの指をむやみに動かせば、クーデに潜む未知の部位によって、同じように各個撃破される恐れがある。まずは人間たちを使い、同種の正体を見極めるのが先決だ。
それにしても。
(……忌々しい)
指を一本失ったことは痛かった。
神の部位は、たとえ散り散りになっていようとも、根源ではすべてがつながっている。小指の喪失は、私自身の魂の一部を削り取られたことと同じだった。
今もまだ、幻肢痛のような鈍い痛みが意識の奥底でくすぶっている。
私は再び目を開き、暗い祭壇の中からステンドグラスの光を見つめた。
人間たちは、神の復活を願って祈っている。
だが、彼らが思い描いているのは、自分たちの都合のいい『奇跡』を与えてくれる、都合のいい神の姿に過ぎない。
私たちが求めているのは、そんな生ぬるいものではない。
再び一つとなり、完全な存在として復活すること。
そして――。
この醜い世界は、浄化せねばならない。
私たちの死体を資源として貪り、腐った肉の上に国を築き、我が物顔で蠢く人間ども。
彼らをすべて掃討し、この穢れた大地を無に帰す。
そして、世界を新しく作り直す。
それこそが、かつて彼らを愛した私たちが与える、最後の慈悲なのだから。
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