第6話 リリア、冒険者になりたい
【冒険者の少年ガイア十六歳視点】
ひんやりとした朝の空気が、薄い毛布の隙間から忍び込んできた。
「さむ……」
僕は身震いして身体を丸め、それからゆっくり目を開けた。
視界に入ったのは、神の骨を削り出して造られた立派な天井――ではない。
そこら中にひびが入り、板と板の間から朝の光が細く差し込む木の屋根だ。鼻をつくのは、乾いた藁と染みついた古い獣の匂い。
ここはクーデの街外れにある、今は使われていない古い馬小屋だった。
十六歳になって独り立ちしたものの、まともな部屋を借りる金なんて僕にはない。
その点、この馬小屋はすごい。
なんと家賃無料。
隙間風は吹き放題。ベッドは干し草。水は裏の共同井戸。
設備については、まあ、考えないことにしている。
雨風がしのげて、タダで眠れる。
それだけで十分だ。
「よいしょっと」
僕は干し草の山から起き上がり、大きく背伸びをした。
共同井戸の冷たい水で顔を洗い、昨日買っておいた白骨パンを取り出す。
少し固いパンをかじると、噛むほどに小麦の甘みが広がった。冷えた腹へ、ゆっくり力が戻ってくる。
昨日、冒険者&傭兵ギルドでもらった報酬は銅貨十二枚。
そのうち二枚を朝飯に使った。
残り十枚。
(今日は何の依頼を受けようかな)
森へ行けば、またゴブリンの討伐証明を取れるかもしれない。
でも、昨日受付のお姉さんが言っていたことが少し気になっていた。
森の浅い場所で、ゴブリンが増えている。
何かが森の奥で起きているのかもしれない。
「ガイアくん!」
「うわっ!?」
突然、馬小屋の入り口から声が飛んできた。
危うく白骨パンを落としかける。
顔を上げると、幼なじみのリリアが立っていた。
いつもなら、お母さんのパン屋を手伝うために白いエプロンを着けている。でも今日は違った。
動きやすそうなズボンに、革のブーツ。
ふんわりした栗色の髪も、いつもより少し高い位置でまとめている。
「ん? リリア、どうしたの。こんな朝早くから」
「あのね、ガイアくん」
リリアは胸の前で両手を握った。
表情が妙に真剣だ。
「あたし、決めたの」
「なにを?」
「あたし、冒険者になりたいの!」
「…………え?」
僕は止まった。
白骨パンを口へ運びかけた姿勢のまま、数回まばたきをする。
「冒険者?」
「うん」
「リリアが?」
「うん」
「魔物と戦う?」
「そう」
「いやいやいや! 絶対ダメだって!」
僕は慌てて立ち上がった。
昨日の光景が頭へ蘇る。
森の中。
倒れたリリア。
足へ絡みついた蔓。
その周囲を囲んでいた六匹のゴブリン。
怖くて震えていた姿も、泣いていた顔も覚えている。
それから――別のことも覚えているけれど。
あれは絶対に言わない。
「昨日あんな怖い目に遭ったばっかりじゃないか! 魔物は危ないんだよ? 爪は鋭いし、臭いし、人間を見つけたら普通に襲ってくるんだから!」
「それは分かってるけど……」
「マーサおばさんだって絶対に許さないよ。リリアは街でパンを焼いてればいいんだ。冒険者なんて、血の気の多い馬鹿がやる仕事だよ!」
「ガイアくんのことも馬鹿って言ってるわよ、それ」
「…………」
痛いところを突かれた。
確かに僕も冒険者だ。
でも、好きで危険な場所へ行っているわけじゃない。
生きるため。
そして、明日の飯代を稼ぐため。
胸の中に神の心臓があって、魔法を使えるから何とかなっているだけで、本音を言えば死にそうな仕事なんてしない方がいい。
「でも僕は仕方なく――」
「ガイアくん」
リリアが静かに名前を呼んだ。
さっきまでの勢いが消えている。
彼女は馬小屋の中へ入り、僕の前まで歩いてきた。
「昨日ね、本当に怖かったの」
「……うん」
「あのまま死んじゃうって思った」
リリアは自分の胸元へ手を置いた。
「あたし、何もできなかった。逃げることも、戦うこともできなくて、ただ怖くて震えてただけだった」
小さく息を吸う。
「でも、ガイアくんが来てくれたでしょう?」
「うん」
「あたしと魔物の間に立ってくれた」
リリアの目が少しだけ細くなる。
「あのとき、すごく安心したの。もう大丈夫なんだって思えた」
それから、彼女は少し照れたように笑った。
「それに、あの青白い光の矢。すごくきれいだった。夜空から星が落ちてきたみたいで……あたし、ずっと頭から離れないの」
僕は思わず眉をしかめた。
きれい。
あれを見たリリアには、そう見えたのかもしれない。
でも僕にとっては違う。
地面の奥に眠る神の神経へ意識をつなぎ、力を無理やり引き出す。
それだけで、頭の中を焼かれるような痛みが走る。
普通の人間なら、神の残した思念に触れただけで心を壊すこともある。
「あれは、そんなにきれいなものじゃないよ」
「え?」
「危険なんだ。魔法は大地の地脈から力を借りる。でも、下手をすると自分の心まで壊れる」
「……そうなの?」
「うん。だから、簡単に使おうとしちゃダメだ」
リリアはしばらく黙った。
これで少しは怖くなってくれたかと思った。
けれど、顔を上げた彼女の目には、まだ同じ光が残っていた。
「それでも、あたしやりたい」
「リリア」
「昨日みたいに、ただ怯えてるだけなのは嫌なの」
声は小さい。
でも、はっきりしていた。
「昨日はガイアくんに助けてもらった。でも今度は、助けてもらうだけじゃなくて、あたしも誰かを助けたい」
「……」
「自分の足で、ちゃんと立てるようになりたいの」
僕は何も言えなくなった。
普段のリリアは、おっとりしていて、よく笑う。
パン屋を手伝って、街の人と話して。
冒険なんて言葉とは、ずっと遠いところにいる子だと思っていた。
でも昨日。
死ぬかもしれない恐怖を知った。
そして誰かに助けられる安心も知った。
それが、リリアの中で何かを変えたらしい。
(参ったな……)
僕は大きく息を吐き、後頭部をガシガシとかいた。
冒険者にさせたいとは思わない。
今でも思わない。
でも――。
昨日、受付のお姉さんが言っていた言葉が浮かぶ。
森の浅い場所まで、ゴブリンが出てきている。
もし魔物が今より街へ近づいてくるなら、リリアにも自分の身を守る手段くらいは必要かもしれない。
剣を振るう必要はない。
魔法だって、戦うためだけのものじゃない。
まずは、才能があるかどうかを見るだけなら。
「……分かった」
「本当!?」
リリアの顔が一気に明るくなった。
「待って。冒険者になるのを認めたわけじゃないよ」
「ええっ」
「自分を守る方法を覚えるのはいいって言っただけ」
「でも、魔法を教えてくれる?」
「まだ教えるとは言ってない」
僕は人差し指を立てる。
「まず確認。誰でも魔法を使えるわけじゃないんだ」
「そうなの?」
「地脈の力を感じ取れるかどうかには、かなり個人差があるからね」
リリアは真剣な顔で何度もうなずいた。
「じゃあ、どうするの?」
「簡単だよ」
僕は残っていた白骨パンを口へ放り込み、立ち上がった。
「まず、魔法が使えるか試してみよう」
「うん!」
リリアは花が咲いたみたいに笑った。
馬小屋の壊れた屋根から、朝の陽射しが差し込む。
白い光が舞う藁埃を照らし、冷えていた空気がほんの少しだけ温かくなった。
どうやら今日は、仕事を探しに行く前にやることができたらしい。
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