第4話 リリア
【リリア視点】
鼻を突く魔物の腐臭と、雷が落ちた後のような鋭い匂いが、薄暗い森の空気にまとわりついていた。
赤黒く濁った葉の隙間から、細い木漏れ日が差し込んでいる。苔むした倒木に腰掛けたまま、あたしはぼんやりと目の前の光景を眺めていた。
さっきまで死ぬかもしれないと思って震えていた足は、まだうまく力が入らない。湿ってしまったスカートの裾が肌に張りついて、ひんやりしている。
恥ずかしい。
できることなら、このまま土の中へ埋まってしまいたいくらいだ。
でも、それ以上に気になるものがあった。
目の前にいる、幼馴染の男の子だった。
ガイアくんは倒れたゴブリンのそばへしゃがみ込み、小さなナイフを動かしている。
グチャリ、と。
嫌な音がして、緑色の耳が切り離された。
「うっ……」
思わず顔をしかめる。
血と腐った肉の匂いが一段と強くなった。
なのにガイアくんは平然としている。怖がる様子もなければ、気持ち悪そうな顔もしない。ただパン屋で買い物でもしているみたいに、慣れた手つきで作業を続けていた。
「ねぇ、ガイアくん。ゴブリンの耳なんか切って、何してるの?」
「うん。もしかしたら、こいつらの討伐依頼が出てるかもしれないから。耳は討伐証明になるんだよ」
「とうばつしょうめい……」
「これをギルドへ持っていけば、お金をもらえるかもしれない」
「ふぅん……」
冒険者という言葉は知っている。
街には冒険者らしい人たちがたくさん出入りしているし、お母さんの店へパンを買いに来ることもある。
けれど、あたしは今までパン屋を手伝って暮らしてきただけだ。
魔物を倒して、その身体の一部を持ち帰ってお金にする。
そんな世界は、すぐ近くにあるはずなのに、どこか遠い場所の話みたいだった。
ガイアくんは切り取った耳を布へ包み、腰の袋へポイッと入れた。
その手を見ているうちに、さっきの光景がまた頭の中によみがえる。
青白い光。
空気を震わせて飛んでいった、五本の矢。
夜空の星をそのまま削り出したようにきれいで、それなのにゴブリンを一瞬で倒してしまうほど恐ろしい魔法だった。
(ガイアくんって……あんなことできたんだ)
小さい頃から知っている。
一緒に遊んだことだって何度もある。
あたしより少し背が低くて、いつもお腹を空かせていて、お母さんから形の崩れたパンを安く売ってもらっては大喜びしている男の子。
そのはずなのに。
今は少しだけ、遠い人に見えた。
「よし、終わった!」
ガイアくんが立ち上がり、いつものようにニッと笑った。
「さあ、帰ろう。マーサおばさんが心配してるよ」
差し出された手は、小さかった。
泥がついて、細かな傷もある。
さっきまで魔法を放っていた手とは思えないくらい、いつものガイアくんの手だった。
「……うん」
あたしは恐る恐る、その手を握った。
温かい。
それだけで、胸の奥に残っていた怖さが少しだけ溶けた。
◇◆◇
森を抜け、巨大な神の肋骨で造られた正門をくぐった途端、世界が明るくなった。
クーデの街には、いつものにぎやかな音が戻っている。
真っ赤な血晶車がカンカンと鐘を鳴らし、白い蒸気を吐きながら通り過ぎていく。頭上には抜けるような青空が広がり、神の骨を削って造られた白い家々が、陽の光をキラキラと反射していた。
街角からは、香辛料を焼く匂い。
それから、焼きたての小麦とバターの甘い香り。
ほんの少し前まで、腐った森の中で死ぬかもしれないと思っていたせいだろうか。
いつもなら何とも思わない街の匂いが、今日は泣きたくなるほど温かかった。
「リリアッ!」
「お母さん!」
広場へ出た途端、パン屋の奥からお母さんが飛び出してきた。
豊かな金髪を振り乱し、恰幅のいい身体で一直線に駆けてくる。
「リリア! ああ、リリア!」
「わっ!」
思いきり抱き締められた。
息が詰まりそうなくらい強い。
でも、お母さんの身体からするパン生地とバターの匂いに包まれた途端、我慢していたものが一気にこみ上げてきた。
「お母さん……ごめんなさい。心配かけて」
「ああ、無事でよかった……! 本当によかったよぅ……!」
お母さんは大粒の涙を流しながら、あたしの背中を何度も叩いた。
痛い。
でも、今日は文句を言う気にはなれなかった。
ひとしきり泣いてから、お母さんは顔を上げた。
今度はガイアくんへ向かっていき、その細い肩をガシッとつかむ。
「ガイア! アンタ、本当にこの子を助けてくれたんだね! ちっちゃいとか言って悪かったよ! アンタは立派な男だ! クーデの街で一番の英雄だよ!」
「いやいや、大げさだって、マーサおばさん。それより僕、腹ペコで死にそうなんだけど」
グウゥゥ。
ものすごく情けない音が鳴った。
あたしとお母さんは、同時にガイアくんのお腹を見る。
「……へへ」
ガイアくんが照れくさそうに笑う。
さっきまで六匹のゴブリンを相手にしていた人とは、とても思えなかった。
お母さんは涙を拭うと、今度は豪快に笑った。
「そうさね! 腹が減ってちゃ戦はできないよ! うちへお入り! ありったけのパンとシチューをごちそうしてあげるからね!」
「本当!?」
「娘の命の恩人に嘘ついてどうするんだい!」
「やった!」
ガイアくんの顔が、今日一番うれしそうに輝いた。
なんだか少し、おかしくなった。
◇◆◇
家の裏手にある小さな食堂。
丸いテーブルの上には、お母さんが腕によりをかけた料理が並んでいた。
厚く切った白骨パン。
魔物肉を柔らかくなるまで煮込んだ、湯気の立つブラウンシチュー。
それから、氷魔法で冷やした甘い果物水。
「ほら、どんどん食べなさい! 遠慮はいらないからね!」
「いただきます!」
お母さんが言い終わるより早く、ガイアくんはパンへ手を伸ばした。
ちぎる。
シチューへ浸す。
食べる。
またちぎる。
今度は大きな魔物肉と一緒に口へ放り込む。
「んんっ! うまい!」
カチャカチャと食器の音が途切れない。
あたしは自分のスープを木のスプーンですくいながら、思わず目を丸くした。
(あんな小さな身体の、どこに入るのかしら……)
ガイアくんは十六歳の男の子にしては小柄だ。
同い年のあたしから見ても、頭一つくらい背が低い。腕も足も細くて、知らない人が見たら年下だと思うかもしれない。
なのにゴブリンを六匹倒して。
今度はテーブルの料理を、一人で全部倒そうとしている。
こっちのほうが、さっきの魔法より不思議かもしれない。
「ぷはぁっ! 食った食った! 死ぬほど美味かった! ごちそうさま、マーサおばさん!」
しばらくすると、あれほど並んでいた料理がほとんど消えていた。
ガイアくんは膨らんだお腹を満足そうにさすっている。
「お粗末さま! まだ足りないなら、屋台の残りも焼いてやろうか?」
「いや、さすがにもうパンパンだよ。……さてと」
ガイアくんは椅子から立ち上がった。
そして壁へ立てかけてあった――。
物干し竿を、ひょいっと肩へ担ぐ。
(やっぱり、それ持っていくんだ……)
「じゃあ僕、ギルドへ行ってくるよ。せっかく討伐証明があるんだから、お金に換えてこないと」
「気をつけて行くんだよ。帰りにまた寄りな! 残ったパンを持たせてやるから」
「やった! ありがとう!」
ガイアくんは元気よく手を振り、そのまま食堂を出ていった。
向かうのは『冒険者&傭兵ギルド』。
街の人の話では、腕に自信のある冒険者や傭兵たちが集まり、魔物退治や護衛の仕事を引き受ける場所らしい。
あたしは行ったことがない。
今までは、行ってみたいと思ったことすらなかった。
なのに。
あたしはガイアくんが座っていた空っぽの椅子を見つめながら、そっと胸へ手を当てた。
森の中で感じた、逃げ場のない恐怖。
その中へ飛び込んできた、小さな背中。
そして指先から放たれた、星のような青白い光。
(あたしも……やってみたいなぁ。冒険)
自分で考えて、自分でびっくりした。
怖いことなんて大嫌いだ。
今日だって、あんなに怖くて動けなくなった。
お母さんのパン屋を手伝って、毎日同じ街で暮らしていく。それでいいと思っていた。
でも。
知らない場所へ行ってみたい。
自分の足で森を歩いてみたい。
誰かに助けてもらうだけじゃなくて、今度はあたしが誰かを助けられるようになりたい。
そんな気持ちが、胸の奥で小さく灯っている。
(ガイアくんなら……教えてくれるかな?)
あの魔法。
指から、青白い矢が飛び出すやつ。
(すごかったなぁ……)
窓の外を見上げる。
青い空を、巨大な飛行船がゆっくりと横切っていた。陽の光を浴びた船体が金色に輝き、その向こうには、あたしの知らない世界がどこまでも続いている。
神の骨でできた、この真っ白な街。
ずっとここだけが、あたしの世界だった。
でも今日。
ほんの少しだけ、その世界の外へ行ってみたいと思った。
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