第3話 娘を助けて下さい!
【冒険者の少年ガイア十六歳視点】
「リリア! リリアはいないかい!?」
悲痛な叫び声が、昼下がりの穏やかな広場に響き渡った。
焼きたてのパンの香りと、血晶車の鐘の音でにぎわっていた街の空気が、一瞬で凍りつく。
声の主は、近所に住むマーサおばさんだった。いつもなら豪快に笑いながらパンを売っている彼女が、今日は髪を振り乱し、真っ青な顔で広場を駆け回っている。
昼飯代をどうやって稼ごうかと考えていた僕は、嫌な予感に背筋を粟立たせた。
「マーサおばさん、どうしたの? そんなに慌てて」
「ああ、ガイア! お願いだよ、娘を助けておくれ! リリアが……あの子がまだ帰ってこないんだ!」
「リリアが? どこへ行ったのさ」
「森だよ。朝早く、ちょっと木の実を採ってくるって出かけたきり、お昼になっても戻らないんだ。最近、森の奥に甘い実がなる場所を見つけたとか言ってて……!」
胸の奥が冷たくなる。
リリアは僕と同い年の十六歳で、小さい頃から一緒に育った幼馴染だ。おっとりした性格で、危険な場所へ喜んで首を突っ込むような子じゃない。
だが、この街を囲む森は普通の林とは違う。
太古に死んだ神の腐肉が吹き溜まり、黒い沼から異形の魔物が這い出してくる場所だ。陽の高いうちなら森の浅いところまでは比較的安全だが、甘い実を求めて奥へ入ったとなれば話は別だった。
「僕に任せて! すぐ見つけてくる!」
「バカ言わないでおくれ! 他の冒険者を連れていきな! ちっちゃいアンタに何ができるんだよ!」
駆け出そうとした僕の腕を、マーサおばさんがすがるようにつかんだ。
十六歳なら立派な成年だ。僕だって一応は冒険者である。
ただし、背丈は同年代より頭一つ低い。腕も細いし、立派な剣も鎧も持っていない。娘を助けに行く人間として頼りなく見えるのは、まあ仕方がない。
でも、他の冒険者を集めて討伐隊を作っている余裕なんてなかった。
「いいっていいって。じゃあ、これ借りるよ!」
「あっ、ちょっとガイア!」
僕はマーサおばさんの手を振りほどき、彼女の家の軒先へ走った。
壁に立てかけてあった物干し竿を一本つかむ。
神の骨から作られた剣なんて高価なものは持っていないけれど、よく乾いたこの木の竿なら硬さも長さも十分だ。使い込まれているおかげで、手にもよくなじむ。
「ちょっと借りるね!」
「それ物干し竿だよ!?」
マーサおばさんの叫びを背中で聞きながら、僕は石畳を全速力で駆けた。
巨大な神の肋骨で造られた正門を抜け、そのまま薄暗い森へ飛び込む。
◇◆◇
一歩足を踏み入れただけで、空気が変わった。
真昼だというのに森の中は薄暗く、ひんやりしている。頭上を覆う木々の葉は、大地の下に眠る神の血を吸っているためなのか、どれも赤黒く濁っていた。
湿った腐葉土を踏むたび、グチャリと嫌な感触が靴の裏へ伝わる。腐った草木の臭いに、甘い鉄のような臭いが混じって鼻を刺した。
生命に満ちた森というより、巨大な死体の腹の中へ迷い込んだような場所だ。
僕は物干し竿を両手で握り、獣道を急いだ。
(リリア……無事でいてくれよ)
焦っているからこそ、足音は殺す。
風の音。葉擦れ。枝のきしみ。
その中に魔物の足音が混じっていないか、耳を澄ませる。
太い根を飛び越え、顔へ伸びてくるトゲの枝を物干し竿で払いながら、さらに森の奥へ進んだ。
その時だった。
「きゃあああああっ!」
悲鳴が響いた。
「リリア!」
間違いない。
僕は地面を強く蹴った。
肺が焼けるように痛む。枝が頬をかすめ、ヒリッとした痛みが走った。それでも止まらない。
木々の間を抜け、開けた場所へ飛び出す。
「……っ!」
苔むした巨大な倒木を背にして、リリアが尻餅をついていた。
足首には太い蔓が絡みついている。逃げようとして転んだらしい。
そして彼女を囲んでいるのは、六匹の魔物だった。
緑がかった腐肉のような肌。
身体に比べて不自然に大きな頭。
濁った黄色い目。
腐った神の肉から生まれる、下級魔物――ゴブリンだ。
一匹が黄色い牙をむき出しにし、涎を垂らしながらリリアへ飛びかかった。
「リリアッ!」
僕は二人の間へ滑り込んだ。
物干し竿を両手で握り、下から思い切り振り上げる。
ゴキッ!
硬い木の先端が、ゴブリンの顎をまともに打ち抜いた。
身体が宙へ浮き、そのまま背中から地面へ叩きつけられる。
「ギィィィッ!」
残る五匹が、一斉にこちらを向いた。
さっきまでリリアへ向けられていた黄色い目が、今度は僕だけを見ている。
(六匹……いや、一匹はまだ生きてる。物干し竿一本じゃ、さすがに全部は無理だ!)
額から嫌な汗が流れた。
ゴブリンたちが半円を描き、じりじりと包囲を狭めてくる。爪を立て、喉を鳴らし、飛びかかる隙をうかがっていた。
その時。
『力がいるか?』
トクン、と。
胸の奥で、重い鼓動が鳴った。
地鳴りのような声が、頭の奥へ直接響いてくる。
肋骨という小さな檻の中で眠っていた神の心臓が、僕の危機に反応して目を覚ましたのだ。
急激に身体が熱くなる。
血管の中へ溶岩を流し込まれたような痛みが走り、指先が震えた。
「悪い。少し借りるよ!」
僕は短く答え、意識を足元へ沈める。
もっと深く。
土を越え、岩盤を越え、この大地の底へ。
そこには、太古に死んだ神の神経網が今も張り巡らされている。
この世界で『地脈』と呼ばれるもの。
僕はそこへ、自分の精神をつないだ。
「ぐっ……ああぁッ!」
全身を激痛が駆け抜けた。
頭の中を焼けた針で貫かれたような痛みに、奥歯を食いしばる。肌が一斉に粟立ち、指先からパチパチと青白い光が漏れた。
周囲の空気が震える。
鼻の奥へ、雷が落ちた直後のような鋭い臭いが突き刺さった。
普通の人間なら、神の残留思念に触れただけで精神を壊されるほどの力だ。
けれど、僕の胸には神の心臓がある。
暴れ回ろうとする力を押さえ込み、束ね、自分の魔力へ変えていく。
左手の指先へ、青白い光が集まった。
五つ。
夜空から星だけを削り出したような、鋭い光の塊だ。
「フゥゥ……ッ!」
僕は息を吐き、左手をゴブリンたちへ向ける。
五つの光が細く伸びた。
矢となる。
「いっけえぇッ!」
光が弾けた。
ヒュンッ、と空気を切り裂き、五本の矢が森を走る。
ドシュッ! ドシュッ!
ほとんど同時だった。
五本の光は、それぞれ五匹のゴブリンを貫き、その身体を後ろの木へ叩きつける。
悲鳴を上げる暇さえなかった。
魔力の光が消えると、ゴブリンたちは力を失い、腐った泥のように地面へ崩れ落ちた。
「へへっ、ファイブアロー決まったぜ!」
僕は額の脂汗を手の甲で拭い、ニヤリと笑った。
我ながら完璧だ。
「ギャアアッ!」
「あ」
忘れてた。
最初に物干し竿で殴り飛ばした一匹が、よろよろと立ち上がっている。
「おっと、お前がいた!」
仲間が一瞬で倒されたせいか、ゴブリンは完全に逆上していた。
奇声を上げ、爪を振り上げて突っ込んでくる。
僕は半身になって爪をかわした。
そのまま物干し竿を握り直す。
「そりゃっ!」
ガツン!
がら空きになった頭へ、真上から竿を叩き込んだ。
ゴブリンは白目をむき、その場へ倒れる。二、三度身体を震わせた後、今度こそ動かなくなった。
「ふう……危なかった」
大きく息を吐く。
森に静けさが戻ってきた。
残っているのは、鼻を突く魔物の腐臭と、魔法を使った後の焼けた空気の臭いだけだ。
胸の奥で荒れていた神の心臓も、役目は終わったと言わんばかりに、いつもの穏やかな鼓動へ戻っていく。
そうだ。
「リリア!」
僕は物干し竿を肩へ担ぎ、振り返った。
倒木の前では、リリアがまだ腰を抜かしたまま座っていた。
顔は真っ白だ。
大きな瞳には涙がいっぱいに溜まり、肩が小さく震えている。
足元には、転んだ拍子についた泥とは違う濡れた跡が広がっていた。
怖かったのだろう。
僕はそこを見なかったことにした。
「大丈夫? リリア。ケガはない?」
「あっ……あの……」
リリアは自分の服を見て、今度は顔を真っ赤にした。
ぽろぽろと涙をこぼしながら、それでも僕を見上げる。
「ガイアくん……ありがとう……」
「うん。もう大丈夫だよ」
僕はできるだけいつもの調子で笑った。
泣いている幼馴染の前で、余計なことを言う必要なんてない。
絡まった蔓を物干し竿で外してから、その場へしゃがみ込む。
「立てそう?」
「……まだ、ちょっと」
「じゃあ、ゆっくりでいいよ」
僕は彼女が落ち着くまで、震える背中をそっとさすった。
とりあえず、リリアは無事だった。
昼飯代を稼ぐ話は――まあ、街へ帰ってから考えよう。
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