第2話 空腹
【冒険者の少年ガイア十六歳視点】
「腹減った……!」
思わず口からこぼれた叫びは、どこまでも高く澄み渡る朝の青空へ吸い込まれていった。
グウゥ、と腹の虫が盛大に鳴る。昨晩のあの厳かな気負いは、一体どこへ消えてしまったのか。廃教会の屋根の上で夜風に吹かれながら、世界の命運を背負ったような顔をしていた自分を、今すぐ後ろから蹴り飛ばしてやりたい。
胸の奥に眠る神の心臓がどれだけ熱く脈打とうとも、僕の胃袋は空っぽだ。
僕は結局、腹を空かせた一人の人間なのである。
十六歳といえば、この世界では立派な成年だ。駆け出しとはいえ冒険者を名乗っている以上、自分の食い扶持くらい自分で稼がなければならない。
なのに手持ちの金は心許なく、腹は無慈悲に減っていく。
まぶしい朝の陽光が、純白の街並みをキラキラと照らしていた。
この街の家々は、どれも白く滑らかな壁でできている。太古に墜落した神の巨大な骨を削り出し、職人たちが磨き上げたものだ。遠くから眺めれば神話に登場する神殿のように荘厳だけれど、窓辺には色とりどりの洗濯物がはためき、平らな屋根の上では太った野良猫が大あくびをしている。
神の骨で造られた途方もない街も、そこに暮らす人々の生活によって、すっかり温かな日常の景色へと変わっていた。
石畳の通りへ出た途端、鼻先を暴力的なまでに香ばしい匂いがくすぐった。
焼きたてのパンだ。
パチパチとはぜる薪の煙と、溶けたバターの甘い香りが混ざり合い、僕の胃袋を容赦なく刺激する。その隣の屋台では、何種類もの香辛料をまぶした肉が、ジュウジュウと音を立てながら網の上で焼かれていた。
森の奥にある腐った沼から湧き出す、異形の魔物の肉である。
見た目はともかく、きちんと血抜きをして火を通せば、驚くほど脂が乗ってうまい。
「はい、いらっしゃい! 今日の魔物肉の串焼き、獲れたてで安いよー!」
「そこの兄ちゃん、焼きたての白骨パンはどうだい! 骨粉を練り込んでるから、骨が丈夫になるよ!」
威勢のいい商人たちの声が、朝の市場を飛び交う。
石畳の道を、小さな車輪を軋ませながら真っ赤な路面車が走っていった。神の血が結晶になった赤い鉱石を小さな炉で燃やし、白い蒸気を勢いよく吐き出しながら進む乗り物だ。
運転席の男が真鍮の鐘をカンカンと鳴らす。
「血晶車、次の便出るよー! 乗りたい人は急いで急いで!」
「母ちゃん、見て! 飛行船! すっげえでっかい飛行船が飛んでる!」
「こら、走ると転ぶよ! ちゃんと前を見なさい!」
母親に手を引かれた小さな男の子が、空を指さしてぴょんぴょん跳ねている。
僕もつられて空を見上げた。
雲一つない青空を、巨大な飛行船が悠然と横切っている。神の血の力で空へ浮かび上がった無骨な鋼鉄の船体には、赤や青の旗がいくつもはためいていた。
ポーッ、と遠くから汽笛が響く。
「すげえ……」
思わず立ち止まり、口を半開きにして見惚れてしまった。
機械仕掛けの巨大なクジラが、青い空の海を泳いでいるみたいだ。何度見ても胸が弾む。
広場の中央には、大きな噴水がある。その周囲には、神の肋骨を滑らかに削って作られた白いベンチが並んでいた。
近所の子供たちはそこへ腰を下ろし、氷の魔法でキンキンに冷やした果物水を飲んだり、冷たい菓子を頬張ったりしながら笑っている。
神の死体の上に築かれた街。
神の骨に腰を下ろし、神の血で車を走らせ、神の腐肉から生まれた化け物を串に刺して食べる人々。
昨晩、僕が思い描いていた世界は、おぞましく、陰惨で、途方もなく重苦しいものだった。
なのに今、目の前にあるのは、どこまでも明るく、温かく、そして呆れるほどたくましい人間の日常だった。
トクン、と。
胸の奥で小さな鼓動が鳴った。
僕の肋骨の内側に宿る、世界を滅ぼしかねない神の心臓だ。
昨晩はあれほど激しく、愛と怒りをないまぜにして燃え上がっていたくせに、今はまるで『お前、本当に世界をどうにかする気があるのか』と呆れているように、控えめな熱を放っている。
(またかよ……。分かってる。分かってるってば)
僕は胸元を手のひらでポンポンと叩いた。拗ねた子供をなだめるようなものだ。
帝国は神の遺産を燃料として貪り、教会は神の復活を夢見て血みどろの儀式を繰り返している。深い森に暮らす者たちは人間を憎み、神の眠りを守るために刃を向ける。
世界中の誰もが、神の力を求めている。
もし僕が、『実は僕の胸の中に神の心臓があります』なんて口を滑らせたら、どうなるか。
帝国には最高級の無限燃料として生きたまま解体されるだろう。
教会には生ける御神体として、一生神殿の奥へ閉じ込められるかもしれない。
だから僕は、この途方もない秘密を胸の奥へ隠し、ただの駆け出し冒険者として暮らしている。
――けれど。
世界がどうだとか。
神の怒りがどうだとか。
そんな重くて面倒な話は、全部後回しだ。
「まずは、今朝の飯だ……!」
ズボンのポケットへ手を突っ込み、指先で銅貨を数える。
三枚。
昨日、荷運びの仕事で汗水垂らして稼いだ、僕のなけなしの全財産だ。
白骨パンは銅貨二枚。
魔物肉の串焼きも銅貨二枚。
両方は買えない。
「くっ……!」
究極の選択だった。
僕は眉間に深いしわを寄せ、パン屋と肉屋の間で立ち尽くす。
「おいおい、そんなに真剣な顔してどうしたんだい? まるで世界の終わりみたいな顔してるよ」
「おばさん、真剣だよ! パンにするか肉にするか、僕の命と今日の活力がかかってるんだから!」
「大げさだねぇ。ほら、焼いてる途中で形が崩れちまったやつがある。おまけして銅貨一枚でいいよ」
「えっ、本当に!? おばさん最高! 神様よりすげえ!」
「バチが当たるようなことを言うんじゃないよ!」
恰幅のいいパン屋のおばさんは豪快に笑いながら、紙に包んだ熱々のパンを渡してくれた。
受け取った瞬間、焼きたての温もりが両手へ伝わる。
「ありがとう、おばさん!」
僕はそのまま隣の屋台へ駆け込んだ。
残った銅貨二枚を差し出し、甘辛いタレが香ばしく焦げる魔物肉の串焼きを一本手に入れる。
勝った。
今日は完全勝利だ。
広場へ戻り、神の骨でできた白いベンチの端へ腰を下ろした。
大きく口を開けて、まずパンへかじりつく。
カリッ、と軽い音がした。
外側は香ばしく、中は驚くほど柔らかい。噛むほどに小麦の素朴な甘さと、ミルクの濃い風味が口いっぱいに広がる。
続いて魔物肉へかぶりついた。
ピリッと舌を刺激する香辛料。その直後、熱い肉汁がジュワッと溢れた。
パンをもう一口。
肉をもう一口。
「んん――っ、うまっ……!」
思わず足をパタパタと揺らしてしまう。
腹の底へ温かなものが落ちていくたび、さっきまで死にかけていた身体に力が戻ってくる。
見上げれば、空はどこまでも青い。
飛行船は朝日を浴びながら遠ざかり、市場では商人たちが声を張り上げ、子供たちは噴水の周りを走り回っている。
世界は今日も騒がしく、たくましく動いていた。
いつか誰かが僕に『神になれ』と迫ってくる日が来るのかもしれない。
帝国が僕を捕まえようとする日も。
教会が僕を神として祭り上げようとする日も。
たぶん、いつか来る。
でも、そんな大層な使命なんて今は知ったことじゃない。
このカリカリのパン。
肉汁たっぷりの串焼き。
頬を撫でていく爽やかな朝の風。
今の僕には、そのほうがずっと大切だった。
「神様、悪いな」
胸元へそっと触れる。
トクン、と小さな鼓動が返ってきた。
この温かく重たい心臓が、どんな運命のために僕を選んだのかなんて知らない。
僕は僕のやり方で、今日という一日を生きるだけだ。
最後の一口を名残惜しく飲み込み、僕は勢いよく立ち上がった。
さて。
腹もいっぱいになった。
次は――今日の昼飯代を稼ぐため、仕事を探しに行かなくちゃ。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




