第1話 神
かつて、この世界には神がいた。
それは比喩でも、神話の中だけに存在する象徴でもない。確かな意思を持ち、触れれば火傷しそうなほどの体温を宿し、大地を二本の足で歩く存在だった。見上げれば空を覆い隠してしまうほど巨大な、紛れもない実体としての神々である。
彼らは、ひたすら人間という種族を愛していた。雨が降らなければ自らの血を流して大地を潤し、飢える者がいれば肉を与え、凍える者には巨大な掌で温もりを与えた。病に苦しむ者の痛みさえ、神々は自らの身へ引き受けたという。
無限の慈愛によって、脆弱で愚かな人類を守り続けた。外敵に傷つけられることもなく、飢えも寒さも知らず、失敗さえ許される永遠の安寧を与え続けた。
だからこそ、人間は神を殺した。
与えられるだけの愛は、やがて甘美な毒となった。守られることは檻となり、慈愛は逃れることのできない鎖へと変わった。
人間は、自らの足で泥の上を歩きたかった。転び、傷つき、それでも自らの手で不確かな未来を切り拓きたいと願った。
そして傲慢な子供たちは、無防備に微笑む親の首へ刃を突き立てた。
何百年、あるいは何千年続いたのか。それすら今となっては分からない。
血にまみれた長い闘争の果て、空を覆っていた最後の神は心臓を深く貫かれ、大地へと墜落した。
その瞬間、世界が揺れた。
山々は裂け、海は逆巻き、空は何日も赤黒く染まったという。神の断末魔とも、新しい時代の産声ともつかない地響きが大地の果てまで駆け抜けた。
それが、この狂った世界の始まりだった。
空を見上げれば、今でも神の死体が見える。
遥か彼方まで連なる天険の山脈は、大地に横たわった神の白骨だ。長い年月の風雪に削られ、苔に覆われながらも、切り立った岩肌のあちこちから巨大な肋骨や大腿骨の断面が覗いている。
雲海を突き抜ける白い塔は、神の頭蓋である。その頂はあまりにも高く、人間がどれほど首を反らしても見ることはできない。
神の死体は、そのまま世界の大地となった。
人々が日々踏みしめ、家を建て、畑を耕している黒い土も、かつては神の肉だった。長い時間をかけて崩れ、腐り、塵となり、今の大地へと変わったものだ。
さらに地中深くへ掘り進めれば、神の血が眠っている。
薄暗い鉱脈から掘り出される紅蓮の結晶。手のひらに載せれば、生き物のようにかすかな熱を放つ。ハンマーで砕けば、甘く錆びた鉄の匂いが鼻を刺す。
神の血が固まった、純粋な力の結晶だった。
人々はそれに群がった。
奪い、殺し、領土を広げ、やがて強大な国家を築いた。赤い結晶を炉へ投じれば、巨大な機械さえ動かすほどの力を得られたからだ。
神の骸を最も貪欲に喰らっているのが、大陸中央を支配する機械化帝国である。
帝都の空は、昼夜を問わず鉛色の煤煙に覆われている。神の血を燃やす炉からは熱風が吹き上がり、巨大な真鍮の歯車が重々しく軋む。地下では削岩機の轟音が絶えず響き、限界まで圧力を高めた蒸気が、甲高い悲鳴とともに配管から吐き出される。
熱せられた鉄。焦げた血。喉にまとわりつく煤。
帝都に暮らす者は、生まれたときからその味を知っている。
帝国にとって、神とは過去の遺物でしかない。
骨は削れば堅牢な建材となる。血は燃料となる。かつて世界を歩いた神聖なる肉体も、彼らの目には巨大な鉱山としか映らない。
神の骨で築かれた城壁の上を、鋼鉄の兵士が歩く。空には巨大な飛行船が群れをなし、新たな血の鉱脈を求めて大陸をさまよっている。
その姿は、死体に群がる蠅によく似ていた。
だが、神から得られるものは血と骨だけではない。
かつて巨大な肉体を巡り、生命を伝えていた神経網は、今も地底深くに張り巡らされている。
それが、この世界における魔法の正体だった。
魔法使いと呼ばれる者は、『地脈』と呼ばれる死んだ神経へ精神をつなぐ。そこに残ったわずかな力を引き出し、火を生み、風を操り、大地を揺らす。
魔法が使われると、青白い光の粒が空気に舞う。肌が粟立ち、鼻の奥には雷雨の前のような鋭い匂いが残る。
しかし、死んだ神の力を借りる代償は軽くない。
神経へ触れるたび、人間の頭には焼けた針を突き刺されたような痛みが走る。力を使いすぎれば、神の中に残った思念が人間の精神へと流れ込んでくる。
最後には自分が誰だったのかさえ忘れ、言葉を失い、ただ涎を垂らすだけの廃人になる。
それでも、人間は魔法を手放さなかった。
神が死んでも、すべての因果が清算されたわけではない。
陽の光が届かない森の奥。湿った谷底。かつて神の肉が腐り、黒い泥となって溜まった場所から、今も異形のものが生まれ続けている。
魔物である。
腐った肉と神の怨念が混ざり合った泥から、泡が弾けるように這い出してくる。全身から鼻が曲がるほどの腐臭を放ち、生きているものを見つければ、見境なく襲いかかる。
夜の森から響く咆哮は、獣の声とは違う。
どこか人間の悲鳴にも似ている。
まるで神を殺した者たちへ向けて、大地そのものが呪いの言葉を吐き続けているようだった。
人々は魔物を恐れ、神の骨で高い城壁を築いた。日が沈めば門を閉ざし、家族で身を寄せ合いながら朝を待つ。
そんな世界にあって、神の復活を信じる者たちもいる。
街の中央にそびえる白亜の神殿。その内側では純白の法衣をまとった信徒たちが、神の肉片や遺物を世界中から集めている。
甘く重い乳香の煙が漂い、天井の高い礼拝堂には透き通った賛美歌が響く。
だが、祈る者たちの瞳に宿るのは、静かな信仰だけではない。
狂気に似た熱がある。
彼らは人間が神を殺したことを『原罪』と呼ぶ。自らの肌へ鞭を打ち、血を流し、その痛みによって神の魂を呼び戻そうとする。
対して、文明の届かない深い森には、別の者たちがいる。
彼らは神を殺した人間を憎み、神の魂を復活させるのではなく、ただ静かに眠らせようとしている。
神の小さな骨を削って身にまとい、顔には泥と獣の血で複雑な模様を描く。彼らの歌は教会の華やかな賛美歌とは違う。低く、重く、大地の底から響いてくる弔いの歌だ。
彼らにとって、帝国も教会も同じである。
神の眠りを妨げる冒涜者なのだ。
森へ侵入する者があれば、槍の穂先は迷うことなく人間の喉へ向けられる。
神を資源として喰らう帝国。
神を蘇らせようとする教会。
神の眠りを守ろうとする森の民。
大地は今、神の骸を巡る終わりの見えない戦争の中にある。
誰もが自らの正義を掲げ、誰もが生きるために他者を殺す。神の血から生まれた赤い結晶の粉だけでなく、人間自身の温かい血までが大地を濡らし、乾いた土を泥に変えている。
だが、彼らは知らない。
帝国がどれほど深くまで巨大なドリルを突き立てても。
教会がどれほど狂おしく天へ祈っても。
森の民がどれほど侵入者を狩り続けても。
誰一人として知らない。
彼らが求め続けている、神の命の根源。
神の『心臓』が、今どこにあるのかを。
◇◆◇
冷たい夜風が、私の短い髪を乱暴に揺らした。
戦火で崩れた教会の屋根。その縁へ腰を下ろし、私は眼下に広がる街の灯りを眺めていた。遠くから帝国軍の蒸気機関が立てる鈍い金属音が聞こえる。その合間を縫うように、魔物の接近を警戒する見張りの笛が鳴った。
月明かりの下へ両手をかざす。
細い指。傷の残る掌。どこから見ても、ただの人間の子供の手だった。
トクトク、と。
胸の奥で鼓動が響いた。
人間の小さな心臓が刻む音ではない。
もっと深い。
もっと熱い。
燃えたぎる溶岩の塊が、我という小さな器の中で脈打っているような音だった。
鼓動が一つ鳴るたび、血管の奥を焼けるような熱が駆け抜ける。肌の下には淡い光が走り、油断すれば全身の毛穴から青白い輝きが漏れ出しそうになる。
我は胸の中央へ右手を押し当てた。
粗末な服の上からでも、熱が伝わってくる。
狂おしいほど温かく、残酷なほど力強い。
神は死んだ。
その身体は削られ、骨は城壁となった。
血は燃やされ、神経は魔法として引き裂かれた。
腐った肉から生まれた魔物は、今も大地を這い回っている。
人間は神の亡骸の上で暮らし、神の亡骸を奪い合い、神の亡骸を使って互いを殺している。
けれど。
神の心臓だけは、まだ死んでいない。
トクトク、と。
もう一度、胸の奥で音がした。
我はそっと目を閉じる。
夜風の中には、遠い工場から流れてきた煤と、焦げた神の血の匂いが混じっていた。甘い鉄の匂いを肺の底まで吸い込むと、胸の奥の熱がわずかに強くなる。
神の心臓は、ここにある。
かつて神を殺した、憎き人間たちの末裔。
その一人である――私の胸の中に。
すべてを抱き締めようとした神の愛と。
自らを殺した人間へ向けられた神の怒りと。
その両方を抱えた心臓は、今も静かに脈打っている。
いつか訪れる、目覚めの時を待ちながら。
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