第20話 シルーヴァ神聖国へ行こう!
【ガイア視点】
クーデの街外れにある古い馬小屋に、夜の静寂が降りていた。
ひび割れた木の屋根から細い月明かりが差し込み、干し草のベッドを淡く照らしている。容赦なく吹き込む隙間風は冷たいが、古い獣の匂いと乾いた藁の匂いにも、すっかり慣れてしまった。
僕は薄い毛布を胸まで引き上げ、目を閉じた。
昼間、ギルドの食堂で起きた騒動の疲れが、今頃になって身体の芯から押し寄せてきている。
ギルドでの事件は、教会の者が起こしたものらしい。
優しい僧侶の顔をして僕たちを眠らせ、不気味な手錠をかけて拉致しようとした男。
もし胸の奥の心臓が一部始終を見せ、小指の力を使って助けてくれなかったら、今頃僕は教会のどこかへ連れ去られていたに違いない。
「……はぁ」
ため息をついた瞬間、ふっと身体が浮き上がるような感覚があった。
視界が白く反転し、気がつけば、僕は見慣れた青空の下に立っていた。
足元には鏡のように空を映す水面が広がり、春の木漏れ日のような澄んだ風が吹き抜けていく。
僕の精神の奥底にある、神の心臓との対話の空間だった。
目の前には、赤い光の塊がぽつんと浮かんでいる。
太古に殺された神の心臓。
ドクン、ドクンと重々しい音を立てるそれは、僕がやってくるとわずかに明滅した。
『起きておるか、小さき器よ』
「寝ようとしてたところだよ。また君に呼ばれたってことは、何か話があるんだろ?」
『うむ。昼間の件だ』
心臓の声は地鳴りのように低く、だがどこか楽しげだった。
『我が左手の小指を使い、神殿の犬を退けたとはいえ、これで終わるわけではあるまい』
「……だろうね」
僕は足元の水面を見つめた。
歩くたびに静かな波紋が広がり、素足の裏に心地よい冷たさが伝わってくる。
クーデの街には、まだ教会の息がかかった者たちが潜んでいるかもしれない。それに、神殿の本部が諦めるとは思えなかった。
僕が神の小指を取り込んだことは、すでに彼らに知られているのだ。
「また刺客が来るのかな」
『間違いなくな。あの目玉の野郎は、昔からひどく臆病で執念深いのだ』
「目玉?」
『神殿の奥にふんぞり返っておる、神の目だ。あやつが我らを恐れ、人間どもを操って貴様を連れ去るか、殺そうとしておる』
神の目。
教会が崇め、奇跡の源として信仰している御神体の正体。
それが僕の胸にいる心臓と同じ神の部位だというなら、話の辻褄が合う。
同じ神の部位だからこそ、僕の存在に気づき、警戒しているのだ。
「どどどど、どうするんだよぉ?」
『案ずるな。待っていても埒が明かぬのなら、こちらから出向いてやればよいのだ』
「……出向くって?」
『神殿の本拠地へ向かうのだ。かの目玉が潜む、シルーヴァ神聖国へな』
僕は絶句した。
シルーヴァ神聖国。
大陸の中央東に位置し、巨大な白亜の神殿を構える教会の本拠地だ。
辺境のクーデからは、どれほどの距離があるのかも想像がつかない。
そこに、僕から行く?
「いやいやいや! 無理だって! 敵の本拠地に乗り込むなんて自殺行為だよ!」
『待てば、いずれ大軍が押し寄せるぞ。それに、我らが直接出向けば、目玉の力や企みを叩き潰すこともできよう。案ずるな。貴様には我が力と、取り込んだ小指がある』
心臓は赤い光を揺らしながら、自信たっぷりに告げた。
確かに、待っているだけで解決する問題ではない。
平穏に日銭を稼ぎ、美味しい串焼きと白骨パンを食べる日常。
それを守るためには、根本的な原因である教会の動きを止めなければならないのだ。
「……はぁ。分かったよ。行くしかないんだね」
『うむ。我らが一つに近づくための、記念すべき第一歩だ』
「僕はあんまりやりたくないけどなぁ」
心臓はそれに答えず、ただトクンと力強く脈打った。
光が弾け、僕の意識は再び現実の馬小屋へと引き戻された。
◇◆◇
翌朝。
僕はいつものように物干し竿を肩に担ぎ、クーデの街の広場へ向かった。
朝の澄んだ空気の中、商人たちの威勢の良い声が飛び交い、焼きたてのパンの甘い香りが漂っている。
噴水の前にある神の骨でできた白いベンチには、すでにリリアとアリカが座っていた。
「あっ、ガイアくん! おはよう!」
「遅いわよ、このアンポンタン! アタイを待たせるなんて百年早いわ!」
栗色の髪を揺らして微笑むリリアと、金糸の髪を揺らして怒るアリカ。
昨日から強引に仲間になった帝国ガンナーの少女は、今日も背中に黒光りするライフルを背負い、腕を組んでふんぞり返っている。
僕は後頭部をガシガシとかきながら、二人の前へ立った。
「おはよう、二人とも」
「それで? 今日はどこへ行くの? ゴブリン狩り? それとも、もっと強い魔物?」
アリカが目を輝かせて身を乗り出してくる。
リリアも、不安と期待が入り混じった顔で僕を見つめていた。
僕は大きく深呼吸してから、二人の顔を交互に見た。
「実はさ、ちょっと遠出しようと思って」
「遠出?」
「うん。シルーヴァ神聖国へ行こうと思うんだ」
二人の動きがピタリと止まった。
噴水の水音と、通りを走る血晶車の鐘の音だけが静かに響く。
「……シルーヴァ神聖国って、あの教会の本拠地の?」
「うん」
「なんでまた、そんなど真ん中へ?」
「ちょっと、神殿に用事があってさ」
僕が曖昧に笑うと、アリカは目を細め、リリアは信じられないという顔をした。
当たり前だ。
辺境の冒険者が、いきなり大国へ行くなんて言い出したのだから。
でも、僕には僕の日常を守る戦いがある。
「あたしも行く!」
最初に声を上げたのは、リリアだった。
「ガイアくんがどこへ行くにしても、あたしも一緒に行くよ。回復魔法、役に立つでしょ?」
「リリア……」
「ふ、ふんっ! アタイも行ってあげるわよ! 帝国のライフルの威力を、教会の連中にも見せつけてやるんだから!」
アリカも鼻息を荒くして立ち上がった。
なんだかんだ言って、二人ともついてきてくれるらしい。
巻き込むのは悪いと思ったけれど、正直なところ、一人で神聖国へ向かうよりはずっと心強かった。
神の心臓を巡る途方もない運命は、少しずつ、でも確実に動き始めていた。
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