第19話 神の目の怒り
【神殿の目視点】
私は目。
そう、神の目だ。
大陸の中央にそびえ立つ、白亜の神殿。その最奥にある薄暗い祭壇の中で、私は静かに虚空を見つめていた。
天井の高い礼拝堂には、今日も信徒たちが焚く甘く重い乳香の煙が漂っている。色鮮やかなステンドグラスを透過した光が、冷たい石の床へまだらな模様を落としていた。
私は自らの肉体をここから動かすことはできない。しかし、私の視線は神の血の力と祈りによって、遥か遠くの辺境の街クーデへとつながっていた。
手駒として派遣した異端審問官シモン。
彼の眼球を通して、私はすべてを見ていたのだ。
酸っぱい安酒と獣のような汗の臭いが漂う、むさ苦しいギルドのホール。
私の半身とも言える小指を滅ぼし、あろうことかその力を身の内に宿した忌まわしき異端。名誉戦士などという滑稽な称号を持つ、ガイアという名の十六歳の少年。
シモンの用いた『眠りの香』によって、標的の少年は抗う間もなくテーブルへ突っ伏した。周囲の人間たちも次々と白目を剥いて床へ崩れ落ちていく。
計画は完璧だった。あとはあの薄汚いガキに手錠をかけ、神殿の地下へ引きずり込み、生きたまま解剖して神の力を取り戻すだけだ。
シモンの手が、少年の細い左腕へ伸びた。
その瞬間。
『マジックアロー』
シモンの脳髄に響いた地鳴りのような声は、千里眼の繋がりを通して私の意識にも直接叩き込まれた。
(――なに?)
私が訝しむより早く、眠っているはずの少年の左手の、小指だけが不気味に跳ね上がった。
次の瞬間、シモンの視界――すなわち私の視界が、禍々しい赤黒い光に染まった。
圧倒的な熱量。
空間を消し飛ばすような轟音。
それは紛れもない、神の力そのものだった。
極太の光の矢がシモンの胸を貫き、分厚い石壁へ深々と叩きつけるのを、私はまるで特等席で眺めるように直視させられたのだ。
「……ッ!」
シモンの意識が途絶えた瞬間、私の千里眼も強制的に遮断された。
真っ暗になった視界の奥で、猛烈な幻痛が走る。
直接攻撃を受けたわけではない。だが、つながっていた視覚を力任せに引きちぎられ、雷に焼かれたような鋭いオゾンの臭いと、焦げた血の匂いが私の意識の奥底へこびりついて離れなかった。
(おのれ……おのれ、おのれおのれおのれ!)
私は祭壇の闇の中で、激しい怒りに打ち震えた。
あの左手の小指は、紛れもなく私の一部だったはずだ。かつては一つの肉体を共有し、この愚かな世界を愛した同胞。
それがどうだ。今はあの薄汚い少年の肉体の一部として成り下がり、あろうことかこの私へ向かって刃を向けたのだ。
いや、違う。
あれは小指単体の意思ではない。
少年の左手を動かし、魔法を放ったのは、もっと奥深くにある絶対的な意思だ。
あの少年の体。
胸か? 頭か?
そこに、小指を取り込み、己の力として支配するほどの強大な部位が潜んでいる。
なんという屈辱か。
私はすべてを見通す神の目だ。この穢れた世界を浄化し、新しく作り直す主導権は、私が握らねばならない。
それなのに、他の部位が私を出し抜き、少年の肉体を『器』として勝手に復活を遂げようとしている。
同族による裏切り。これほどの怒りがあろうか。
だが。
(……あれは、なんだ?)
燃え盛る怒りの奥底から、冷たい泥のように湧き上がってくる別の感情があった。
それは、神である私が決して抱くはずのない、最も惨めで屈辱的な感情。
驚愕。
そして――おびえだ。
シモンの視界を通して直面した、あの赤黒い光の奔流。
そこには、かつて私たちが持っていたような、人間への歪んだ慈愛など欠片もなかった。ただ純粋に他者を喰らい、ねじ伏せ、自らの力として取り込もうとする、果てしなく貪欲な意思。
神の部位は、互いに惹かれ合い、最終的には一つに融合して完全な復活を遂げる。
だが、融合には必ず『主』と『従』が存在するのだ。
自我の強い部位が、他の部位を吸収し、新たな人格のベースとなる。
もし、あの少年の胸に潜む部位が、私を吸収しに来たらどうなる?
肉体を持たず、この冷たい祭壇に縛り付けられている私は、少年の身体という自在に動く器を手に入れたあいつに抗えるのか?
(喰われる……)
私が主導権を握るのではない。
あちらの意思に飲み込まれ、私はただの『部品』として成り下がる。私が、私でなくなってしまう。
嫌だ。
そんなことは絶対に許されない。
私は恐怖を振り払うように、狂ったようにまばたきを繰り返した。
パチリ、パチリ、パチリ、パチリ!
規則的かつ不規則なリズム。
それは、僕たる人間たちを呼び寄せる、緊急の神託の合図だった。
重々しい音を立てて、礼拝堂の奥にある祭壇の扉が開かれた。
純白の法衣をまとった高位神官たちが、床に額をこすりつけながら何人も這いずってくる。
「お、おおお! 神の御眼が、これほどまでに激しくまばたきを……!」
「いかなる天啓でございましょうか! 我ら敬虔なる信徒に、何なりとお申し付けを!」
狂信的な熱を帯びた声が響く。
滑稽で哀れな人間ども。神の死体の上に寄生し、その死肉を貪りながら、自分たちこそが愛されていると信じて疑わない愚か者たち。
だが、今はこいつらの数と暴力が必要だった。
『教会の聖騎士団を動かせ。異端審問官シモンは倒れた』
私の瞬きが発した意思を受信し、神官たちが一斉に息を呑んだ。
『クーデの街に潜む少年を、ただの人間と思うな。あれは神を冒涜し、悪魔の力を宿した大いなる災厄である。手段は問わん』
私は恐怖をごまかすように、ありったけの憎悪と殺意を人間の脳髄へ叩き込んだ。
『クーデの街を包囲し、あの少年を、肉片一つ、灰の欠片すら残さぬほどに焼き尽くせ!』
「おお……承知いたしました! 直ちに最強の聖騎士団を編成し、悪魔に鉄槌を下しましょう!」
神官たちは涙を流し、歓喜に震えながら退室していった。
再び閉ざされた祭壇の扉。
乳香の煙と、静寂だけが残される。
私は薄くまぶたを閉じ、ステンドグラスの光を遮った。
私を喰らおうとする、同胞への怒りと恐怖。
それが消えることはない。
あの赤黒い光を放つ少年が完全にこの世から消し去られるまで、私はこの暗い祭壇の中で、震え続けるしかないのだ。
私は、集めていた『左手』たちを呼び寄せることにした。
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