第18話 一部始終
【ガイア視点】
魔物肉の串焼きを口へ運ぼうとした瞬間、甘く重い煙の匂いが鼻の奥をくすぐった。
乳香に似た、どこか神聖で、それでいてひどく暴力的な香り。それを肺の底まで吸い込んだ途端、僕の意識はプツンと糸が切れたように途絶えた。
視界がぐにゃりと歪み、身体から力が抜け、そのまま深い闇の底へ真っ逆さまに落ちていく。
次に目を開けたとき、僕は見覚えのある場所に立っていた。
果てしなく広がる澄んだ青空と、それを鏡のように映し出す足元の薄い水面。歩くたびに波紋が静かに広がり、春の木漏れ日のような清らかな風が吹き抜けていく。
かつて僕が強大な力に耐えきれず倒れたときに訪れた、僕の精神の奥底にある空間だった。
目の前には、ぽつんと浮かぶものがある。
脈打つ赤い光の塊だ。
太陽の欠片をそのまま削り出したかのようにまぶしく、狂おしいほどの熱を放ちながら、ドクン、ドクンと重々しい音を立てている。
太古に殺された神の心臓。
その霊体となった姿が、僕のすぐ目の前で赤い光を揺らしていた。
「……またここか」
僕がぼやくと、赤い光の塊はわずかに明滅した。
そして心臓は、僕の足元に広がる水面へ、一つの映像を鮮明に映し出した。
それは、僕がさっきまでいたギルドのホールの光景だった。
分厚い石壁に囲まれた食堂。
僕やリリア、アリカだけでなく、周囲で酒を飲んでいた巨漢の傭兵たちや受付のお姉さんまでが、皆一様にテーブルや床へ倒れ伏している。
その死んだように静まり返った空間を、一人の男が歩いていた。
純白の法衣をまとった、教会の僧侶らしき男だ。
顔には狂信的な冷笑が浮かび、その手には神の骨を加工したような不気味な手錠と縄が握られている。
そして男は、眠りこけている現実の僕の腕へ、手錠をかけようと手を伸ばしていた。
『むぅ。このままだと、我とお主が捕まるな』
「どどどど、どうするんだよぉ?」
『左手の小指を使おう。あそこは神であり、お主でもある。使うぞ』
「うっ、うん」
『マジックアロー!』
僕の胸の奥から響く地鳴りのような声と同時に、水面へ映る現実の僕の身体が反応した。
意識を失って突っ伏しているはずなのに、左手の小指だけが。
ピクン、と不気味に跳ね上がった。
真っ直ぐに、法衣の男の胸へ向けられる。
その瞬間、水面越しに見ていた僕の精神にまで、凄まじい熱が伝わってきた。
小指の先端に凝縮される、禍々しい赤黒い光。
それが空気を消し飛ばすような轟音とともに放たれた。
ズドォォォォンッ!!
極太の光の矢が男の胸を貫き、その身体をギルドの分厚い石壁へ激しく叩きつけた。
法衣が焼け焦げ、男は血を吐いて、そのまま動かなくなる。
現実の僕の左手は、赤黒い光の残りを漂わせながら、再びダラリと垂れ下がった。
水面が激しく波立ち、やがて静かな鏡へと戻っていく。
僕は大きく息を吐き出した。
眠らされている間に何が起こっていたのか。その一部始終を、僕は心臓に見せてもらったのだ。
あの不気味な手錠をかけられ、そのまま教会の人間に連れ去られていたら、ろくなことにはならなかっただろう。
どうやら、危ないところを切り抜けられたらしい。
『しばし、香の効果が切れるまで午睡でも楽しむがよい。また危機があれば起こそう』
「う、うん。頼むよ……」
赤い光の塊が、穏やかな明滅を繰り返す。
足元の水面から伝わる冷たさと、心臓が放つ温かな熱。
その心地よい狭間で、僕は言われた通り、再び深い眠りへと落ちていった。
◇◆◇
「いてっ!」
鋭い痛みが右頬を走り、僕は弾かれたように目を開けた。
「あっ、やっと起きた!」
視界に飛び込んできたのは、金糸のような髪を揺らし、不機嫌そうに僕を見下ろすアリカの顔だった。
彼女の指先が、僕の頬を思い切りつねり上げている。
「もう、アリカちゃん! そんなに強くつねったら可哀想だよ」
「だって、このバカ一人だけいくら揺すっても全然起きないんだもん! アタイなんて自力で一番に起きたのに!」
リリアが慌ててアリカの手を止める。
僕はジンジンと痛む頬をさすりながら、ゆっくりと上体を起こした。
周囲を見ると、ギルドの中はひどい有様だった。
倒れていた傭兵たちが頭を押さえながら呻き声を上げ、カウンターの奥では赤い髪の受付のお姉さんが、信じられないものを見たような顔で頭を抱えている。
僕の席のすぐ横にある分厚い石壁には、巨大なクレーターのような焦げ跡が穿たれていた。粉々になった石の破片が、床一面に散乱している。
焦げた血と、雷が落ちたあとのような空気の焼けた匂いが鼻を突いた。
そしてテーブルの上には、僕が食べるはずだった魔物肉の串焼きが、すっかり冷え切って転がっている。
「さっき、倒れてた神殿の人が運ばれていったよ」
リリアが僕の服の裾をそっと引きながら、小声で言った。
その瞳には、得体の知れないものへの怯えがにじんでいる。
「そうか……」
僕は短く答え、壁に残された大きな焦げ跡を見つめた。
純白の法衣を着た、神殿の人間。
そいつは眠りの香を使ってギルドにいた人たちを全員眠らせ、僕へ手錠をかけて連れ去ろうとしていた。
理由は、たぶん一つしかない。
僕が東の森で神の左手の小指を倒し、その力を心臓へ取り込んだからだ。
どうやら僕は、神殿に目をつけられたらしい。
神の部位同士は、どこかで惹かれ合い、あるいは互いの存在を感じ取ることができるのかもしれない。
このままでは、また教会の人間が僕を捕まえにやって来る可能性もある。
世界の命運だとか、神の復活だとか。
そんな途方もない運命には、相変わらず興味がない。
でも、僕のささやかな日常と、明日の飯代が脅かされるのなら話は別だ。
現に、楽しみにしていた串焼きは、すっかり冷たく硬くなってしまっている。
(……これは、あとで心臓と相談する必要がありそうだな。いちおう協力するって約束したもんな)
僕は冷え切った串焼きを手に取り、無念を噛み締めるように大きく口を開けた。
冷たくなった肉を噛み、喉の奥へ飲み込みながら、静かに決意を固める。
とにかく今回の件は、許せないことが多かった。
特に、串焼きを台無しにされたことは。
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