第17話 異端審問官シモン
【異端審問官シモン視点】
神の巨大な肋骨を削り出して造られた、アイフェリア王国の辺境に位置するクーデの街。
突き抜けるような青空の下、純白の家々が陽光を反射してまぶしく輝いている。石畳の通りには、甘く香ばしいパンの匂いと、真っ赤な血晶車が吐き出す蒸気の熱が入り混じっていた。
「さあ、お代は銅貨二枚だよ! 神の恵みに感謝しな!」
「母ちゃん、あっちに大きな飛行船が見えるよ!」
すれ違う人間たちは、誰もが屈託のない笑顔を浮かべている。
私は純白の法衣を身にまとい、行き交う人々へ向けて、穏やかで優しい僧侶の微笑みを絶やさずに歩き続けた。
だが、内心では吐き気を催すほどの嫌悪感が渦巻いている。
(なんと冒涜的で、おぞましい光景か)
神の白骨を削って家を建て、神の血を燃やして機械を走らせ、神の腐肉から生まれた化け物を食らう。
自らを愛してくれた親を殺し、その死体の上で寄生虫のように蠢く人間ども。
彼らは自分たちの罪深さに気づきもせず、のうのうと生を楽しんでいるのだ。
この醜い世界は、一刻も早く浄化せねばならない。
私は大陸の中央にそびえる白亜の神殿から派遣された、教会の異端審問官である。
数日前、祭壇の奥に鎮座する『神の目』から、直接的な神託が下った。
『クーデの街に潜む、神の小指を滅ぼした不浄を調べよ』
神の部位を滅ぼし、その力を奪うなど、ただの人間にできることではない。
しかし、情報収集は拍子抜けするほどあっけなく終わった。
街の広場や酒場の近くを少し歩いただけで、頭の悪い連中がペラペラと噂話をこぼしてくれたのだ。
『あの東の森で暴れていた巨大な怪物を倒したのは、名誉戦士のガイアだってよ』
『あんな小さな坊主がねえ。しかも物干し竿一本で魔法まで使ったって噂だぜ』
名誉戦士ガイア。十六歳の少年。
間違いなく、そいつが神の小指の力を奪い、身の内に宿している異端だ。
目標は確定した。
あとはそのふざけた冒険者を拉致し、神殿へ連れ帰って解剖する。そして神の力を取り戻せば、私の任務は完了する。
私は微笑みを貼り付けたまま、街の裏路地にある薄暗い建物――冒険者&傭兵ギルドへ向かった。
◇◆◇
酸っぱい安酒と、獣のような汗の臭いが漂うギルドのホール。
私は目立たない隅の丸テーブルへ腰を下ろし、冷たい木のジョッキを両手で包み込みながら、静かに息を潜めていた。
しばらくして、重い木の扉が開いた。
「いやー、あの魔狼、すっごく高く売れたね! これでしばらくは豪華なご飯が食べられるよ!」
「ふんっ、アタイのライフルのおかげなんだから、感謝しなさいよね! アンタのあの曲がる魔法、ちょっとはマシだったけど!」
「はいはい、ありがとう。リリアも回復魔法のおかげで助かったよ」
「えへへ……あたしも役に立ててよかった」
入ってきたのは、三人の子供たちだった。
物干し竿を肩に担いだ、ひどく小柄な少年。栗色の髪をしたパン屋の娘のような少女。そして、背中に帝国製の野蛮な銃を背負った金髪の小娘。
あの少年が、標的のガイアだ。
彼らは赤い髪の受付嬢からズッシリと重い革袋を受け取ると、そのままギルドに併設された食堂のテーブルへ陣取り、さっそく祝いの宴を始めやがった。
「すいませーん! 魔物肉の串焼きを十本! あと冷たい果物水も!」
「アタイは一番高い肉のステーキにしてよね!」
神の力の一部を宿しておきながら、その自覚も畏れもない。
ただその日暮らしの飯代を稼いで喜んでいるだけの、愚かでちっぽけな存在。
あのような器に神の部位が囚われていること自体が、最大の冒涜だ。
(クックック……ちょうどいい。ここは分厚い石壁と扉に囲まれた密閉空間。アレを使って、さっさと終わらせるか)
私は法衣の袖口に隠し持っていた、小さな香炉を取り出した。
そして、あらかじめ小瓶に入れておいた解毒剤を喉の奥へ流し込む。苦い薬液が腹の底へ落ちるのを確かめてから、香炉の蓋を開けた。
シュボッ、と小さな火を種火へ落とす。
異端審問官が用いる、特製の『眠りの香』だ。
極めて即効性が高く、どれほど屈強な戦士や強大な魔力を持つ魔法使いであろうと、ひとたび肺へ吸い込めば、数秒で意識を刈り取られる。
乳香に似た甘く重い煙が、ギルドの喧騒と汗の臭いに紛れ、空気の流れに乗ってホール全体へ広がっていった。
「……ん? なんだか、いい匂いが……」
「おい、急に眠気が……おい……」
効果はてきめんだった。
ドサッ、バタンッ。
周囲のテーブルで酒を飲んでいた巨漢の傭兵たちが、次々と白目を剥いて床へ崩れ落ちる。カウンターの奥にいた受付嬢も、羊皮紙へ突っ伏して動かなくなった。
そして、食堂のテーブルにいた標的たちも。
「あれ……? ガイアくん……なんか、目が……」
「アタイ……まだ、お肉……」
少女たちが次々とテーブルへ倒れ込む。
「なんだ、これ……眠……」
串焼きを口へ運ぼうとしていたガイアも、抗う間もなく、糸が切れたようにテーブルへ突っ伏した。
騒がしかったギルドが、嘘のように静まり返る。
聞こえるのは、あちこちから漏れる無防備な寝息だけだ。
「……愚かな虫どもめ。神の罰とも知らず、永遠のまどろみへ落ちるがいい」
私は顔に貼り付けていた優しい僧侶の仮面を剥ぎ取り、冷酷な異端審問官の素顔をさらした。
法衣の奥から、神の骨を特殊な術式で加工した対魔力用の手錠と、頑丈な縄を取り出す。これを使えば、どれほど強力な力を持っていようとも、魔法を封じることができる。
ゆっくりと、ガイアの眠るテーブルへ歩み寄った。
少年の顔はあどけなく、口の端には肉のタレがかすかについている。
(こんなガキが、神の小指を……。まあいい。このまま袋詰めにして、神殿の地下へ引きずり込んでやる)
私は冷たく笑い、手錠を開いて少年の細い左腕へ手を伸ばした。
――その時だった。
『マジックアロー』
「……なっ!?」
私の脳髄へ、地鳴りのような恐ろしい声が直接響き渡った。
声帯から発せられたものではない。
少年の胸の奥から、絶対的な意思を持った『何か』が、私の中にある神殿の目の加護を威圧するように言葉を放ったのだ。
寝ているはずのガイアの身体は、微動だにしていない。
だが。
彼の左手の、小指だけが。
ピクン、と不気味に跳ね上がり、真っ直ぐに私の心臓へ向けられていた。
(馬鹿な! 意識は完全に刈り取られているはずだ!)
小指の先端に、禍々しい赤黒い光が凝縮していく。
圧倒的だった。
ただの一指から放たれようとしている魔力とは到底思えないほどの、空間すら歪ませる巨大な熱量。
それが神の力そのものだと気づいたときには、すべてが手遅れだった。
よける間もない。
防御する術もない。
ズドォォォォンッ!!
小指から放たれた極太の赤黒い光の矢が、空気を消し飛ばすような轟音とともに私の胸を貫いた。
「ガハッ……!」
激痛すら感じる暇がなかった。
私の身体は後方へ激しく吹き飛ばされ、ギルドの分厚い石壁へ深々と叩きつけられる。法衣が焼け焦げ、骨が砕ける嫌な音が頭蓋の内側で響いた。
「あ、ぐ……」
床へ崩れ落ち、血の混じった咳を吐き出す。
薄れゆく視界の先。
少年はまだ、静かに寝息を立ててテーブルへ突っ伏している。
ただ、その左手だけが。
主の意思など関係なく、不気味な赤黒い光の残りを漂わせながら、ダラリと垂れ下がっていた。
(あれは……人間ではない。神の……)
私は震える手を伸ばそうとして、そのまま意識を深い闇の底へ引きずり込まれた。
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