第16話 魔狼
【ガイア視点】
巨大な神の頭蓋骨を背にして、僕たちは薄暗い北の森を進んでいた。
頭上を覆う葉は赤黒く濁り、陽の光をほとんど通さない。湿った腐葉土を踏みしめるたび、靴の裏に嫌な粘り気がまとわりつく。鼻を突くのは、腐った草木と甘ったるい鉄の匂いだ。
ここは神の腐肉が吹き溜まり、魔物が生まれる忌まわしい場所である。
「ちょっと! アンタたち、遅いわよ! こんなんじゃ魔物に逃げられちゃうじゃない!」
先頭をズンズンと歩いているのは、つい先ほどギルドで勝負を吹っかけてきたガンナーの少女、アリカだ。
腰まである金糸のような髪を揺らし、振り返って僕たちを急かす。その背中には、彼女が誇る帝国の最新鋭武器――神の血を燃やして弾丸を撃ち出す、黒光りするライフルが担がれていた。
「そんなに急いでも、魔物の方が寄ってくるだけだと思うけどなぁ」
「そうですよぉ……。それに、あんまり大きな声を出したら危ないです……」
僕がぼやき、後ろを歩くリリアが怯えたように周囲を見回した。彼女は新しい革のブーツを泥で汚さないよう、慎重に歩幅を合わせている。
アリカはフンと鼻を鳴らし、腰に手を当てて胸を張った。
「寄ってきたら、アタイのライフルで撃ち抜くだけよ! アンタたちのその貧相な棒きれと、どんくさそうな足手まといのお嬢ちゃんなんかより、よっぽど役に立つんだから!」
「足手まとい……」
リリアがショックを受けたように肩を落とした。
僕は物干し竿を肩へ担ぎ直しながら、やれやれとため息をつく。
帝都から来たこの強気な少女は、とにかく僕たちの実力を信じていない。ギルドで一番強いヤツと組むと言い張り、僕たちが『名誉戦士』だと知ると、魔物狩りの勝負を挑んできたのだ。
狙うのは、この北の森に群れをなしているゴブリン。
討伐証明の耳を集めれば飯代になるので、僕としても悪い話ではない。
ザッ、と。
前方の茂みから、かすかな葉擦れの音が聞こえた。
「……ストップ」
僕は足を止め、左手で二人を制止した。
風向きが変わる。
いつも森を漂っている腐肉の臭いに混じって、生々しい血の匂いがツンと鼻を刺した。それも、かなり新しい。
「なによ、もうビビったの?」
「静かに。何かいる」
僕のただならぬ様子を感じ取ったのか、アリカも口を閉ざした。
三人で身をかがめ、巨大な倒木の陰から前方の開けた空き地をのぞき込む。
そこにいたのは、僕たちが探していた緑色の魔物――ゴブリンだった。
だが、様子がおかしい。
五、六匹のゴブリンたちが無惨に引き裂かれ、赤黒い地面へ転がっている。
そして、その中心で。
ゴブリンの肉をガツガツと貪り食っている、巨大な影があった。
「あれは……」
暗闇に溶け込むような、漆黒の毛並み。
馬ほどもある巨大な四つ足の獣だ。筋肉の隆起した背中には鋭い棘が並び、振り返ったその瞳は、神の血の結晶よりも深く禍々しい赤色に染まっていた。
顎から緑色の血を滴らせ、喉の奥から地鳴りのような唸り声を上げている。
「魔狼だ……」
僕の呟きに、リリアが息を呑んで服の裾を強く握った。
北の森でも滅多に見かけない、強力で凶暴な魔物。素早い動きと鋭い牙で、冒険者の小隊を全滅させることもあるという厄介な相手だ。
「ふん、ちょうどいいじゃない! あんなの、アタイのライフルで一撃よ!」
アリカは少しも怯むことなく、背中から黒光りするライフルを下ろした。
ガチャリ、と重々しい金属音を立てて弾薬を装填する。彼女は倒木の上に銃身を乗せ、赤い瞳の魔狼へ狙いを定めた。
「帝国の技術の恐ろしさ、その目に焼き付けなさい!」
引き金が引かれる。
ズドォォォンッ!!
空気を引き裂くような轟音が森に響き渡った。
銃口から赤い炎が噴き出し、焦げた血の匂いが周囲へ散る。
だが、魔狼はすでにそこにはいなかった。
銃弾が着弾するほんの一瞬前、巨大な獣はバネのように後方へ跳躍していたのだ。弾丸は魔狼がいた地面を深くえぐり、土砂を撒き散らすだけに終わった。
「なっ……!?」
アリカが目を見開く。
グルルルルゥッ!
魔狼が赤い瞳を細め、僕たちの方を睨みつけた。食事を邪魔された怒りに満ちた咆哮が、ビリビリと空気を震わせる。
「くっ、ちょこまかと……!」
アリカはすぐさま次弾を装填し、連続して引き金を引いた。
ズドン! ズドン!
連続する轟音。
しかし、漆黒の獣は森の木々を蹴って縦横無尽に跳ね回り、すべての弾丸を紙一重でかわしていく。その巨体からは想像もつかないほどの俊敏さだった。
「もうっ、じっとしててよ、この犬!」
焦ったアリカが悲鳴のように叫ぶ。
弾を外すたびに、魔狼は確実にこちらとの距離を詰めてきていた。あと数秒もすれば、鋭い爪が僕たちを切り裂くだろう。
(やるしかない……!)
僕は物干し竿を右手に持ったまま、一歩前へ出た。
意識を大地の底、神の神経網である地脈へつなぐ。
トクン。
胸の奥で、神の心臓が穏やかに鼓動した。
いつもなら、魔力を引き出すたびに血管へ溶岩を流し込まれるような激痛が走る。
だが、今日は違った。
あの神の小指を取り込んでからというもの、魔法の発動が驚くほど楽になっているのだ。まるで地脈の力が、僕自身の血肉の一部になったかのように自然に流れ込んでくる。
(でも、全力でやるとまた地形が変わっちゃうからな)
昨日、ゴブリンをまとめて消し飛ばしたときのことを思い出す。
小指から放たれた魔法の威力は、異常だった。
僕は左手を前へ突き出し、魔力の出力を慎重に調整した。
「左小指だけ抑えて……ファイブアローッ!」
親指、人差し指、中指、薬指からは、星空のように澄んだ青白い光の矢が。
そして魔力を抑え込んだ小指からは、わずかに赤黒い光を帯びた矢が形作られる。
五本の矢が、一斉に虚空へ放たれた。
ヒュンッ!
空気を切り裂く音とともに、光の軌跡が森を走る。
魔狼はまたしても跳躍し、空中で身をよじって光の矢をかわそうとした。
だが、今回の魔法は少し違った。
「え……?」
「曲がった……!?」
アリカとリリアが同時に声を上げた。
直進するはずの五本の矢が、まるで意志を持った猟犬のように空中で急カーブを描いたのだ。
魔法の発動が楽になったことで、放ったあとの制御まで可能になっていた。
逃げ場を失った魔狼の巨体へ、光の矢が四方から殺到する。
ドシュッ! ズドォォンッ!
青白い光と、小指の赤黒い爆発が重なり合った。
断末魔の叫びを上げる暇もなく、魔狼の巨体は吹き飛ばされ、太い木に激突して力なく地面へ崩れ落ちた。
静寂が戻った森の中。
雷が落ちたような空気の焼ける匂いと、焦げた毛の臭いが漂っている。
魔狼は完全に息絶えていた。
「…………」
「…………」
アリカは口を半開きにしたまま、倒れた魔狼と僕の左手を交互に見つめていた。
自慢のライフルを抱えた腕が、かすかに震えている。
「いまの……魔法?」
「うん。僕の武器は物干し竿だけど、魔法も使えるんだ」
僕は左手を下ろし、肩の緊張を解いた。
発動が楽になったおかげで、身体への負担もほとんどない。これなら、飯代を稼ぐ効率もぐんと上がりそうだ。
「す、すごいじゃない……」
アリカは真っ赤な顔をして、視線をうろうろとさまよわせた。
そして、コホンと大げさに咳払いをする。
「ふ、ふんっ! ちょっとはやるみたいね! その魔法、アタイのライフルの足元にも及ばないけど、まあ悪くはなかったわ!」
彼女はツカツカと僕の前へ歩み寄り、腰に手を当ててふんぞり返った。
「仲間になってあげるから、ありがたく思いなさいねっ!」
上から目線の宣言に、僕は思わず目を丸くした。
さっきまで足手まといだの棒きれだのと馬鹿にしていたのに、ずいぶんと態度が変わるものだ。
僕の後ろからひょっこりと顔を出したリリアが、呆れたような声で呟く。
「押しかけ仲間ですね」
「うん。でも、かわいそうだから入れてあげよう」
僕が小さく笑ってうなずくと、アリカは顔をさらに赤くして怒鳴った。
「か、かわいそうって何よ! アタイがアンタたちを守ってあげるって言ってるの! 感謝しなさいよね!」
大声で騒ぐガンナーの少女を見ながら、僕は心地よい疲労感とともに息を吐いた。
神の小指を取り込んだことで手に入れた、さらに強力な魔法。
そして、新しい仲間。
騒がしい冒険が、また一つ増えそうだった。
とりあえず、あの巨大な魔狼の素材が高く売れることを祈りながら、僕は討伐証明を剥ぎ取るためのナイフを取り出した。
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