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『一日一回肘から唐揚げが出る能力』  作者: 保土ヶ谷暗褐色


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8/9

『フリッジブルー』


 その冷蔵庫は、リサイクルショップの隅で、寂しげに佇んでいた。


 大也(ひろや)がそれを選んだのは、単に一番安かったからだ。一人暮らしを始めて三年、家電にこだわりなんてない。冷えればいい。届いた中古の冷蔵庫を台所に据えて、初めて電源を入れた夜のことだった。


 牛乳を入れようとドアを開けた瞬間、庫内灯がぽうっと灯って、声がした。


「……あの。さっそくで、すみません。私、ちゃんと冷やせるか、すごく不安で」


 大也は牛乳パックを落としそうになった。台所には誰もいない。声は、明らかに冷蔵庫の中から聞こえていた。


「あの、驚かせましたよね。ごめんなさい。黙ってればよかったんですけど、黙ってたら黙ってたで、よそよそしいって思われるかなって……それで、つい。すみません。本当に、すみません」


最初の数日、大也は本気で頭がおかしくなったのかと思った。けれど声は毎日、ドアを開けるたびに律儀に響いた。しかも内容は、ほぼ全部、謝罪だった。


「おはようございます。夜のあいだ、ちゃんと冷やせてたか不安で、何度も自分でコンプレッサー確認しちゃって……うるさかったですよね。すみません」


「そのチーズ、取るんですね。よかった……忘れられてるかもって、ずっと思ってて。いえ、プレッシャーじゃないです。違うんです。今のは忘れてください」


 大也は気づいた。この冷蔵庫は、何も悪くないことで延々と自分を責めている。冷気が強すぎたと謝り、弱すぎたと謝り、ドアの開け閉めの音にすら「私のパッキンの整備不足です」と頭を下げる。


「いや」と、ある朝、大也はとうとう声に出して言ってしまった。「君、何も悪くないだろ」


 しばらく、沈黙があった。それから、消え入りそうな声がした。


「……そんな。やさしくしないでください。私、調子に乗っちゃうので」


 これが、すべての始まりだった。


 大也は、ズボラな男だった。野菜は買っても腐らせ、惣菜は奥で化石になり、冷蔵庫の中は常に小さな墓場だった。だが、ナイーブすぎる冷蔵庫と暮らすうちに、それが許されなくなった。


 たとえば、買ってきたハムを忘れていると、冷蔵庫が泣きそうな声で報告してくる。


「……気づいちゃいましたよね。ハム。あと一日なんです。本当は昨日のうちに言うべきでした。でも私が言うと急かしてるみたいで、嫌な冷蔵庫って思われたくなくて……結局こうやって追い詰めて……私、最低です」


「いや、最低じゃない。教えてくれて助かるって。な?」


「……本当ですか。本当に、迷惑じゃないですか」


「迷惑じゃない。あー、むしろ助かる。だから期限が近いやつ、これからどんどん言ってくれ」


「……はい。がんばります。がんばらせてください」


 こうして大也は、冷蔵庫を傷つけないために、ハムをその日のうちに食べるようになった。野菜を腐らせると冷蔵庫が「守れませんでした」と落ち込むので、ちゃんと使い切るようになった。冷蔵庫のメンタルケアが、いつのまにか大也の生活を整えていた。


 まとめ買いをして庫内がパンパンになった日は、冷蔵庫が逆に不安がった。


「いっぱい買ってきてくれて、うれしいです。うれしいんですけど……私、ちゃんと全部冷やせるかな。一個でもぬるかったら、もう、合わせる顔がなくて。がんばります。がんばらせてください。あと、奥のほう、ちょっと押し込んじゃってすみません。窮屈ですよね。」


「そんなに謝らなくていいんだよ」


 逆に、卵ひとつしか入っていない日には、こう言った。


「……今日、卵ひとつだけですね。いいんです。寂しくないです。ぜんぜん。むしろ省エネで、私、地球の役に立ててる感じします。……ちょっとだけ、声、響きますね。あ、独り言です。気にしないでください」


「気にするなあ…」


 大也の友人が遊びに来たとき、冷蔵庫はそれはもう緊張していた。客がドアを開けると、たっぷり三秒ためてから、震える声で「……いらっしゃいませ。あの、ビール、ちゃんと冷えてます。たぶん。確認します? いえ、信じてください。お願いします」と言うので、友人は腰を抜かして帰っていった。


そのあと、大也は冷蔵庫を一晩なだめるはめになった。


 ある晩、大也は仕事で大失敗をして、ボロボロになって帰ってきた。何も食う気になれず、コンビニ袋を提げたまま、台所にしゃがみこんだ。

 冷蔵庫が、おずおずと口を開いた。


「……あの。差し出がましいんですけど。卵、まだ三つあります。おいしいもの、作れますよ。私、ちゃんと冷やしておいたので。新鮮です。たぶん。いえ、絶対です。絶対、大丈夫です」


 大也は、少し笑ってしまった。

「……お前さ。なんでそんなに必死なの」

 冷蔵庫は、また少し黙った。


「前の家で、私、あんまり……使ってもらえなかったんです。それで、いらないって言われて、ここに来て。だから、今度こそ、ちゃんと役に立ちたくて。でも、自信がなくて。何かするたびに、また失敗するんじゃないかって、怖くて……それで、つい、謝っちゃうんです。すみません。重いですよね、こんな話」


 大也は立ち上がって、卵を三つ、取り出した。


「重くない。──じゃあ、卵焼き作るわ。ありがと。」


 その夜、大也は久しぶりに台所に立った。冷蔵庫は、コンプレッサーをいつもより少しだけ強く回しながら、「うるさくないですか」「いえ、これは嬉しくて」と、ずっとそわそわしていた。


 季節が一つ過ぎた。


 大也の冷蔵庫は、相変わらずよく謝った。けれど、その回数は、少しずつ減っていた。


野菜室を空にした日には「こんなに役に立てたの、初めてかもしれないです。泣いてないです。霜です。これは、霜なんです」と言って、大也に笑われた。


 そして、ある休日の朝。

 大也がドアを開けると、冷蔵庫が、いつもと違う言葉を吐いた。謝罪ではなかった。


「……あの。今日の私、ちょっと、よくないですか」


 大也は、手を止めた。


「庫内、整理整頓されてて。期限切れ、ゼロで。野菜も、シャキッとしてて。これ全部、住人さんと、私とで……えへへ。なんか、いい感じだなって、思っちゃって。すみません、自分で言うの、図々しいですよね。でも」


 大也は、冷蔵庫の天板を、ぽんと叩いた。


「いいんじゃない。」


「……っ。コンプレッサー、全開になっちゃいそうです。」


えへへ、と冷蔵庫が笑った。


 台所に、朝の光が差している。墓場だった庫内は、今ではきちんと片付いて、誰かと暮らしている場所の匂いがした。


 大也は牛乳を一杯注いで、まだ何か言いたそうにそわそわしている冷蔵庫に向かって、「ありがとな」と言った。

 

冷蔵庫は、それからしばらく、何も言えずにいた。たぶん、また霜が出ていたのだと思う。


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