『甘い褒め言葉』
褒められると、味がした。
甘いときと、苦いときがある。佐藤はそれを物心ついたころから知っていたが、誰にも言ったことがなかった。言ったところでどうにもならないし、言えばおかしいやつだと思われる。だから黙って、日々の褒め言葉を味わいながら生きてきた。
木村部長にとって、お世辞とは呼吸だった。
「いやあ佐藤くんは本当に仕事が丁寧だね。助かるよ」
月曜の朝、コピー機の前で言われた。佐藤の口の中に甘みが広がった。だが違う。甘いのに、後味が薄い。本物の砂糖ではない、何か別のものだ。
「人工甘味料みたいですね」
言った後、しまった、と佐藤はおもった。うっかり言葉が漏れてしまった。
木村部長が振り返る。五十二歳、人当たりがよく、悪い人ではない。ただお世辞が呼吸というだけで、他に欠点らしい欠点がない人だった。
「……人工甘味料?」
「あ、いえ」
「どういう意味?」
「なんでもないです」
「コーヒーに人工甘味料入れてる? はは、俺は角砂糖派なんだけど」
「そういう話じゃないです、すみません忘れてください」
部長は三秒ほど佐藤の顔を見てから「そうか」と言って、コピーを取って去った。
佐藤はため息をついた。嫌味が通じなかった。通じなかったうえに、少し罪悪感があった。悪い人ではないのだ、部長は。
同じ日の昼、同僚の中島に声をかけられた。
「お前、今日の会議の資料よかったぞ。細かいとこまで拾えてた」
ほんのり甘かった。砂糖に近い、真っ直ぐな甘さ。中島は褒め方が不器用で、言葉が足りないが、味は本物だった。佐藤は「ありがとう」と素直に言えた。
「なんか顔がゆるんでるぞ」と中島が言った。
「そうか」
「お前さ、部長のこと得意じゃないだろ」
佐藤は少し驚いた。
「わかる?」
「なんとなく。部長に褒められてる時は愛想笑いって感じがする」
中島は特に深く考えた様子もなく、自分の席に戻った。佐藤は中島の背中を見ながら、はちみつの甘さがまだ口に残っているのを感じた。
午後、取引先との打ち合わせがあった。
先方の担当者は四十代の男で、終始にこやかだった。
プレゼンが終わると「素晴らしかったです、さすが佐藤さん」と言った。
苦かった。
安いコーヒーみたいな、薄くて後を引く苦さ。
佐藤は愛想笑いを張り付けながら「ありがとうございます」と言った。
そうは思っていないだろ、と確信しながら。
帰り際に「また是非お願いします」と言われた。
さらに苦かった。
夜、帰宅すると妻が夕飯を作っていた。
妻は佐藤をほぼ褒めない。正確には、褒める必要を感じていないようだった。
食事を終えて、佐藤が皿を洗っていると、妻が後ろから言った。
「最近頑張ってるね」
佐藤は身構えた。蛇口を止めて、口の中を確認した。
無味だった。
甘くも苦くもない。ただの言葉だった。佐藤には判断がつかなかった。本心なのか、気を遣ったのか、ただ思ったことを言っただけなのか。七年いっしょにいて、妻の褒め言葉だけはいつも無味で、それが佐藤には恐ろしかった。
だがその日、佐藤はきまぐれで、いつもと違う言葉を口にしてみた。
「……ありがとう」
さらに一言付け加える。
「褒めてくれて」
静寂が広がる。少しして妻が口を開いた。
「別に褒めてないけど」と妻は言った。「ただそう思っただけ」
佐藤の口の中に、ほんのり甘さが広がった。
はちみつに近い、温かい甘さだった。
妻は、ソファに移ってテレビをつけた。




