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『一日一回肘から唐揚げが出る能力』  作者: 保土ヶ谷暗褐色


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9/9

『降りる駅を知らない男』


 その男のことを、僕は半年近く、毎朝見ている。


 朝七時四十二分の、いつもの車両。男は三つ目の駅から乗ってくる。グレーのスーツに、少しくたびれた鞄。吊り革に掴まって、終始どこか不安そうに、窓の外を見たり、路線図を見上げたりしている。


 最初は、ただの通勤客だと思っていた。


 違うと気づいたのは、男が「降りる」ところを見たからだ。


 ある駅に着くと、男はふっと背筋を伸ばし、意を決した顔でドアへ進む。ホームに一歩、降り立つ。そして、降りた瞬間――


「……しまった」


 という顔をする。声には出さない。けれど、全身で「しまった」と言っている。眉が下がり、口がへの字になり、鞄を握り直し、そして、閉まりかけたドアに滑り込むようにして、同じ電車に戻ってくる。


 それを、毎朝、違う駅でやっている。


 昨日は、今日の駅から二つ手前の駅で。一昨日は三つ先の駅で。


男は毎日、どこかの駅で勇気を出して降りては、「違った」という顔をして戻ってくる。まるで、自分の降りる駅がどこなのか、本人にも分かっていないみたいに。

気になっているのは、どうやら僕だけではなかった。


いつも同じ席に座っている年配の男性。きちんと折り目のついたスラックスで、新聞をたたんで膝に置いている。その老人が、男が「しまった」の顔で戻ってくるたび、ほんのわずかに口角を上げるのを、僕は見逃さなかった。


参考書を開いた浪人生らしき青年も、制服を着崩した女子高生も、気づけば男のほうを見ている。


書類鞄を抱えた気難しそうな部長風の中年は、「くだらん」とでも言いたげな顔をしながら、誰よりも真剣に男の挙動を追っている。


そして、ある朝。


制服の女子高生が、手帳のページに何かをさらさらと書きつけて、それを胸の前に掲げ、車両の常連たちに見えるように、くるりと見回した。


 いたずらっぽい字で、こう書いてあった。


〈どこで降りるか賭けませんか〉


 誰も、声は出さなかった。けれど、その朝から、何かが始まってしまった。


「…梶ヶ谷。」


老人が小声で呟く。浪人生が、それに続いて小さく手を上げた。


「三軒茶屋。」


女子高生が手帳を掲げる。


〈二子玉川駅〉


僕は咄嗟に口に手を当て、咳をするフリをしながら言葉を発した。


「桜新町。」


老人は新聞の隅に、誰が何に賭けたかを小さく書きつけ、勝ち負けを淡々とさばいた。賭けるものは、缶コーヒーや、コンビニのチョコだった。言い出しっぺの女子高生は、自分はほとんど賭けず、毎朝みんながそわそわするのを、いちばん楽しそうに眺めていた。


 部長風の中年は、三日目にとうとう参加した。「溝の口だ。今日は絶対に溝の口で降りる」と、誰にともなく低く宣言して、見事に外した。男はその朝、高津で降りた。中年は缶コーヒーを一本、無言で老人に差し出した。


  そのうち浪人生は、ノートの余白に独自の分析を書き込むようになった。男の様子を、天気に見立てて分類するのだ。男がやけにそわそわしている朝は「雨」、堂々と窓の外を見ている朝は「晴れ」。


「晴れ」の朝ほど、男は大胆な駅で降りて、派手に「しまった」をやらかす。浪人生の予想精度はめきめき上がり、いつしか常連たちは賭ける前に、ちらりと彼のノートを盗み見るようになっていた。


 一度だけ、車両全体が本気で息を呑んだ朝があった。その日、男はいつもより素早く立ち上がり、迷いのない足取りでドアの前に立った。


あまりに堂々としていたので、浪人生のノートには大きく「日本晴れ」と書かれた。胴元の老人が、めずらしく身を乗り出した。部長風の中年が、真剣な表情で男を見つめていた。


 ドアが開く。男が、降りる。一歩、二歩、ホームへ。

 ――そして、振り返った。「しまった」の顔で。


 全員が、声には出さずに、いっせいにのけぞった。

 おかしかった。毎朝、可笑しかった。

 いつしかその時間は、退屈な日常の中の、ささやかな楽しみになっていた。


 そんな、ある朝のことだった。

 その日も、男は不安げな顔をしていた。浪人生がノートに「曇り」と書き足し、女子高生がそれを覗き込んでくすりと笑う。


 そのとき、男が、ふいに顔を上げた。

 吊り革に掴まったまま、車両をぐるりと見回して、それから、本当に不思議でたまらない、という顔で、誰にともなく、こう言った。


「……みなさんは、なんで毎日、ちゃんと同じ駅で降りられるんですか?」


 車両が、しんとした。

 誰も、答えられなかった。


 当たり前すぎて、考えたこともなかった。なぜ、自分はあの駅で降りるのか。男の目は、本気だった。からかっているのでも、皮肉でもない。ただ純粋に、僕らがどうやってそれをやっているのか、知りたがっていた。


 女子高生の笑みが、消えていた。胴元の老人は、新聞をたたんだまま、男を見ていた。部長風の中年は、口を開きかけて、何も言えずに閉じた。浪人生は、ノートを持つ手を止めて、ペン先を宙に浮かせたままにしていた。


 男は、答えを待っているわけでもなかった。


 次の駅が近づくと、男はふっと背筋を伸ばして、不安そうな顔でドアへ向かった。ホームに降りて、「しまった」の顔をして、戻ってくる。何も変わらなかった。賭けも、たぶん、明日もまた続くのだろう。

 でも、その日。


 僕の降りる駅が近づいてきたとき、僕は初めて、少しだけ身構えている自分に気づいた。


 「…なんでだっけ。」


なんで、ここで降りてるんだっけ。


 答えは出なかった。出ないまま、ドアが開いて、僕はいつもの駅で、いつものように降りた。

 


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