『隣の芝生はガチで青い』
引っ越してきて三日目に、中村は気づいた。
隣の田中さんの庭の芝が、青かった。
緑ではない。青だった。空の青でも海の青でもなく、もう少し落ち着いた、でも確実に青い、青だった。朝の光の加減かと思って昼に見ても青く、夕方に見ても青く、雨の日に見ても青かった。芝が青かった。
「なあ」と中村は妻に言った。「田中さんとこの芝、青くない?」
「青いね」と妻は言った。
「……気にならない?」
「別に」
妻はカーテンを閉めた。
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翌週、ゴミ捨て場で向かいの松本さんと会った。六十代の女性で、この町に三十年住んでいるという。
「あの、田中さんとこの庭なんですけど」と中村は切り出した。「芝が……青いですよね」
「ああ」と松本さんは言った。「青いですね」
「あれ、なんで青いんでしょう」
「さあ」
松本さんはゴミを出して、家に帰った。
中村は一人でゴミ捨て場に残った。さあ、じゃないだろ、と思った。三十年住んでて、さあ、じゃないだろ、と思った。
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職場の同僚・坂本に話したのは、その週の金曜だった。
「隣の芝生が青いんだよ」
「わかる」と坂本はすぐ言った。「そういうことあるよな」
「いや、実際に青いんだよ」
「うん、そう見えるよな。羨ましいもんな」
「羨ましくはない、青いんだよ物理的に」
「いや気持ちはわかるよ。隣がよく見えるのは仕方ないって」
「聞いてる? 色の話をしてるんだけど」
「羨ましいって素直に言えばいいじゃないか」
中村は缶コーヒーを飲んだ。坂本はわかるわかると言いながら、まったくわかっていなかった。
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意を決したのは、引っ越しから一ヶ月後だった。
田中さんは六十手前で、穏やかな顔をした人だった。庭の手入れをしているところに声をかけた。青い芝を熊手でならしていた。熊手も少し青かった。
「田中さん、あの」
「ああ、中村さん。なにか」
「庭の芝なんですが」
「はあ」
「青いですよね」
田中さんは少し間を置いた。熊手の手を止めた。
「……品種なんですよ」
「品種」
「ええ」
「青い品種が、あるんですか」
「まあ……そういうことです」
田中さんは穏やかに微笑んだ。それ以上でも以下でもない顔だった。中村は三秒待ったが、続きは来なかった。
「そうですか」
「ええ」
「……青いですね」
「ええ」
中村は家に帰った。
妻に「品種らしい」と報告した。妻は「ふうん」と言った。
「それで、羨ましかったの?」
「なんで羨ましいになるんだよ」
「だって一ヶ月も気にしてたじゃない」
「羨ましいとかじゃなくて、青いから気になるんだよ」
「青い芝生が羨ましかったってこと?」
「違う、青いこと自体が気になるんだよ」
「青い芝生に憧れてたの?」
「話を聞いてくれ」
妻はテレビをつけた。
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田中さんの息子を見たのは、それから二週間後の日曜の朝だった。
大学生くらいの青年で、帰省していたのか、庭に出て親子で何か話していた。
窓の中から見て、妻を呼んだ。
「なあ、ちょっと」
「なに」
「田中さんの息子」
「うん」
「少し青くない?」
妻は窓から田中家の息子を見た。色白、というには少し方向が違う。少し、青かった。
「……本当だ」と妻は言った。「青いね」
「だろ」
二人でしばらく黙って見た。田中さん親子は特に何事もなく、庭で笑っていた。
妻が視線を落とした。
「ねえ」
「なに」
「うちの庭」
中村は下を見た。
植えたばかりの芝の、端っこの部分が、少し、青かった。
中村は目を細めた。見間違いかと思って、もう一度見た。青かった。朝の光の加減かと思って昼に見るつもりだったが、昼に見ても青い気がした。
妻が隣に立って、腕を組んだ。
「ねえ、やっぱり羨ましかったんじゃない?」
「違う」と中村は言った。
「伝染ったのかな」
「伝染るのか芝生が」
「田中さんに聞いてみたら」
「品種って言われるだけだ」
中村はもう一度、青くなり始めた自分の庭の端を見た。それからため息をついて、田中さんの庭を見た。田中さんの息子が、中村と目が合って、軽く会釈した。
その顔が、やっぱり少し青かった。
中村は会釈を返して、カーテンを閉めた。
妻はもう興味を失って、台所に消えていた。
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