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『一日一回肘から唐揚げが出る能力』  作者: 保土ヶ谷暗褐色


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3/8

『節約の神様』



 その朝、河野はいつものように二度寝に失敗した。


 布団の中で目を閉じた瞬間、耳のすぐ後ろあたりから、低くて落ち着いた女性の声がした。


「その二度寝、十五分で五百円の損失です」


 河野は飛び起きた。ワンルームには誰もいない。テレビもラジオもついていない。冷蔵庫が小さく唸っているだけだ。気のせいだと思って、もう一度ゆっくり目を閉じる。


「遅刻すると、タクシー代で千八百円かかりますよ」


 はっきり聞こえた。会ったこともない、けれど妙に芯のある声だった。河野はその日、人生で一番素早く支度をして家を出た。


 最初は寝不足による幻聴だと思っていた。けれど声は、目を閉じるたびに律儀に現れた。昼休み、コンビニのレジ前で新作スイーツに手を伸ばし、なんとなく目を閉じた瞬間。


「今月、間食ですでに四千二百円。給料日まで、あと十一日です」


 河野はスイーツを棚に戻した。声は責めるわけでも、命令するわけでもない。ただ、淡々と数字を置いていく。その正確さが、なんだか怖くて、そして少しだけありがたかった。


 声の主は、自分の頭が勝手に作り出した「経理部の人」らしかった。河野の会社にも経理部はあるが、フロアが違うので顔も知らない。声は河野の財布の中身も、銀行口座の残高も、なぜか全部知っていた。


 声は、河野の生活のあらゆる場面に顔を出した。


 飲み会の二次会で、勢いに任せて「ここは俺が」と財布を出しかけたとき。目を閉じる暇もなく、まばたきの一瞬に、声は滑り込んできた。


「来月のカード引き落とし、二万を超えています。見栄は、利息がつきません」


 河野は出しかけた財布を、そっと尻ポケットに戻した。


 欲しかったスニーカーをネットでカートに入れ、決済ボタンの前で目を閉じたとき。


「同じ用途の靴、下駄箱に三足。一番新しいので、まだ四ヶ月です」


 なぜそんなことまで知っているのか。河野はもう、ツッコむのをやめていた。声はいつも正しかったし、何より、責める口調を一度も使わなかった。ただ事実を、静かに机の上に並べていくだけ。判断するのは河野自身だ、とでも言うように。


 不思議なもので、声に従っているうちに、河野は少しずつ、自分の暮らしが好きになっていった。家計簿などつけたこともなかったのに、自分が何にいくら使っているかが、頭の中の声を通してくっきり見えるようになった。無駄を削ると、本当に好きなものだけが残った。月に一度の銭湯と、休日の朝のドリップコーヒー。それで十分だった。


「先輩、最近やけに金遣いが堅実っすね」


 後輩の田所にそう言われたのは、声が聞こえ始めて二週間が過ぎた頃だった。たしかに、河野の財布は厚くなっていた。見栄で奢っていた飲み代、なんとなく買っていたコンビニ弁当、惰性で続けていたサブスク。目を閉じるたびに声が小さく囁くので、河野は一つずつ手放していった。


「いやあ、節約の神様が憑いてんのかもな」


 冗談のつもりだった。でも、まんざら嘘でもない気がしていた。


 その夜、河野は人生で一度くらいは贅沢をしようと、駅前の小料理屋ののれんをくぐった。給料も無事に入ったし、たまにはいい。カウンターに座り、品書きを眺めながら、ふと目を閉じる。


 声がしなかった。


 河野は何度か目を閉じたり開けたりした。「えーと、この日本酒は……」と心の中で問いかけても、返事がない。「ほら、ここで止めないと飲みすぎるって、いつも言うだろ」と挑発しても、しんとしている。あの淡々とした声は、ぴたりと止んでいた。


 不思議と、急に心細くなった。店員がお通しを置いていく音が、やけに大きく聞こえた。河野は結局、一杯だけ飲んで店を出た。せっかくの贅沢は、まるで味がしなかった。


 河野はそれから三日間、落ち着かなかった。声がないと、自分がどれだけ使っているのか、何が無駄なのかが分からなくなる。それ以上に、毎日となりで小言を言ってくれていた誰かが、いなくなった感じがした。


 四日目、河野は思い切って経理部のあるフロアに足を運んだ。理由は自分でもうまく説明できない。ただ、あの声に会ってみたかった。実在するはずもないのに。


「すみません、ちょっと教えてほしいんですけど」


 受付の社員に、適当な経費精算の質問をぶつける。応対してくれた女性は親切だったが、声はまるで違った。河野はがっかりして、帰り際、なんとなく訊いた。


「あの……このフロア、女性の経理の方っていらっしゃいます? 落ち着いた、低めの声の」


 女性は少し考えて言った。


「ああ、宮田さんかな。でも彼女、先週から休んでてね。働きすぎで、ちょっと体壊しちゃって」


 河野の背筋が、すっと冷えた。


 会ったこともない人の声が、なぜ自分の頭の中で鳴っていたのか。科学的な説明はつかない。けれど河野は、その宮田という人が休んだ日と、声が止んだ日が、ぴたりと重なっている気がしてならなかった。


 翌週の土曜日、河野は菓子折りを持って、教えてもらった病院を訪ねた。我ながら、ストーカーじみていて気持ち悪いとは思った。受付で名前を告げると、なぜか面会の許可が降りた。


病室の扉を開けると、ベッドの上には思っていたより小柄な女性がいた。


「えっと……営業部の、河野さん?」


 その声を聞いた瞬間、河野は泣きそうになった。間違いなかった。毎日、目を閉じるたびに聞いていた、あの声だった。


「すみません、本当に変な話なんですけど」


 河野は正直に全部話した。目を閉じると声がしたこと。その声のおかげで貯金ができたこと。声が止んで、心配になったこと。話しながら、自分でも何を言っているのか分からなくなった。完全に怪しい人だ。通報されても文句は言えない。


 宮田はぽかんとして聞いていたが、やがて、堪えきれないというふうに小さく笑った。


「変な人。でも……ちょっと分かるかも」


「え?」


「私もね、目を閉じると、聞こえるんですよ。営業部の人たちの、言い訳が」


「言い訳……」


「ええ。数字って、嘘をつかないでしょう。でも、人はつくんです。その差を、毎日ひとりで埋めてると、だんだん、誰のために怒ってるのか分からなくなってきて」


 河野は目を丸くした。


「『領収書、なくしちゃって』『接待だったんで仕方なく』『これは必要経費なんです』……毎日、毎日、知らない人の言い訳が頭の中で鳴るんです。だから、休もうと思って」


 宮田は窓の外を見て、それから河野のほうを向いた。少し疲れた、でも穏やかな顔だった。


「河野さんの声、聞こえてました。『今月もう間食で四千円か』って、しょっちゅう悩んでたでしょう」


 河野は、もう何も言えなかった。ただ、二人の頭の中で、ずっと小さな会話が続いていたのだと思うと、なんだかおかしくて、温かかった。


「あの」と河野は言った。


「退院したら、一度ちゃんと、ごはんでも。今度は目を開けて、話しません?」


「いいですよ。」


あ、でも、と付け加える。


「領収書、貰ったら怒りますからね。」


宮田は悪戯っ子のような笑みを浮かべた。


 

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