62.ロザリオの悪夢③
目の前に置かれた真っ黒な杯。
その中には毒々しい紫色の液体が注がれていた。
アデルはテオドールと毒の杯を見比べ、引き攣った笑みを浮かべる。
「……う、嘘ですよねぇ? テオさま……」
「嘘つきは君だろう? 君がそう思ってなくても、ロレナは間違いなく君の家族だ。
――熱心な教会派であるシュタールベルクの人間がそんなこともわからないなんて……」
テオドールは大げさに溜息をつき、演技ががかった動作で前髪をかき上げた。そして、自分の手元に金の杯を引き寄せる。
当たり前のように片方の金の杯を自分のものとするテオドールに、エルネスタがバンッとテーブルを叩いて立ち上がった。
「テオドールさん! あ、あなた、恥ずかしくないの?! 毒の杯をアデルに、自分は金の杯を手にするだなんて!」
「嘘つきの数だけ毒の杯が配られるんですよ? 嘘をついた人間が飲むのが筋でしょう?」
「こ、このッ……!」
ぶるぶるとエルネスタの手が震える。今にもテオドールに掴みかからんばかりだった。
しかし――。
エルネスタの前に静かに黒い杯が置かれる。
「……え?」
「これはお前の分だ。エルネスタ」
「は、はあっ!? なんで私が!?」
「私は正直に罪を告白した。昔、兄から万年筆を盗んだことがある。
お前は家族から盗んだことはないと言う。……本当か?」
「それ、は……」
エルネスタはギリッと奥歯を噛み締めて悔しそうに俯いた。
「……盗んだんじゃない。私は、私のものを取り返しただけよ……」
「お前もアデルと同じことを言うのか」
「母親が私に与えてくれなかったのよ!」
アデルと似たようなことを喚くエルネスタ。アデルが目を丸くして実の母親を見つめた。
しかし、ベルトランはくだらないと言わんばかりに首を振り、金の杯を掲げてテオドールに視線を送る。テオドールも同じように金の杯を持った。
「盗みは盗みだ。――テオドール君、乾杯」
「乾杯」
「待っ――!」
止める間もなく、二人が乾杯をして金の杯を一気に煽る。
テーブルに置かれた時には二つとも空っぽだった。
アデルとエルネスタは自分の前に置かれた黒い毒の杯を見つめることしかできない。エルネスタは怯えた視線を代理人へと向ける。
「……ね、ねぇ。これ、どんな毒なの……?」
「ふふふ。飲んでみてのお楽しみです。さぁ、早くお飲みくださいな」
代理人は頬に手を当てて首を傾げた。どこか相手をからかうような仕草で、楽しげですらある。
当然ながら、アデルもエルネスタも手が進まない。毒だと知らされたものを自ら飲むなんてできるはずがない。助けを求めるようにテオドールとベルトランを見るが、二人共腕組みをして目を閉じていた。
恋人、そして父親の態度に愕然としていると、ガンッ! と大きな音が響く。
「は、や、く、の、めッ! って言ってんだろぉ?! 嫌なら嘘つかなきゃ良かったんだよ!
ああ二人とも嘘だって自覚がなかったんだよなあ!? 姉のものも! 母親のものも! 本来は自分のものだから取り返しただけ、盗んでませーーん! なぁんて、戯言が通ると思ってんのかぁ?!」
ガンガンガンッ! と手斧を司祭台に打ち付ける代理人。刃がどんどん木製の司祭台に食い込み、そのうち割れてしまうのではないかと思うほどだった。
言動、そして斧の音はアデルとエルネスタを萎縮させるには十分すぎる。二人とも身を硬くして縮こまるばかりだった。
「チッ……しゃぁねぇな。飲ませてやるよ!」
免除かと思いきや、その後に続く言葉に耳を疑った。声を出して抗議する暇もなく、どこからともなく湧いたロープによって椅子にくくりつけられてしまう。
「な、なにこれえ?! いやっ、いやあっ!」
「うっせーな、まずはお前からだ。アデル。ほーら、お口を大きく開けてね~~~?」
「あがっ……!?」
ガッと顎を掴まれ、無理やり口をこじ開けられる。涙目になるのもお構いなしに、代理人が毒の杯を近づけてきた。
全身を動かして逃れようとするが、手足が椅子に固定されていて身動きすらできない。他の三人が恐怖の眼差しでアデルを、いや、代理人のことを見ている。
抵抗虚しく、口の中に紫色の液体が注がれる。乱暴な手つきのせいで口の端から液体が零れ落ちていった。
全て口の中に注ぎ込まれ、無理やり口を閉じられてしまった。ゴクリと飲み込むことしかできない。
「げほ、げほっ……っはあ、……」
テーブルに突っ伏し、荒い呼吸を繰り返す。
毒は飲めなくもないが、腐ったような香りと妙な酸味があって飲みづらいことには変わりがない。後味をどうにかしたくて、ひたすらげほげほと咳込んでいた。
代理人がエルネスタを見る。
「エルネスタも飲ませてあげましょうか?」
「の、飲むっ! 飲むわっ!」
アデルのように無理やり飲まされるのはごめんだと思ったのか、エルネスタは慌てて毒の杯を手にした。しかし、すぐに飲むことができず、数秒の間が落ちる。
一歩、代理人がエルネスタに近付いた瞬間、彼女はぐいっと毒の杯を一気に煽った。
エルネスタの動きが止まり――その手から黒い杯が転がり落ちる。カラン、と乾いた音を立てて床にぶつかった。
同時に、エルネスタの体がゆっくりと真横に倒れた。
「エ、エルネスタ?!」
ベルトランが慌てて立ち上がって駆け寄る。
エルネスタは「はー、はー」と息を荒くしており、目の焦点が合っていなかった。尋常ではない様子で、毒が何らかの作用をしたのは誰が見ても明らかである。
そして、エルネスタの足元を見たテオドールが目を見開く。
「……あ、足が……!」
「ひいっ!?」
アデルは思わず悲鳴を上げていた。
エルネスタの足が――ないのだ。膝から下が”外れて”いる。まるで人形の足にでも変化してしまったかのように見えるのに、それは間違いなく人間の足だった。
その様子を見た代理人が口元に手を当てる。
「あら、切断の毒でしたね」
「せ、せせ、切断!?」
「ええ。毒を摂取することで体の部位が切断されてしまうのです」
絶句した。
体の部位が、切断?
そんな毒は聞いたことがないし、存在するとも思えない。だが、エルネスタの両足は切られている。
真っ青になったのはアデルだけではなく、テオドールもベルトランも同じだった。そんな恐ろしい毒だなんて誰も考えなかっただろうから。
ハッと我に返り、アデルは自分の体を確かめた。
そして気付く。――左手の色がおかしいことに。
「な、なに、これっ……」
左手を持ち上げ、紫と緑に変色しつつある左手を見つめた。まるで、腐っているようだ。
「腐食の毒ですね」
「ふしょく……っ!?」
「ええ、体が腐り落ちる毒です。末端から始まり、どんどん心臓へと近付いていくのですよ」
「し、し、しぬってことじゃない?! こんなのいやァっ!!!!」
叫んでいる間にもどんどん左手が変色しているように見える。手のひらの真ん中までだった変色が、どんどんと広がっていくようだ。痛みがないのが逆に恐ろしい。アデルは半狂乱になって立ち上がっていた。
「いやああああ! なんで、なんであたしがこんな目にッ?!」
「左手、どうにかしたいですか?」
「当たり前でしょ!? 腐り落ちるなんて聞いて平気でいられるわけがないわッ!!」
「わかりました」
答えるや否や、杯を運んできたメイドがアデルの背後に立ち、腐食しつつある左手を掴む。
解毒でもしてくれるのかと思ったのも束の間。
左手はメイドの手によってテーブルに押し付けられた。代理人がゆっくりと近付いてくるが――その手にはギラリと煌めく手斧。アデルの近くまで来た彼女は何も言わずに手斧を持った右手を振り上げた。
「えっ、えっ? ま、まって、何、何する気……?」
「どうにかしたいならこうするしかねぇんだよなぁ!!」
バスンッ! 小気味良い音とともに、アデルの左手が宙を舞う。
手首から先がなくなった左腕。
大聖堂の中にアデルの大絶叫が響き渡るのだった。




