くちびるに触れない約束― カールとオリアナのその後 ―
ロザリウム学舎の鐘が、休日の朝を告げる。
普段なら訓練場へ向かうカールだが、今日は違った。
(……あいつと市へ行く約束をしたんだったな)
“あいつ”とは、魔術科の少女オリアナ。
図書塔で勉強を教えてもらうようになってから、
彼女と過ごす時間が自然と増えていた。
カールは胸の奥に、
訓練とは違う種類の緊張を抱えながら寮を出た。
「カール、おはよう」
待ち合わせ場所にいたオリアナは、
淡い紫のワンピースに身を包み、
いつもより少しだけ髪を整えていた。
「……おはよう。今日は、その……似合ってる」
「えっ……ありがとう」
オリアナの頬がわずかに赤く染まる。
カールは自分の言葉が思った以上に直球だったことに気づき、
少しだけ視線を逸らした。
二人は並んで歩き出す。
春の風が、街道の草花を揺らしていた。
「カール、休日に市へ行くのは初めて?」
「ああ。訓練ばかりだったからな」
「ふふ、あなたらしいわね。
でも今日は、少しだけ気を抜いていいのよ」
「……努力する」
オリアナはくすっと笑った。
その笑い声は、カールの胸を不思議と軽くした。
王都の市は、休日とあって賑わっていた。
露店の呼び声、焼き菓子の甘い香り、
楽器を奏でる旅芸人の音色。
「わぁ……今日は人が多いわね」
「迷うなよ。手、つなぐか?」
「えっ……!」
カールは自分でも驚くほど自然に言っていた。
オリアナは一瞬固まったが、
やがて小さく頷き、そっと手を差し出した。
「……お願い」
カールはその手を握る。
細くて、温かい手だった。
(こんなに柔らかいのか……)
訓練で鍛えた自分の手とは違う。
その違いが、妙に胸に響いた。
市の奥にある古書店。
魔術書を扱うことで有名な店だ。
「ここよ。新しい魔術書が入るって聞いたの」
オリアナは目を輝かせて店に入る。
カールはその後ろ姿を見て、
(本当に魔術が好きなんだな)と微笑ましく思った。
「カール、これ見て。
初級魔術の応用編なんだけど、あなたにも役立つわ」
「そうか。……ありがとう」
「あなたのために選んだのよ?」
「……そうか」
カールは本を受け取りながら、
胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
(俺のために……か)
そんなふうに誰かが自分を気にかけてくれるのは、
いつ以来だろう。
昼時になり、二人は市の外れにある小さな食堂へ入った。
木のテーブルと暖炉のある、落ち着いた店だ。
「カール、何にする?」
「お前と同じでいい」
「えっ……じゃあ、シチューにしましょう」
料理が運ばれてくると、
オリアナはスプーンを手に取りながら言った。
「ねえ、カール。
あなたって、意外と甘いもの好きよね?」
「……なんで知ってる」
「図書塔で、蜂蜜入りの紅茶を飲んでたでしょう?」
「見てたのか」
「ええ。かわいかったわよ?」
「かわ……っ!?」
カールは思わずむせた。
オリアナは慌てて水を差し出す。
「ご、ごめんなさい! からかっただけなの!」
「……からかうな」
「ふふ、ごめんなさい。でも……嬉しかったのよ。
あなたが、私の前で少しずつ表情を見せてくれるのが」
カールは言葉を失った。
胸の奥が、静かに熱くなる。
(……こいつは、本当に)
夕暮れが近づき、二人は学園へ戻る道を歩いていた。
「今日は楽しかったわ。
あなたと一緒にいると、時間が早く感じるの」
「……俺もだ」
オリアナは驚いたように目を見開き、
やがて柔らかく微笑んだ。
「カール。
あなたがそう言ってくれるなんて、嬉しい」
風が吹き、オリアナの髪が揺れる。
その一瞬、カールは思った。
(……触れたい)
けれど、彼は拳を握りしめた。
(まだ早い。
こいつを困らせたくない)
オリアナはそんなカールの迷いに気づいたように、
そっと言った。
「カール。
急がなくていいのよ。
あなたのペースで……ゆっくりでいい」
その言葉に、カールの胸が強く締めつけられた。
「……ああ。
ゆっくりでいいなら……俺は、ちゃんと向き合う」
オリアナは嬉しそうに頷いた。
「ええ。待ってるわ」
二人の手が、自然と触れ合う。
指先が重なり、やがてそっと絡まった。
それは、
唇に触れるよりもずっと優しい、
二人だけの約束だった。
学園の門が見えてきたころ、
オリアナがふと立ち止まった。
「カール。
今日はありがとう。
また……一緒に出かけましょうね」
「ああ。……次は俺が誘う」
「楽しみにしてるわ」
夕暮れの光が二人を照らす。
その距離は、もう友達以上だった。
けれど――
まだ唇には触れない。
それは、
焦らずに育てていくための、
二人だけの静かな約束だった。




