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エロ本

 鞄を係員に預け、僕はバスのタラップを上った。インターネットで予約した席の番号を確かめる。隣の席は若い男性。多分、20代後半から30代前半。細身で陶磁器のような色の白さ、品の良さを感じさせるピンと伸びた背筋、目線は文庫本に注がれている。紳士、という言葉がピッタリだ。


「失礼します」


 と挨拶をして、僕は窓側の席に座る。彼の読んでいた本は、日本漫画界の神と呼ばれる巨匠が描いたモグリの黒い医者の漫画だった。

 前後の乗客にも確認をして、リクライニングシートを調節する。あとはコートを毛布代わりに被り、イヤホンの音量を少し小さめにして眠ってしまえば、起きた頃には京都だ。

 隣の客に見られないように細心の注意を払いながら鞄を開け、アイマスクを探す。

 …………ない。

 ない!

 鞄の中にあるはずのエロ本がない!

 そこにあるべきものがない。そう頭が認識する前より先に、足は震え始めていた。隣の男性が訝しげに目を細めるほどの激しい貧乏ゆすり。謝罪をしようと思っても、歯までガタガタと音を立てるほど震えている。ひきつった笑みを浮かべてみるも、流れるわけのない3月の汗が、荒い呼吸で揺れる顎から滴る。余計に怪しくなるだけだ。

 バスはもう出発する。東京から京都までの荷物を全て降ろせるまでの数時間、楽しく優雅な旅のはずが地獄旅行に変わる。






 僕とエロ本の付き合いは長いものでもう5年になる。当時、中学生だった僕の家に、友人たちがどこから仕入れたか大量のエロ本を持ってやってきた。証拠が残るくらいならエロなんかいらないと思っていた僕は、母や妹が今部屋にお菓子でも運んでこようものなら修羅場になると戦々恐々としていた。そしてあろうことか友人たちはそのエロ本のうちの一冊をページごとに破り、僕の部屋の各所、箪笥や抽斗に隠したのだ。その時は笑っていることもできたが、友人たちが帰った後、血相を変えてエロ本とエロ本のページを回収。全てを回収し終えた僕は、そのページをさらに破って栞のようにノートに挟み、紐で束ねて資源ごみの日に捨てた。

 しかし、本の形のままのエロ本はそうもいかない。僕はそっと机の一番下の引き出しの奥底に絶対に誰にも見つからないようにしまった。河原に捨ててあるものと言えば、自転車とエロ本と容易に連想できるようにどこぞの河原に捨ててくることも考えたが、どうやって運べばいいと言うのだ。真昼間にわざわざ自転車に乗っていくのも恥ずかしいし、中学生の僕が夜中に自転車で出かけようとすれば両親は怪しんで何をするのか聞くだろう。エロ本を捨てに行く、なんて馬鹿正直に答えてしまえば本末転倒だ。

 しかし悲劇は終わらない。ある日、僕が学校から家に帰ると、母が僕の部屋の箪笥から冬物でも引っ張り出したのか、回収し損ねたエロ本のページの残党がひらりと部屋に落ちていた。それについて何も言わなかったのは母の情けだろう。しかし、見つかってしまった事実は事実だ。数日は恥ずかしさで家族の顔をまともに見ることもできなかった。

 そして、エロ本を家に置いておくことは危険だと思った僕は、文具店で大きめの茶封筒を購入し、エロ本を中に入れ、親の仇を討つかのように糊をべったりと貼り付け、鬼の形相でさらに何枚もの封筒に重ね入れ、持ち歩くことにした。

 以降、僕はエロ本を家に置くこともできなくなり、常にエロ本を持ち歩かねば安心できないという異常な精神状況に追い込まれていく。そんなトラウマがあるから、エロに対してオープンなキャラになることもできず、むしろ必要以上にエロを不潔に感じるようになり、激しい拒否反応も示すようになる。

鞄は大きなものに買い替え、高校にも三年間エロ本を持って登校した。あの日から僕の人生はエロ本を誰にも見つからないように持ち歩くことが最優先になったのだ。なんて人生だ。

 高校二年の時には、夏の暑い夜に自動販売機に軽い飲み物を買いに行くのにも鞄を持ち歩く羽目に。手放すと、貧乏ゆすり、悪寒、鳥肌、脂汗、激しい動悸、瞬きを繰り返すなどの症状が発生するようになった。

明らかに病気だ。エロ本を手放すとパニック障害が起きるのだ。

 そして今回、僕はおそらくそのエロ本を、持ち歩くショルダーバックではなくキャスター付きの旅行鞄の方に入れてしまったのだろう。

 どうしよう、どうしよう! 誰かが鞄を取り間違えてしまったら! もし、このバスが爆弾魔から犯行予告を受け、乗客全員の荷物を改めるなんてことになってしまったら!

 旅行先にまでエロ本を大事に持ち歩くド変態野郎だと思われてしまう!

 そんなありえない発想の飛躍まで誘発するエロ本パニック障害だ。


「大丈夫ですか?」


 隣の紳士が話しかける。


「大丈夫です! 大丈夫ですから!」


 頼む、話しかけないでくれ。誰も僕の心に波を立てないでくれ! 大丈夫なはずなんだ! 全力で自分を抑えれば、京都まで持つはずなんだ!


「本当に大丈夫ですから」


 顔の全ての筋肉を使って口角を上げ、紳士に見せる。


「明らかに大丈夫ではありませんよ。強迫? それとも…………」


 そこで紳士は軽く首を振って言葉を飲み込み、芝居がかった仕草でこめかみに人差し指を当てながら言った。


「閉所恐怖症など、ありませんか? 狭いところにいると恐怖を感じたりするとか」


「と、特には」


 と詰まりながらも返す。


「何か薬は?」


「い、いえお気遣いなく」


 構わないでいてくれることが、彼が僕に出来る最大の気遣いだ。この間にも、車の振動で旅行鞄のファスナーが開いているかも。そこからエロ本がまた振動でずりずりと這い出ているかも。今日はあいにくの雨、濡れて封筒が破れてしまったら…………

 胃が縮み上がりそうだ。今にでも叫びだしたい。腹筋に力を入れて、大きく息を吐く。


「一応、私は医者なのですが」


「医者?」


「医師免許停止中ではありますがね」


 医師免許停止中の医者? それはあんたが読んでいる漫画だろう。いや、漫画の彼はそもそも免許がないのか。


「心療内科です」


 しつこい紳士にだんだん腹が立ってくる。


「だから、お気遣いなくと言っているでしょう。医者が必要なら、ちゃんと病院に行きますから、本当に放っておいてください」


 と突っぱねる。自分が異常だということはわかっている。当然、病院が必要なほどだ。しかし、来院した理由が「エロ本を持ち歩かないと気が済まない」では、いくら治療が必要でも…………。


「では、隣の客の斎藤として。あなたは明らかにパニックを起こしています。何かの禁断症状か強迫観念…………鞄を探ってから表情が変わったところを見ると、何かを忘れてきてしまったことが原因か」


 うぅ、と呻きそうになるのを必死でこらえる。ここまで図星だと、否定することすらかなわない。それを悟られてか、斎藤さんは続ける。


「ブランケット症候群。聞いたことがありませんか? とある漫画に、いつもお気に入りのブランケットを持っていないと気が済まない少年が出てきます。それと同じで、愛着のある何かを手放すとパニックに陥る」


 ドラマーのようにバスの床を踏みしめる足を上から押さえつける。


「…………治せるんですか?」


「治せます。とりあえずは医師に相談。旅行を終えたら近所の神経科に言って医師の診察を受けると良い」


「あんたの目は節穴かなんかか? 僕は今パニックでしょう。医者なら何とかしてくださいよ!」


 つい語気を強めてしまい、乗客の視線が一度僕に集まる。また汗がどっと噴き出た。

 斎藤さんが咳払いをすると、何事もなかったかのように皆それぞれの空間に意識を戻した。


「詳しく話してくれますか?」


「うぅ…………斎藤さんの言うとおり、僕はそのブランケット症候群とやらですよ。間違いないです。数年前から、僕はあるものが手元にないとこうやって禁断症状が起きるんです。でも、それが何かは絶対に言えない」


 自分を抱きしめるかのように両肩を掴み、身を縮こまらせて震える。斎藤さんはあくまでも冷静沈着、神経科の医師ならばもっと修羅場の患者を診てきて慣れているのだろう。目に入ったものに手当たり次第頭突きをする患者とか。一見冷徹なようで、その落ち着いた物腰は、大げさに反応をされるよりもよっぽど助かる。


「それを、捨てることはできないのか?」


 いつの間にか斎藤さんは口調も崩している。そうなると、ガチガチになったままの自分が余計に恥ずかしくなる。


「出来ないです。なんていうか、捨てることすら恥ずかしいっていうか」


 斎藤さんは今度は顎に手を当て、また芝居がかった仕草で考え込む。


「中学生時代に書いたポエムか何か?」


 中学生時代に書いたポエム? そんなこともあったかもしれない。その時に書いたノートはもう捨てただろうか。それとも、まだ部屋のどこかに?

 うわぁあああ!!!!


「家に帰りたい」


 ネズミの断末魔のように呟き、顔を覆う。

 エロ本を持っていない、という緊急事態のシチュエーションがさらに僕を追い込む。中学生時代に書いたポエム! どこにあるんだ!?


「好きな子が写ってるページだけ勝手に開いてしまう卒業アルバムとか、もしくはストレートに、エロ本」


「うわあああああ!」


 今度は語気が強まるどころではない。絶叫だ。この男はサディストか? 治すどころか追い込む一方だ。


「すみません、ちょっと驚かせてしまいました。申し訳ありません」


 斎藤さんは立ち上がり、申し訳なさそうに、でも流暢で上品に乗客たちに挨拶をする。訝しげな乗客たちの視線が再び突き刺さる。


「図星だったか」


 と小さな声で言う。そして


「セックスピストルズ」


 他の乗客もいる場所でセックスとか言わないでくれ!

 しかし、バスという閉鎖空間で三度も大声を出すことなんかできず、下唇を噛みしめて肩で息をしながら頭を大きく縦に振って「セックスピストルズ」の余韻を振り払う。


「どのような経緯でそんなものに固執してしまったんだ。今のままでは笑い話にも出来ないぞ」


「だから、困ってるんじゃ、ないですか」


 と一言ずつ区切ってなんとか言葉を絞り出す。


「いっそ、恥ずかしい思いをしてしまえばいいんじゃないのか?」


「はぁ?」


「むっつりスケベだと思われるなんかよりも、もっと大きなインパクトのあるなにかをしでかしてしまうとか」


「た、例えば?」


「学生か?」


「4月から大学に」


「なら、入学式で失禁するとか」


「何言ってるんですか?」


「それが無理なら、ぴったりした服を着て髪をツンツンに逆立ててベースを持って口をひん曲げて登校する。シド・ヴィシャスみたいにな。セックスピストルズの」


 もう下唇を噛みきってしまいそうだ。信用ならん。この斎藤は信用ならん。本気で腹が立ってきた。この男は楽しんでいるのだ。この、パニックの僕をいちいち刺激してはその反応を見て旅の話の肴にする気だ。

 もう、無視してやる。何を言われても絶対に反応してやるものか。

 と、身構えていると斎藤さんは黙って、再び文庫の漫画を開いた。だが、油断ならない。次に備えて気分を落ち着け、出来る範囲で呼吸を整え、余裕を演じる。そうすれば、斎藤さんが付け入る隙もなくなる。

 そうしているうちに斎藤さんは一冊読み終えた。そして鞄から2冊目を取り出す。その時も僕を一瞥した。僕はそれを避けるように窓の外の景色に目を移した。

 窓に映っているのは、手元にエロ本がないというのに目もかっぴらかず、額に汗も浮き出ていない自分の顔だった。


 斎藤さんを警戒する気持ちが強くなっているうちに、一瞬とはいえエロ本のことを忘れたのだ。

 視線を落とす。足も震えていない。

 窓には、少しも顔色を変えずに某名医の漫画を熟読する斎藤さんの姿が映っていた。






 春の京都は快晴だった。日本屈指の名所の花見に全国、いや世界からの観光客でごった返しているのがバスからも見えた。そろそろ、バスも終点だ。エロ本の入った鞄もやっと僕の手元に戻るだろう。

 旅の恥はかき捨て。いっそ、今のうちにコンビニにでも捨ててしまうのかもいいかもしれない。


「斎藤さん、さっきは怒鳴ったりしてすみませんでした」


「俺は別に怒っていない。他の客は知らん」


「あと、ありがとうございます」


 斎藤さんはしらばっくれたように表情を変えないが、眉がピクリと動いた。


「良い旅を」


 心の底からにっこりと笑えた笑顔を浮かべた瞬間、僕は前の座席に額を思い切りぶつけた。バスが急停止したのだ。


「ヒャッハー! どすえぇ~!」


 横隔膜に響くようなすさまじいエンジンの爆音とともに小汚い声が。


「京都! 京都どすえぇ~!」


 窓の外にバイクに乗ったモヒカン肩パットの超バクの群れが次々にバスに群がってくる。乗客たちは悲鳴をあげ、運転手が落ち着くようにアナウンスする。


「ヒャッハー! 夢を食わせろどすえ~」


 京都弁気取りか、超バク達は「どすえどすえ」と言いながらバスのトランクをこじ開ける。そして真っ先に引きずり出されたのは僕の鞄だった。


「うわあああああ!」


 窓に張り付いて僕は鞄を凝視した。


「やめろぉおおお!」


 僕の叫びもむなしく、超バク達は的確に僕の鞄からエロ本の封筒を引っ張り出し、封筒を破って中身を取り出し、両手でトロフィーでも扱うように掲げた。

 ピンクと黄色の古ぼけた表紙、踊る卑猥な文字と裸の女性。

 もう呼吸がメチャクチャだ。頭に酸素が行かず、視界がぼやけてくる。


「旅行先にまでエロ本を持ってくるド変態がいるどすえ~!」


 その超バクの嘲笑を最後に、過呼吸からか僕は意識を失った。








 最悪な目覚めだ。せっかく、東京から鈍行を乗り継いで京都まで紅葉狩りをしに来たというのに。

 旅館の浴衣の裾を直し、鞄を開ける。出発した時には気が付かなかったが、見知らぬ封筒が鞄の内ポケットに入っている。買いこんだ某名医の漫画を押しのけてそれを取り出し、封を破ると、中に3万円も入っていた。


「これで京都を満喫してきてください。 母より」


 母に土産でも買って帰ろう。帰りに新幹線に乗ってもお釣りがくる。


「さてと」


 旅の恥はかき捨て。一期一会。

 何かいいことがある旅にしたいと、ふと思ったそんな朝だった。


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