〈番外編〉青い炎3
これで終わりです。
おつきあいいただきまして、ありがとうございます。
後夜祭の花火が上げられる時間は、日が暮れてから日付が変わるまで、と決められている。
現在の時刻から考えれば、残り三分の二というところだろうか。
いくつか屋台を見て回りながら、たどり着いた広場は、人でごった返していた。
じっと花火を見つめる薄青の瞳には、色とりどりの光が弾け、消えていく。
外にあるものを映しているだけだから、他の人の顔をのぞいても、同じものが見られるはずだ。
だがなぜか、そこには他にはない決意や今しか見えない儚さがあるようで、不思議とエリクは目を離せなかった。
ふと、ライラが視線に気づいたのか、顔を傾ける。
「どうか……なさいましたか?」
「……いや。なぜ公爵令嬢が医療師を目指すなどと言っているのか、不思議に思っただけだ」
ディルス公爵には、ライラしか子がいない。
結婚後二十年近く経った今も、仲睦まじいと有名な夫妻だから、庶子などいるはずもない。
であれば彼女は、いずれ婿をとりディルス公爵家を継ぐのであろう。
公爵家当主としての役目と、医療師の仕事が両立できるとはとても考えられない。
宰相職と公爵家当主を兼任している現在の当主も多忙だとは思う。
だが、医療師には昼も夜もない。呼ばれれば入浴中でもベッドの中でも、いつでも患者の元へ駆けつけなければならない。
それはアカデミーの医療棟に勤めていても、地方の医療管轄所に勤めていても同じだ。
医療師の数は患者の数に対して少なすぎる。
育成に時間がかかりすぎるということも大きな理由だが、育成自体が難しいというのが医療師不足の最大の原因だろう。
アカデミーを優秀な成績で卒業し、医療師になるため医療棟の扉を叩く――。
そこへ至るまでも大変なのに、さらにその先は、想像を絶するほどの困難が立ち塞がっている。
血の臭いに溢れる病床の間を縫い、魔力を揮う。
死神に手を引かれる患者の、もう一方の手を手繰り寄せる。
昼夜を問わず運び込まれる患者を治療する合間、技術を磨くための勉強も欠かせない。当然、自分の健康管理は最低限の義務だ。
強靭な肉体と精神がなければ、あっという間にこちらがやられてしまうのだ。
まさかライラがそれを知らないとも思えない。
こちらを向いていたライラの視線が、再び花火へ戻る。
「……教壇に立たれたエリク様は、こうおっしゃいました。“医療師は簡単に目指せるものではない。続けることも易しくはない。それでも、しがみつき諦めなければ、必ずそれは身になる”」
それは確か、まだアカデミーに入って間もない少年からの質問に答えたものだったはずだ。
『幼い頃医療師に助けてもらって、憧れている。自分にもなれるか』と。
なれる、と答えることは簡単だった。
なれない、と答えるには、少年の力は未知だった。
躊躇いはあったが、当たり障りのない真実を告げることにしたのだ。
“なれるかどうかはわからない。だが努力したものは無駄にはならない”と。
「ああ……言ったな」
「それは、医療師に限ってのことではないと私は思います。何事も果たせるかどうかは、努力だけで決まるものではない。それでも――」
ひたとエリクを見据える瞳は、透明度の高い青。
青空というよりは薄く、湖というには濃く――。
見た目は冷たく静かなのに、触れれば高温で、すべてを焼き尽くす――。
まるで、青い炎のようだった。
「手に入らないものを、ほしいと駄々をこねるのは、子どものすることです。私は、ほしいとその場で足踏みするのではなく、自分で歩んで自分の手で必ずつかみにいきます」
何を、と彼女は言わない。
彼女のほしいものは、何なのか。
医療師としての名声? 公爵家当主としての誉?
そのどちらも、違う気がした。
なぜかぐっと、エリクの胸元が重苦しくなった。
大きなもので胸を押されたかのような、息苦しさを感じる。掌を軽く握って自分の脈を確かめれば、いつもより駆け足なそれがわかった。
「そこで座って、待っていてください」
「なにを……」
エリクの問いには答えず、ライラは深く腰を落とした。
正式な別れの礼に、返礼をすることはできなかった。
そんなエリクの姿に何を思ったのか、ライラは笑った。そして、「ごきげんよう」とことばを残し、そのまま踵を返す。
後を追わなければ、と思うのに、足が鉛のように重く動かない。
ライラがいなくなってすぐに、エリクの耳には喧騒が戻ってきた。
正確には、喧騒がなくなっていたわけではない。自分の耳が拾う能力を失っていただけだ。
「……なんなんだ、一体」
酔っぱらいの声、はしゃぐような若者の声。それらは最後の花火に向けて、どんどん大きくなっていく。
身を包むような騒がしさの中、落としたことばはすぐに消えていく。
座って待っている、とは何を――?
まさか、と思う一方、もしかしたら、という予感が覆いかぶさってくる。
結局、エリクが医療棟へ戻ることができたのは、夜半を過ぎてから。
後夜祭の人気もなくなってからのことだった。
◇◇◇◇◇
「師長! お帰りなさい!」
エリクが医療棟を入ってすぐに、副師長が駆けてきた。
額には脂汗がにじみ、顔色も青を通り越してどす黒い。
医療棟を預けていったとは言え、大した時間ではないはずなのに、このひょろりとした男には重責だったのだろう。
「急患でもあったか」
「二名ほど。一人は酔っぱらって跳ね橋から転落。もう一人は喧嘩で意識を失って運ばれてきました。今は容体も落ち着いています」
どちらも命に別条はなさそうだし、容体も落ち着いているということだから、このまま仮眠をとっても構わないだろう。
今現在入院している患者の中にも、急変しそうな者はいなかったはずだ。
ただクッキーを買いに行っただけなのに、今すぐにでもベッドへ倒れ込んでしまいたいほどの疲労感がエリクの肩へのしかかっていた。
「俺はこのまま仮眠をとる。……お前で対応しきれない重篤な患者が出たときだけ、起こせ」
「……っ、はい」
ひくり、と頬を引きつらせて答えた副師長を見て、ひとつエリクはため息をついた。
「お前、うかうかしていると椅子をなくすぞ」
「え……? どういうことですか」
遠からず、あれは迫ってくる。
青臭い子どもの夢などとは冗談でも言えないほどの、決意だった。
才能はあっても、この男のように気弱だったら、きっとあっという間にその座を奪われるだろう。
ライラには、奪うほどの才能がある。
そして、それを支えて高める決意がある。
励めよ、と副師長に言い残して、エリクは階段を上がった。
耳の奥にはまだ花火の余韻があり、静かな少女の声があった。
『そこで座って、待っていてください』
「……俺も、うかうかしていられないな」
忍び笑いをしながら、どこか満たされた気持ちで、エリクは自室へと歩いて行った。