第29話 禁足地
━━身体の感覚は既にない。
呼吸もしづらくなっている。
瞼は重くなりつつあるが、意識だけはまだはっきり残っていた。
━━エメが、裏切っていた。
いつから?もしかしたら最初から?
胸が酷く苦しいのは注射器で打たれた「何か」のせいではきっとない。
今はそれどころではない。
ナラは自分の感情を切り捨てた。
……馬車に揺られしばらくして、扉が開いた。
扉の先に見えたのは、人の気配が全くしない木々が広がる場所だった。
遠くから大量の水が落ちる瀑声が響いている。
ルシアンが話していた内容から察するに、おそらくここはヴェイルの渓谷の奥、禁足地だろう。
馬車で行けるような場所ではないし、そもそも到着する時間が速すぎるが、それは今考えるべきではない。
せめてテオだけでも助ける方法がないかと、ナラの頭にあるのはそれだけだった。
「……『目標』、捕獲。運送準備完了しています。飛空艇の離陸準備も完了。ステルスモードも問題なし。……タンポポ『ギフト』の少年を移動させますか?」
「あぁ、頼む。ついでに、こちらのラプトルの少女の確認も」
布で顔を覆った男がルシアンに近付き、報告をした。
ルシアンがそれに答えると、男はテオを抱え、そしてその後方で控えていたであろう別の男がナラを抱える。
外に運ばれたナラは、男に何度も手足を捕まれては放され、瞼を開かされた。
気持ちが悪い、と思いながらもナラは何もできなかった。
やがて一通り確認し終えたのだろう、男はルシアンに耳打ちをする。
「残念ながら、やはり貴方は『都合が悪い』」
溜息をつきながら、ルシアンはナラに向かって言葉を発した。
「ここで死んでもらわなければならないようです」
「え?」
視界には映っていないが、エメの声が聞こえる。
「実に惜しい。貴方のギフトは非常に魅力的だ。研究したいことは尽きないのですが……。そうですね、何か身体の一部でも採取しておきましょうか」
憂いを帯びた表情でルシアンは顔を伏せた。
傍から見れば、それはまるで人を憐れむ女神のようだった。
しかしそこにある感情に触れ、ナラは底冷えするような悪寒に襲われていた。
「ただでさえ、貴方のご実家も都合が悪い。子どもを自分の身勝手で売るご両親ではないようですから。足がつくようなことはリスクが高すぎる」
━━やめろ、とナラは心の中ですり潰されるような気持ちが湧き上がった。
その言葉が、どれほどテオの尊厳を傷つけているのか、彼は想像すらしていないだろう。
「……そうですね、報告によると貴方はどうやら身の危険を感じても、感情が先に動く性分のようですから。それが死の理由に関係している、としましょうか」
丁寧に淡々と、ルシアンは続ける。
「むしろ、今まで何もなかった方がおかしいのかもしれませんね。今日まで貴方を守ってくださった神に感謝すると良いでしょう。……あぁ、そうです。神にはすぐお会いできるでしょうから、恐れなくとも良いですね」
彼は皮肉ではなく、本心からそう思っているのだろうとナラには感じられた。
その在り方が、ナラには理解できなかった。
「タンポポの少年は薬に適応してくれたようです。こちらはしっかり管理いたしますので、ご安心くださいね」
恐怖が、体の奥に染み込んできていた。
どうにかしないと、と思っていても打破する方法が思い付かない。
ここで本当に終わってしまうのか、と目を見開いた瞬間━━
何か、大きな物が破壊される音がしたと同時に。
低く唸るような……獣の鳴き声が響き渡る。
「『目標』逃亡しました!逃げっ……!」
叫び声が聞こえた方へ、ナラは眼球を動かした。
━━巨大な獣だ。
クマではない。
クマの2倍以上はある。
全身毛に覆われた中に鋭い爪が見える。
口の中から鋭い歯を見せ、唸りながら布を被った人間をなぎ倒している。
それが、こちらの方へ向かって来ている。
叫びたいのに、ナラの喉元から何も声が出ない。
ナラを運んだ男は獣に向かい、吹き飛ばされて宙を舞っていた。
逃げることさえできない。
ナラが息も心臓も止まる恐怖に、飲み込まれた瞬間だった。
視界を何かが遮る。
エメの後ろ姿だ。
━━それをナラが薙ぎ払ったのは無意識だった。
一瞬、酷く驚いたエメと目が合ったような気がした。
それも束の間━━
ナラは向かって来た獣に吹き飛ばされ、ルシアン共々谷底へと落下していった。




