第77話「好みよりも濃いお茶を」
アトミールは登山の準備があるからと部屋を飛び出していった。残された私は残された仕事を、つまり署名待ち書類の確認に取り掛かる。やや眠気が別の足音に気がついた。小刻みな早足。アトミールとは違うようだ。怪訝に思う私が顔を上げるやいなや、扉を小さく叩く音がした。
「どうぞ」
扉が開き、その向こうからは銀色の長い髪を靡かせた小柄な人影が姿を現す。シェリ姉さまだ。こんな遅くに何だろう。そう思う間もなくつかつかと近付いてきて、苛立たしそうに机に体重を掛けた。
「あなたね! わがままで周りを振り回すのもいい加減になさい!」
頭ごなしの言葉に何が何やらわからない。姉さまの言葉が雨あられと降ってくる。
「大学にまで行かせてもらったんだから、今の立場を用意するのに私がどれだけ苦労したかくらいわかるでしょ。あんな軽々に自分の地位を賭けるようなことをされたら……。あなたを据えることで納得してもらった方々に頭を下げて回ったのは私なのよ」
一から十まで正論だけど、だからって腹が立たないわけじゃない。私だって黙ってばかりじゃないぞ、という気になってきた。
「別に私が頼んだわけじゃないでしょ。姉さまがやれっていうから」
「ああそう。いいわね、あなたは。何にもしなくたって生まれたときからあなたには銀の食器が用意されていたんだから。私は養子として、長女として、妻として、期待に応えてはじめて地位が与えられる。二言目には苦手だのなんのって。私が最初から社交上手だとでも思っているの? 農民生まれの軽い腰なら折るのも簡単だろうって?」
堰を切ったように噴き出す不満に私は怯んだ。ああ、姉さまからはそう見えていたんだ。あのいつも優秀で洗練されて、だからこそ苦手だった姉さまの心の叫びを前にして、私はただ呆然としていた。
姉さまの顔に満ちていた怒りの表情はやがて消えていき、私には理解しづらい顔色へと変わっていった。
「……まあ、いいわ。結果としては上手くいったんだし。司令官の座を賭けた決闘ではなくて、名誉を賭けた試合という形に逃げたのは下策ではなかったわね。私ならもっとうまくややるけど、あなたがやるにしては上出来」
今のやりとりはなかったことにしよう。姉さまの言葉を、私はそう受け取った。
「……みんなの反応はどう」
「武人肌の人間の心は完璧に掴んでいるわね。あなたが負けたあの子も、あなたの将器を認めるほかないとこぼしていたみたいだし」
「それは……よかった。体を張った甲斐があったよ。……お茶、飲む?」
「あいにく飲んできたばかりなの。それで、他の層の評判だけど……まあ、いろいろだわ。実務家としての能力を見定めようってところね」
「その点はアトミールに頭が上がらないよ。見て、これ。この量の処理を三十秒かそこらでやっちゃった」
書類をつまみ上げると、姉さまは目を丸くした。
「相変わらず並外れた能力だわ。……どこで拾ったの」
「えへへ。いろいろあって」
姉さまは忌々しそうに鼻を鳴らした。
「こういうとこだけ器用なんだから。まあ、うまく人を頼りなさい。組織の力学とか交渉ごとは私がやったほうがいい。思うところはあるけど、遠慮せずに言いなさい。文句を言う権利は留保させて欲しいけど」
窓が風でがたがたと音を立てた。外で突風が吹いたらしい。
「あー。うん。ところで……その……」
「なあに?」
「ここに来たのは、私を叱るため?」
姉さまの口が一瞬鋭く尖り、思い直したように和らぐ。
「試合の効果を伝えにきたの。うまくいったわよって。それだけ」
それは半分。残り半分は、釘を刺しに来たんだろうな。両方の目的を達して満足したらしく、姉さまは私に背を向けようとした。
「ありがとう。……あっ、ちょっと待って」
背中に声を掛ける。
「何?」
このまま見送ったら、何か大切なものを失ってしまうような気がした。
「あー……」
焦れったそうに眉を顰めつつも、姉さまは私を黙って見守ってくれている。
「今を当然だなんて思ってない。これは信じて。……私に任せて良かったって、思ってもらえるように頑張るから」
姉さまは黙って私を見下ろしている。うう。気まずい。
「……本当にこういうところだけ……。せいぜい期待に応えなさい。投げ出したりなんかしたら承知しないんだから」
今度こそ姉さまは部屋から出ていった。
後に残されたのは脳天気で不器用な私。大きく伸びをして、お茶をまた一杯。
「やるぞ! 私なりに!」




