第56話「疑心と信頼」
国境地域までは船で五日、騎乗して五日の行程だ。蜥上の人となってアストーセを発ち一週間、くつわを並べるアトミールは鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌だ。
「クロエ」
物言いたげな視線を投げかけられ、ここ既に十回以上繰り返した言葉を口にする。
「格好いいよ。アトミールは背が高いからそういう服が似合うね」
声にならない声が微かに聞こえた。目を閉じて賛辞を噛みしめている彼女。うーん。何度見ても飽きない。彼女に付き合ってあげているような書き方をしたけれど、実際のところは共犯関係だ。彼女も嬉しい、私も嬉しい。
結局あの日、私たちは二着の服を買った。一着はクラヴィーニャさんが集めてきたサンプルの中から選んだ上で細かい注文をつけて仕立てるので時間が掛かる。今回の旅が終わったころには出来上がっているだろうとクラヴィーニャさんは請け合っていた。
もう一着、今彼女が着ているものは庶民の装いに近いものだ。庶民は古着を直して使うことが多く、服自体の構造も直しがしやすいようになっている。あの場の品をその場で直して着られたわけだ。今までのところ必要性はなかったが、今後ケイレアに近付くにつれ、お忍びというのが必要な場面も出てくるかもしれない。
左肩の部分をまるごと切り落としたような作りが面白い。帆布のワンピースをシャツの上から右肩から巻き付けて胸下のベルトで留めている作り。既視感を覚えて記憶を辿ってみる。たぶんヒンチリフの港で見たことがあるんだ。クラヴィーニャさんもどこかの国の水夫が使う作業服を参考にしたものだと説明していた。野暮ったさが綺麗に除かれているのは仕立ての妙ってやつなんだろう。均整の取れた体型を強調しつつも決して嫌味ではなくて、しかも身動きしやすい。自分を表現してみようと提案した結果としてこれが出てくるのはとってもアトミールらしいな。上品な自信と実用本位な考え方が伝わってくる。
「北部国境の警備体制を確認するんだよね」
冷静さを取り戻したアトミールがすまし顔で訊ねてきた。彼女は質問を続ける。
「フェリエスさんに何か他の意図があるとは推定できない?」
「うーん……どうして?」
「今この状況で私たちがアストーセを離れるような業務を与えるのは傍受設備の活用という意味では不利だから。保存機能はあるけど……対応が遅れるでしょう」
それもそうか。
「仮に意図があるとするなら……逆に私たちをアストーセから遠ざけておきたいという風に考えるのが自然かな。その方が道敵対者の警戒が薄れるとか、逆に警戒感を煽りたいとか」
「矛盾していない?」
「私たち自体が矛盾の塊みたいなものだもん。フェリは定時通信にいたずらをして反応を見るつもりみたいだから、報告の仕方一つでどちらにでも転がせると思う」
納得顔のアトミール。私との付き合いの中でも人間の矛盾を感じることは結構あるんじゃないかな、多分。
「まあ、アストーセに帰ればあの子から種明かしがあるでしょう」
そう締めくくろうとしたけれど、アトミールは納得しきってはいないようだった。
「クロエは……フェリエスさんに悪意があった場合のことは想定している?」
「フェリが裏切るかもってこと?」
「私たちはフェリエスさんを全面的に信頼して行動している。積極的に疑うべき理由はないけれど、彼女に積み上げている賭け金の割には信頼する根拠が薄弱であるように見える」
フェリに裏切られる。考えたくないから考えないようにしていたけど……。アトミールがそれを疑うなら、私は彼女の疑問に答える義務があると思った。
「私自身はフェリを疑うくらいだったら裏切られて死んだ方がましだと思ってるんだけど……確かに、アトミールに付き合う義務はないね」
アトミールの口元が微かに歪んだ。ごめん、ごめん。
「言葉のあや。アトミールを置いて死にたくはないからね」
覿面安堵に表情が緩む。私に似ず素直な子に育ってよかった、なんて失礼なことを考えているのはバレないようにしよう。
「まあ、でも今回の旅はちょうど良い。クロエとフェリエスさんには悪いけど、私もちょっとだけ仕掛けているから」
初耳。でもそんなに驚くことじゃない。
「分散受信システムの記憶装置は意図的にデータの改竄が容易なように作ってある。でも、改竄すると痕跡が残るようにも設計したし、改竄前の生データも別の場所に隠蔽した。記憶装置の収集はフェリエスさんが部下にやらせる手筈になっているでしょう? これで改竄が発覚すれば、フェリエスさんか、少なくともその身近なところに関係者がいることがわかる」
「安心させるためにわざと手を出さないということはない?」
「もちろんあり得ると思う。……ところで」
アトミールは得意げに微笑んだ。
「フェリエスさんから借りた離れはまだ私たちが借りているでしょう。何もしていないと思う?」
「それって、まさか――」
「広帯域電磁観測システムを屋根裏に展開してある。未知敵対者の無線通信が近隣であれば探知できる。室内の各所にも各種の観測システムを置いたから家捜しされた事実も記録できる。傍受記録の改竄、未知敵対者との無線通信、不在中の家捜し、全部が不観測なら一定の信頼を置く十分な根拠になると思う」
「ううん」
私は唸った。
「どのみち……家捜しくらいはされるかもね」
私たちが彼女を疑うように、彼女にだって私たちを疑うべき理由はあるわけだし。嫌だなぁ。ただでさえ苦手な腹の探り合いをフェリに対してやるのは。でも、アトミールの疑念はもっともだし、背負っている物を考えれば幾ら警戒してもお釣りが来るのも間違いない。私があまり気に病まないような形で最小限の警戒をしてくれた彼女には感謝すべきだろう。
「完全な不観測と疑うべき事象の観測との間には多少のギャップがあるのは事実。そこは多元連続認証の考え方を使うしかないかな」
ええっと。手帳の「アトミールから聞いた単語」部分をあらためようとしたけれど、乗蜥が歩いているときに手帳を読むのは無理があった。
「一つ一つでは不完全な情報を組み合わせて認証をする方法のこと。普段人がやっているやり方を機械にやらせようとするとこういう呼び名が付くの」
背丈がこれくらいで、声がこんな風で、顔がこんな感じで……というのを沢山組み合わせるのか。なるほど。確かに私たちは自然にこれをやっている。でも、特別な名が付くということは。
「機械には難しいの?」
「現実を数値に変換する部分を人間に依存していた世代の機械にはとても難しかった。自律無人機くらいになると簡単にこなすけど」
「アトミールくらいになれば朝飯前だね」
「もちろん」
胸を張る彼女を好ましく思いながら、私は行く手のことに思いを馳せた。
北辺帝国という国の名前を聞いたとき、アストーセ地方に暮らす私たちは二つの相反するイメージを呼び起こされる。一つは好戦的で野蛮な国という侮蔑のイメージ。彼らは崩壊戦争の後に生まれた「あとからの国々」の一つだ。本来は連邦の一部だった地域を支配して前崩壊文明から引き継いだ制度や価値観を軽視するから、前崩壊文明への回帰を国是とする連邦の建前からは決して相容れない。彼らだってそんなことは承知の上だし、寒冷な気候から食料は取れない。自然、足りない食料は私たちから奪うということになる。常態化する小競り合いと、時折燃え広がる全面衝突の戦火、そんな時代が三百年近く続いてきたわけだ。
そんな恐怖の北辺帝国に平等と合理主義の国というイメージがつき始めたのは私が生まれる前くらいからだったらしい。昔を知るお年寄りは皆、今の人たちは北辺帝国の恐ろしさを軽視しすぎるとこぼしていた。
貧しくて余裕のない国が必死に生存を図る中で生まれた合理主義を古く豊かな国が無い物ねだりで羨んでいるだけという皮肉な見方もあるようだけど――。実際のところ、あの国からの学生は本当に優秀で、それを目の当たりにすると冷や汗が滲むのも事実だった。だいたいみんなクラヴィーニャさんみたいな感じ。
「帰ったらクロエも買おうよ。私、選びたい」
「え?」
物思いにふける私の前を彼女が覗き込んでいた。
「だからクロエの服。私が選びたい」
その様子を想像してみる。……なるほど。
「いいね。お願いできる?」
「うん。約束」
蜥上で交わす握手の余韻を味わう暇もなく私たちの進路上に土煙が上がった。土煙は見る間に蜥乗した人影に変わり、目の前に迫る。その人影は、伝令を示すサッシュを肩から襷に掛けていた。
「何事ですか!」
大声で訊ねると、伝令はおもむろに速度を落とした。
「我が国境警備隊が北辺帝国の国境軍と衝突しました! 私はこれからアストーセへ参ります。あなた方は民政関係の官吏とお見受けします。この先にやむなき御用向きならばくれぐれもお気を付けなさいませ。それでは!」
疾風の勢いで伝令は去っていく。
「これ、どうしよう……」
火中に飛び込むべきか否か。重大な問題を前にして私がひるみ呆然としている間にも、乗蜥は歩みを進めていた。




