第57話「こちら側の敵」
来ちゃった。
後悔半分、やるべきことをやったという誇らしさが半分。私は目の前にある一触即発の光景をどこか他人事のように眺めている。
進むか退くか悩んだ末に私は進むことを決めた。私が状況を収拾するために役立つかはわからないけども、少なくともアトミールは役に立つ。
背を向けて帰ることは簡単だけれど、北辺帝国との全面衝突は私にとって最悪の出来事だ。単純にアストーセ地方監部管内での安全な移動に差し障りが出るし、ヒンチリフ家の生命線である大陸間貿易にも悪影響が出る。それに何より――。私はアトミールが何一つ屈託なくクラヴィーニャさんの手配してくれた服に袖を通すのが見たい。クラヴィーニャさんが自分のした仕事の出来映えに満足するのが見たい。私たちと彼女の間に国境が立ちはだかることなんて想像したくない。もしも戦争が現実のものになったなら、こうした悲劇がそこら中で起こるし、何隻もの船が一杯になるくらいの血が流れるんだ。全面戦争を避けるためにできることならなるべく力を尽くしたい。
できれば痛かったり怖かったりしない範囲で。
ふにゃふにゃな覚悟を固めて警備部国境派出所を訪れた私は奇妙な歓迎を受けた。最初は派出所の片隅で出番を伺う程度かと思っていたら、なんと現地での交渉に参加して欲しいと懇請されてしまった。その交渉が今、ここ。両陣営の部隊が睨み合う緩衝地域の真ん中にぽつんと建っている小屋で行われている。
「新たな客人もあることだから改めて強調したい」
なまりのある言葉で白髪交じりの女性が声を張り上げた。挨拶によれば、尋海東部軍管区国境軍司令官のデューリスさん。挨拶のときはにこやかで腰も低かったし、軍人と言うにはふくよかなようにも見える。けれど勲章を下げた武官公服に包まれた全身から放つ空気はまさに戦いを生業とする人たちのそれ。交渉の場となると挨拶の時の柔和な雰囲気を一変させ、今にも斬りかからんばかりの武威ばった空気を小屋中に発散している。
「我々としては第一撃を受けたのが我が国の側であったという事実を決して軽視し得ない。なるほどあなたがたの説明は承知した。そのような軍事行動は承認されていないし、近い将来に我が国に対して攻撃を加える意図も能力もない。仮に現在我々に見せている兵があなたがたにとっての全てであるのなら、その説明を疑う余地はない」
連邦が待機させている兵は国境警備隊の三十人ばかりだ。数百人の歩兵と数十騎の騎兵を誇示している帝国軍と比べるべくもない。でも、ここにやってくるまでには地方監部の直轄兵や近隣諸侯の兵を大勢見かけた。連邦が見せているのは手札の全てではないし、帝国だってそれは同じことだろう。連邦の当局者は、彼らより私たちの方が強大であるとは示したくなかったということなのかもしれない。
「いやはや面目ない」
額の汗を拭っているのは警備部国境派出所長のニム二等政務官だ。軍人然としたデューリス司令官と比べるといかにも文官然として線の細い人だが、そのしなやかさでよくデューリス司令官の圧力をいなしているようにも見える。
「ご存じの通り我が国は国境警備隊の兵力を警備に必要な最小限度としています。我が国が――故あってのこととはいえ――疑われている状況で、軍を前面に出すのはいかにもぶしつけであるから控えた方がよいと。それが我が国の立場です。ご賢察の通り侵攻に割く兵力は手元にございませんが、防衛に関してはお目に掛けているものが全てではございません」
「最小限」
デューリス司令官が不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「ねずみを飼うのも最小限度のうちというのがあなたの立場か?」
「はて……。何のことやら」
「お宅の調査室という場所のことだ。どぶに住むような獣たちを餌付けしているという噂が国境のこちらまで伝わってくる。お国の事情には関知しないが、伝わってくるのは噂だけではない。獣の悪臭で大変に迷惑しているのでやめて頂きたい」
調査室というふわふわとした名前を聞いただけではピンとこなかったけれど、話の流れでなんとなくわかった。フェリが関わっているような穏やかでない情報収集をやる場所なのだろう。
「初耳ですな。……まあしかし、奇妙なことを好む奇妙な者たちはどこの国にもいるもの。今回の議論とは直接関係のないことでもありますし、今回はひとまずお互い様ということで見逃して頂けませんか。だいいち、我々も民間人に大きな被害を出しているのです。困惑しているのはあなたがただけではないということは理解頂きたいものです」
その後は互いの原則論をぶつけ合うばかりで、丸一日費やして特段の成果のないまま会議は持ち越しとなった。
派出所の一部屋を宿としてあてがわれた。北だから寒いと嫌だなと思っていたけれど、断熱も暖房もきちんとしており我慢できる範囲だ。湖から獲れた魚介類を中心とした煮込み料理はぽかぽかと体を温めてくれたし、蒸し風呂も快適そのもの。扱いには何らの不満もないのだけど……。
「なんで私呼ばれたんだろ」
逆に不気味だった。
「見学させてくれたというわけではないはず。何らかの背景はあると思うけど……。推論の材料が足りないね」
アトミールも情報がなければきちんとした結論は出せるわけもない。
小さく扉が叩かれたのはそんなときだった。
咄嗟にアトミールに目配せ。彼女は警戒態勢を取りつつも、直ちに危険ではなさそうと目で答えてくる。
「どうぞ」
微かに軋む音がして、扉が僅かに開いた。
「夜分に失礼致します。調査室から参りました。フェリエス・ノアラ三等政務官よりあなたがたに協力するよう仰せつかっております」
その声は囁くようであるのに、どうしてか私の耳でもはっきりと聞き取れた。
その人は確かめもせず部屋に上がり込んできた。アトミールよりも大きな、というよりも細長い体を戸口から滑り込ませて後ろ手に扉を閉めたその男性は、膝をついてこちらに礼をした。
「ご無礼をあらかじめお詫びします。あの場にいて目撃されれば余計な騒ぎになりますので」
こう出られると怒りづらい。まごついているうちアトミールが先に動いた。
「お名前を。我々にはあなたを警戒すべき合理的な理由があります」
「ごもっとも。とはいえ……この場ではロムとお呼びください」
「偽名をもって信頼せよというのは無理のある要求では?」
「……なるほど。それではこちらを」
ロムさんの渡してきたのはフェリの筆跡で書かれた命令書だった。
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事務連絡第R〇〇三一四号
発 アストーセ地方監部警備部警備企画課 フェリエス・ノアラ三等政務官
宛 アストーセ地方監部警備部第三国境派出所 調査室第三班
今期における警備状況巡察を以下の者に命じて行わせる。現地情報収集に関する所轄部門である貴部門においては、当該人物に対して必要な情報提供を行われたい。
ヒンチリフ行政区 所属 クロエラエール・ヒンチリフ三等地方政務官
及び
随行者一名
ただし、人物の詳細については同送する別紙を参照のこと
以上
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これは確かにフェリの文章だけれども、頭の中から疑問符は消えない。
「……質問しても?」
「何なりと」
「まず一つ。これは警備状況を確認するための情報収集に協力することを依頼するものですよね。こんな夜更けに人目を忍んでやってくる理由にはならないのではありませんか」
「おっしゃるとおりです。この文書をお目に掛けようと判断したのは、まさにお二人が聡明な方であると判断したからに他なりません」
「つまり……私たちが騙しやすそうなら、うまく言いくるめて何かしらの裏工作に付き合わせようとしていた?」
「仮定のお話ではありますが、ここで誤魔化すことはあなたがたの信頼を得る上で好ましくないでしょう。おっしゃるとおりです」
「……後で確認したいことがもう一つできましたけど、言いたいことはわかりました。アトミール、何かある」
「ええ。文書に記載のある同送する別紙について開示を要求します」
たちまちロムさんは大げさな困り顔を浮かべた。
「我々の用語で『移管済み』という状態のものになりますので――」
「一般的な用語でお願いします」
「つまりですね……既に情報の置き場所を変えているんですよ。紙の上から、ここに。ですから、お目に掛けることはできません」
と言って自分の頭を指差した。真偽はさておき、一端は受け入れるしかないよね。
「わかりました。じゃあ」
アトミールの目配せ。次は私の手番というわけだ。
「もう一つの確認事項です。フェリエス三等政務官の文書が口実に過ぎないことは理解しました。それでは、あなたがたは私たちに何を望んでいるんですか?」
「両国全面衝突の回避を」
「それは……昼間ではいけませんでしたか」
殆ど不意を打たれた。もっとなんというか、いかにも後ろ暗い話をされると思っていたから。
「あなたがたにそのための活動を依頼し、情報収集に協力するという意味であればおっしゃるとおりです。しかし、これからお耳に入れるような情報を携えて、となると話は違います」
雲行きが怪しくなってきた。聞きたいような、聞きたくないような。そんな私の気持ちはお構いなしに、ロムさんは話を続けた。
「今回の衝突、敵は国境の向こうにはおりません。むしろ彼らはこの件に関しては潜在的同盟者ですらあり得る。真の敵は――」
やだ、聞きたくない。一番聞きたくないところを散々引っ張るのはやめて。こういうフェリ向きの話はフェリに直接言って欲しい。
「国境のこちら側にいます」




