金蘭の契り(五)
「さて、雨もあがったようなのでそれがしはお暇いたしましょう」
黒田が庭をみて言った。
「父にはお会いになりませんか。もう戻る頃かとおもいますが……」
「なに、また日を改めます。日高どのはしばらくこちらに居られるようですから」
黒田師範は、日高の面をみて微笑んだ。
「さよう、半月ほどはお世話になるかと」
「ほんとうにございますか。嬉しい」
美里は日高平吉の言葉に喜色を浮かべた。
「間もなく人形浄瑠璃の一座が参ることでしょう。そのときはお嬢様もぜひご観覧ください」
「はい、必ず」
そうして美里は、屋敷を辞す黒田を表門まで送った。
「黒田先生、お聞きしたいことがあるのですが……」
「なんでございましょう」
黒田は穏やかに問い返した。
門先に、ここでもまた桔梗があった。
「桐さまは……、三好さまは、人形浄瑠璃を観にいらっしゃるでしょうか?」
「ふむ、さて。それがしの預かり知れぬところではありますが、当人に聞いてまいりましょう」
美里は当惑した。
「いえ、あの、そのような……」
「なに、あの子も少しは人の世というものを知るべきなのですよ。まったく、己の内にばかり閉じ籠もって埒が明かない」
黒田は肩をすくめた。
「先生。桐さまは、お元気なのでしょうか? もういつ頃からか、お会いしていなくて……」
美里は桐之へ対する心の屈託を隠すことなく、黒田へ問いかけた。
「はあ……、まったくあいつは、こんなにも己を気にかけてくれるひとを放っておいて、情けない。そのような様で、いったいなにが剣術なのだか」
「以前に藤間さまが、桐之さまはとても頑ななご様子だと仰っていましたの」
「……それはまた」
黒田はため息を吐いた。
桐之が息災であるかどうかは、ずっと美里の懸念ではあったが、それ以上に、ふたりを隔てている事実が美里を暗くさせていた。もはや、ふたりの間には隔たりがあった。それを認めずにはおれない。それはどちらの咎でもないはずであろう、だが、あまりにさみしい。
俯いた足元の桔梗もまた、その首を垂れていた。
「おや、こんなところに桔梗が」
黒田が美里の視線の先をたどって、つぶやいた。
「こいつだけ、はぐれて咲いたのかな。しかし今年はもう見納めになりそうですな」
番傘を片手に持ちながら、黒田は器用に腕をくんだ。
「どこぞのお屋敷のそばにも、一輪だけ咲いておりました」
その場で差し出された傘と、足元に咲いていた花を頭に浮かべながら美里は言った。紺桔梗の袷に浅葱鼠の袴と、癇のつよそうな目元を。
けれど、桐之の俯いた姿、頼りなげな背中を、慕わしく、懐かしく、されど苦しくおもうのはなぜだろう。ともに隼の成長を見守った日々は、あまりに遠い。
「美里どの、どうかされましたか」
黒田は気遣わしげに美里を見下ろしていた。黒田が斎藤家へ来るのは、日高平吉だけがその理由ではないのだろう、きっとそうなのだ。
「……黒田先生」
「はい」
桐之の頼りなげな背中、しかし己もまたそうなのであろう。首を垂れた桔梗、それを見つめる自分は、その思いは、どれほど儚いものか。
「新田新右衛門さまとわたくしのことは、ご存知なのですか」
黒田は組んでいた腕をといた。
「美里どの、それは……」
「わたくしは、わかっていたつもりでした。父から話がありましたから。わかっていたつもりで、なにを思うことがあるだろうと、なにかを思うことさえも正しくないのでしょうと……」
けれど。
これきりということなど、考えたこともなかった。桃の節句のことも、今までのようには会えないと告げられたことも、美里のなかでは朧気だった。けれど、おそらく、きっと、その朧気であることさえも、消えてしまうのではないか。いま目に映る桔梗ともども。
美里は黒田へ乞うた。
「先生、お願いがあります。観劇のその日、桐さまを、きっと連れてきてくださりませ」
*
此世のなごり夜もなごり 死ににゆく身をたとふれば
あだしが原の道の霜 一あしづつにきえてゆく
夢の夢こそあはれなれ
あれかぞふれば暁の 七つの時が六つなりて
のこる一つが今生の 鐘のひびきのききをさめ
寂滅為楽とひびく也
若い二人が手をとり合い、闇のなかをゆく。もとより、帰る道はない。
闇に三味線の音が響く。女は白無垢の死装束に、恋路の闇の黒小袖。男は着流しに深く編笠をかぶり、死に場所をさがして彷徨う。若い男女の道行き、人形浄瑠璃曽根崎心中の最終段、天神の森の段である。
決した心は静かなのだろうか。女が暮らす茶屋からやっとの思いで飛び出したとき、女は男に縋りつき、うれしいと言って噎び泣いた。死ぬことを、うれしいと。
その、天満屋の段。
もっとも美里が打ちのめされたのは、ふたりの心中そのものよりも、それを決した瞬間だった。
女――所は大坂、天満屋の遊女お初は、尋ねてきた恋しい男、醤油屋の手代徳兵衛を、打掛の裾に隠して縁の下へ匿う。奇しくも、徳兵衛を陥れたその友人九平次が威勢よく天満屋を訪れた時分であった。
九平次は豪儀に立ち騒ぐ。徳兵衛から金を借りたものの返さず、あまつさえ、借金の証文に押した自身の印判を奴は偽造したと、徳兵衛がなにを言っても信じてはならぬと、大得意に吹聴する。
徳兵衛は縁の下で、怒りに打ち顫える。貸した金は、醤油屋の主からの意に染まぬ縁談を断るため、自身の知らぬ間に在所の母へ渡ったものを、ようよう取り返した支度金である。それを困窮したという幼馴染の九平次へ渡したのだ。それが運の尽きであったといえよう。
あわれ徳兵衛、この昼に、生玉神社で行きあった九平次と取り巻きの役人に濡れ衣を着せられ、しこたま殴られ蹴られのあとである。
主へ支度金を返さねばならぬ、醤油屋からは勘当され、大坂にはもはや居られぬ。そして私印の偽造は、引廻しのうえ、斬首さらし首の罰である。いよいよ進退窮まった、この上は、死んで潔白を証するしか道はない。
お初は、得意得意の九平次の口上を聞きながら、縁側で涙にくれる。その縁の下に垂れた打掛の裾には、徳兵衛。
独り言めかして女は言う。「証拠もなければ理もたたず。この上は徳さまも、死なねばならぬ品なるが、死ぬる覚悟が聞きたい」と、足で問う。打掛の裾より出した、それを寄せ。
すると徳兵衛、うなづいて、いとしい女の足首取って刃に見立て、喉笛を撫でる。
「自害する」という知らせである。
徳兵衛が死んだら、俺がお前をかわいがってやろうと調子づく九平次の言葉に、ついに我慢ならなくなったお初は告げる、徳さまと離れてただ片時も生きていようか、どうあってもあなたと一所に死ぬと。
徳兵衛はお初の足を押しいただき、膝に抱きついて焦がれ泣く。
美里の鼓動は轟いた。恋びとの足を刃に見立てた男のその挙措が、美里を顫わせた。
みなが寝静まった深更、お初は白無垢の死装束に着替え、店の二階より降りてくる。徳兵衛は縁の下から這い出し、ふたりは店を抜け出そうとする。だが、室を灯す釣り行灯の火が明るい。お初は階段から扇をくくりつけた箒で火を消しかけ、足を滑らす、その音は店に響きわたる。
物音で起きた店主は、火をつけるように下女へ命じる。お初と徳兵衛は、暗闇の中で、お互いを探し、音を立てぬよう、火打ち箱を探す下女に触らぬよう床を這い回る。
やっと手をとったふたり、門口まで抜き足差し足、掛金を外す、だが車戸の音が、ふたりの行く手を立ち塞ぐ!
そのとき下女が火打ち石を、ばたばたと、打つ音にまぎらかし、ちやうど打てばそつとあけ、かちかち打てばそろそろあけ、合はせ合はせて身をちぢめ、袖と袖とを槇の戸や、虎の尾をふむ心地して、二人つづいてつつと出―――――
車戸をそろそろと開けるごとに、拍子木の音、かちかちいえば、また拍子木。そろそろ、かちかち、そろそろかちかち、烈しく、烈しく、打ちかける。狂ったように打ち鳴らす三味線の撥、戸口からまろび出、ふたつの人形は、翻筋斗打って絡みあう。
顔を見合わせ、ああうれしと、死ににゆく身をよろこびし。
美里は、息をすら、うまくできなかった。胸は顫え、だが身体は凍りつくようであった。この物凄まじい思いは、なんであろうか。
どうやって桐之を見つけたのか、話しかけたのか、覚えていない。
「美里どの」
眼前に、懐かしい幼馴染みが立っていた。




