三十一、山本
歴史改変許さない警察の松本の規則性が、何となく見えてきた。
まず京都で起きる歴史の改変は高確率で口を出してくる。
先日の珍平の縁談や、その前の東福寺の火災が良い例だ。
逆に京を離れた件には、ほぼ介入して来ない。大原への幕府移転など、かなり大事である筈なのに。
問題はどこまでを、松本が京都と認識しているか。
その範囲を測る意味でも試してみたい案件があった。
「静原、それに岩倉か」
と地図を見ながら声をあげるのは管領の細川道永。
大原からの山道を西に進んだ、山あいの開けた土地が静原の地域、その静原を南に山ひとつ飛び越えて、京都中心から広がる盆地の北端にあるのが岩倉の地。
ここ一帯を治めるのが、史実では馴染みの薄い山本氏。
しかし、これが幕府を大原に移転となれば話が違ってくる。
山道を通って静原から市原へ、さらに現代に存在する、鞍馬の天狗伝説で有名な鞍馬駅に繋がる叡山電鉄鞍馬線、その線路沿いに抜けるというルートがもし可能であるならば、大原からの本隊と二方向から京都を挟み撃ちにする戦略が可能だ。
「確かに戦略的な意味は大きい。岩倉が使えれば尚更だ。
しかし問題は……」
そう、一つだけ問題があるのだ。
この山本氏、史実では少なくとも桂川の戦いまで幕府の敵として戦っていたような気がする。
この世界ではどうかというと、細川六郎陣営の堺公方の工作が効いて完全に向こうの陣営である。
なのでこの一帯を幕府の物として利用するためには山本氏の懐柔もしくは追放が必要となる。
なお史実で起きた十月の川勝寺口の戦い、いわゆる幕府軍と周辺武将を巻き込んだ京都奪還作戦は予定通り決行されるようだ。
そしてこの後の歴史が戦後の和睦も含めかなり複雑で、松本がどう絡んでくるかが全く予想出来ない。
「坂本から大原は、少し距離があるのが厄介だ」
と道永。
そう、もしこの時代にスマートフォンで地図を出して貰えば分かるのだが、直線距離では近い大原と坂本は高い山で分断されているのだ。
大規模な軍にこの山を越えさせるのは無理なので、迂回する必要がある。
まずは近江から明星寺を目指して現代の国道367号に抜ける北ルート。ちなみに明星寺は臨済宗大徳寺派、そうあの一休ゆかりの宗派だ。
もう一つは山中道から八瀬を経由する南ルート。かつて栄えた崇福寺の跡地を経由する。
実はこれに関してもある計画を進めているが、10月に間に合わせるのは厳しいかもしれない。
それはさておき。
「この山本を、説得する策がおありで?」
「いや、覚恕どのの事だ、この話を持ってきた時点で既に動いていると思う」
伊予入道大舘常興の問いに、将軍足利義晴が答える。
おっと拙僧、信頼されてるねえ。
実はその通りだよ。
ヒントは、堺公方の工作を逆手に取る作戦である。
「覚恕はん、こっちの首尾は上々やで」
「ふふっ、新たなみっしょん。心が躍りますぞ」
堺商人の武野新五郎に、京都商人の巡屋双衛門、この二人に加えて……
「あの愛宕権現様にお声がけ頂けるとは、至極恐縮にございます」
新たに堺商人の田中與兵衞が加わった。
実は彼、新五郎の知り合いで後の千利休の父親である。
更には、
「與四郎と申します」
と息子の利休本人まで連れてきていた。
おや、拙僧と同じくらいの年か?想像ではもっと年上だと思っていた。
「田中どの。今回のみっしょんでは、そちらの働きが重要になります。よろしく頼みましたぞ」
「は、はあ」
双衛門、それ軽くパワハラだから。
先輩風吹かせたい年頃かな?
さてこのメンバーで行うミッション、それは堺の人質救出であった。
実は山本氏が堺公方の言いなりになっている理由の一つが、まだ幼い子供が堺にいるからである。
その子をいかに公方から引き剥がすか。ここに1525年に流行した疱瘡を持ってくる。
山本の子供にその疑いが出たので感染を防ぐから隔離したい、ということにして。
そして治療のために預かるのは、件の田中家。
感染するからと謝絶すれば面会も断れる。
さらに人質の息子が預かり中に病になったとなれば、山本氏から堺公方に抗議も出来るという算段だ。
そもそも田中家で引き取る理由が、山本氏の息子が與四郎と同じくらいというのもある。
史実通りであれば堺公方は数年続き、その間は預かることになるので、長く一緒にいれば友人関係にもなろう。
しかし、山本氏に恩を売るにはこれ一本では弱い。
そこでもう一つの柱である岩倉の門跡に、拙僧は足を運んでいた。
岩倉門跡、実相院。同じ天台宗であるが、実は派閥が違う。
曼殊院は比叡山に近い山門派だが、実相院は寺門派と言って園城寺、通称三井寺を本山とする一派である。
近江の大津にある寺で、寺から湧く霊泉が
天智天皇
天武天皇
持統天皇
の三人の天皇の産湯に使われた事から「御井」が転じて三井になったと言われている。
山門寺門の争いというのがあってこの二派は正直仲はよろしくなくて、平安末期は寺門が源氏に肩入れし、南北朝時代は寺門が北朝(足利)、山門が南朝についたらしい。
しかし、そんな対立派閥にわざわざ足を運ばねばならない大きな理由がある。
それが史実でそれらしい記述のある山本氏の、門跡実相院の土地横領である。
ざっくり言うと武士が寺の土地に手を出して幕府に咎められた事件だが、どうもこの世界線では堺公方も絡んでくる。
堺の義維が将軍になった暁には、この件の解決に向けて動くと口約束が出ているらしい。
これを堺より先に、幕府のお墨付きで本物にしてしまう。ただその為には実相院にも一肌脱いでもらう必要があるのだ。
しかし同じ天台宗の対立派閥への交渉というのは何ともやりにくい。似て非なる存在だからだ。
まだ全然違う宗派の方がやり易かったなあと思いつつ、拙僧は珍平と共に岩倉へと足を進めるのだった。




