一、得度(挿絵追加 二枚)
挿絵を二個追加
大永五年四月一日、西暦1525年。
それは自らを拙僧と名乗るようになった最初の日であり、今は得度と呼ばれる出家の儀式の最中である。
拙僧は知仁親王——のちの後奈良天皇——の第三皇子として生まれた。
前世は「言継卿記」を持ち歩く程度の普通の高校生だったようだ。※いえ、普通じゃないです
この時代の歴史記憶を持っていることで良く言えば聡明、悪く言えば不気味な幼児として周囲から警戒され、気づけば早四年。
わずか四歳の出家は前例がないが、拙僧の母は妾腹で身分が低い。
正妻の万里小路家筋の第一皇子は皇太子候補、第二皇子は病弱、その姉の皇女が皇子の世話と朝廷の財政難を理由に出家が伸びているという経緯がある。
ゆえに姉の出家を伸ばしてでも、身分の関係で出費が安く済み厄介者の拙僧を早々に追い出したかったのであろう。
権力争いに興味はなかったし、生きてさえいれば良いと思った。
何より、誰かを助けたいという使命感がこの世に生を受けてから漠然とあったので、僧侶という仕事は適任に思えた。
髪を削ぎ落とす剃髪から始まって。
元々着ていた皇族としての装束から僧衣に着替え。
香を炊いた水で身を清める洒水灌頂。
得度の戒師、つまり拙僧の師匠となる法親王・慈運様と問答する授戒。
などなど、得度で行う儀式は大盛りマシマシラーメンくらい多い。
これに加えて皇族からの出家なので、御所からの使者経由で父の問答などが上乗せされる。
「今日より、覚えて恕む者……覚恕を名乗りなさい」
戒師の慈運様は淡々と述べたが、後に思い起こすとこの名前は深い意味を持つようだ。
何故なら慈という漢字に「いつくしむ」という読みがあり、恕にも「ゆるす」という読みがある。
戒師からすれば自分と同じ意味を持たせ、なおかつ出家を恨むなという意図もあったかもしれない。
史実通りであるならば、拙僧は戒師と違い陛下から法親王の地位を賜ることは生涯なかったから。
さて慈運様が拙僧に法名を授け、最後に袈裟と絡子——僧衣の一部を師の手から掛けてもらい、ようやく儀式が完了となる。
新たな住まいとなる曼殊院は御所のすぐ北、公家町にある。
歩いてでも行ける距離ではあるが、皇族として最後だからと人力で担ぐ輿の使用を許された。
本来なら高僧のみが許される特権である。
さて、御所入口に駐留している輿に向かうまでに拙僧は二人の兄とすれ違う。
一人は数え九歳の第一皇子の方仁、後の正親町天皇。
「息災にて」
と一言声をかけてはくれたが、彼の口元には分かりやすい安堵の表情。
有り体に言えば、邪魔者が消えてせいせいしているという態度だが、正直それに対して拙僧は何の感情も沸かなかった。
もう一人は第二皇子の寿仁、拙僧とこの兄とは同い年であり仲が良く、しかも病弱の身だ。
そしてそこには兄ともう一人、その場にいた。皇女の永寿である。
順番としては第二であるが、第一皇女は拙僧が生まれる前に亡くなったため数え七歳の長女という扱いになる。
寿仁はまるでぬいぐるみのように永寿に抱きかかえられるようにして座っていて、話すのも辛いのか、拙僧に手を振る。
もちろんバイバイは西洋文化なのでこの時代の日本にそんな風習はなく、拙僧が挨拶として教えた。
永寿も静かに微笑むのみで同じく手を振るが、この二人にはそれだけで十分だった。
史実では(名前が残っていない)寿仁が十歳、永寿女王が十七歳でこの世を去る。
原因が分かって手段があるなら、二人とも助けてあげたい。どうか二人とも、長生きで。
拙僧は慈運様と宜秋門を出て、車寄せから輿に乗る。
籠を担ぐ者達はこの時代には珍しく結髪せず、長い髪を垂らしたままなのが特徴的であった。
そして御所を出る時、入口に母の伊予局の姿が見えた気がした。
身分の違いから得度への同席を許されなかったのだ。
拙僧が出家した身分の今後は、少しは会う機会も増えるのだろうか。
そして一分ほど輿で進んだところで、ふいにその動きが止まる。
到着にしては早いなと思い、輿の簾を開けて外を見ると。
「わたしの、蒸し羊羹が」
と、その場に座り込む一人の町娘。
いや、一般の娘にしてはやや奇妙な格好であった。
女性なのに男物の公家の衣装。
その腰帯には木の仮面に扇子……ああ成程、彼女は猿楽師か。
この時代は能の前身となる猿楽、しかも女猿楽師が珍しくなかったと聞く。
どうも輿が彼女にぶつかりそうになったはずみで、串に刺した蒸し羊羹を地面に落としてしまったらしい。
「そこの娘、このお金で新しい菓子を買うといい」
拙僧は輿の中から、娘に銭を手渡す。
娘と言っても、四歳の拙僧よりだいぶ年上そうであるが。
「あ、うん……」
そう言って猿楽娘は、拙僧からお金を受け取ろうとして。
「一休さんは、一休さんなの?」
と良く分からない質問をしてくる。
ちなみに一休さんこと頓知坊主、一休宗純は文明十三年、西暦1481年の今から四十年ぐらい前に亡くなっている。
それでも京の都では、今もなお伝説的な存在である。
「いや、拙僧は一休ではない。さきほど覚恕という名を貰った」
「カクジョ……呼びにくいな。やっぱり一休さんでいい?」
「いや、まあ好きに呼んでくれて構わないが」
構わないが、何だこの子?
「そっか。じゃあね、一休さん」
そう言うと、蒸し羊羹娘はその場を去っていった。
さて移動を再開し拙僧が曼殊院に到着すると、そこには一人の少年が立っていた。
「皇子どのとお見受けする。拙者青蓮院より派遣された坊官、大谷泰平と申しまする」
少年はうやうやしく頭をさげる。
「これ泰平、もうこの者は皇子でないぞ。覚恕の授戒も授け、むしろお前の後輩と言っても良い」
慈運様が苦笑いでそう言う。
「まことでございますか慈運様。ってことは、無理に敬語をつかわなくても良いと?」
「むしろ拙僧が敬うべきでござろう。
覚恕でござる、泰平どの、今後も何卒よろしくお願いいたす」
拙僧は、僧の先輩である泰平に丁寧な挨拶をする。挨拶は基本。
「そうなの?えーっと後輩、後輩ねえ…」
どうやら泰平には後輩が出来たことがなく戸惑っているらしい。
しかし大谷、か。
確か戦国武将の大谷吉継の父の泰珍が、青蓮院の坊官だったと記憶している。もし目の前の泰平が血縁であるなら、間に珍平とかいるのだろうか……と、くだらないことを思いついてしまった。
「おい覚恕、さっきから黙り込んでどうしたのだ」
「いや、チンペイどのの子孫が将来、戦で名をあげる想像を少々……」
「はああ?」
泰平は目を丸くして驚く。
しまった!ついつい思いついた方の名前で呼んじゃったよ。
「あっ、今のなし……」
「お主、面白いな!
そのチンペイという呼び名、気に入ったぞ」
面白いの一言で済ませる所、泰平は器が大きいと思った。
これが拙僧の母や兄の方仁であれば、何を馬鹿なことをと眉を潜めることだろう。
「まあ立ち話も何だ、中で色々話そう。僧侶として覚えることも多い」
慈運様は静かに笑みを浮かべてそう言う。
我々の会話を一蹴しないあたり、この方も懐が広いと思ったのだった。




