二十、八瀬
「ふん、話にならぬな」
拙僧の案を伊予入道、大舘常興が一蹴する。
齢七十を超えた将軍家のご意見番にとって、それは受け入れがたいものであったらしい。
京の都から大原へ向かう途中に八瀬、という地名がある。
以前の大原行きで、拙僧はそこを通る際に眠ってしまい目にしていないが、実はここは比叡山に深いゆかりのある土地で、八瀬童子の住む里である。
八瀬童子と言っても特定個人を指す名前ではなく八瀬に住む人々の総称であり、天台宗の宗祖・最澄が使役した鬼、酒呑童子の末裔であるとも言われている。
地域的にも比叡山へ向かう入り口に位置し、古くから延暦寺の雑役を任されて来た経緯がある。
さらに八瀬は皇族ともいくつか深い繋がりを持つ。
一つ目は地名の由来にも関わるが西暦672年、壬申の乱で大海人皇子が矢を背に受けた傷をこの地域の蒸し風呂で癒した事から「矢背」が転じて八瀬という地名になったという。
一般開放されるのは江戸時代からだが今の時代でも皇族など一部の者の湯治の場所としても知られている。
二つ目は駕輿丁と言う職。
本来は天台座主の乗り物の輿の担ぎ手であるが、皇族の特別な行事に担ぐ事もあり、後で聞いた話では拙僧を皇族の御所から曼珠院まで運んだのも彼らであったという。
そう言えば彼らは、髪を長く伸ばしたままの姿であった。
結髪しないのが矜持であるかのように。
そして三つ目が本題だが、その八瀬に八瀬里座という座が存在し、これは記録上最古の座とも言われている。
座というのは簡単に言うと同業者組合で、織田信長は楽市楽座でこれを廃止させた経緯がある。
本所(支配権)は青蓮院、あの引きこもりの尊鎮法親王が門跡に復帰した皇族筋の寺である。
つまり拙僧は将軍家の避難所として、この八瀬にある座の施設を提案したのだが。
「まず八瀬には八瀬里座以外に大きな建物がない。
仮に将軍家と側近を八瀬に入れたとして、軍の他の者をどうする気だ?」
伊予入道がまず地の利を否定する。
指摘の通り八瀬には他の地域のような大きな寺や武家屋敷がなく、周囲を囲む山の上に数社の小さな神社があるくらいだと聞いている。
「何より、我々が負ける前提で動いているのが気に食わん。その為に用意した場所など使えるか」
そして武士の矜持で否定する。
「そして慣例であれば坂本か朽木に動く事になろう。
そこには幕府の知己もおる」
更に既に計画がある事を話し、
「そしてふん、京から近い場所に置くのは、おおかたあの晴子とか言う女と公方様を引き離したくないと言う浅知恵であろう。
そんな甘い理由で幕府の大局を図られても困る。
少ない人数でしか守れぬ八瀬で、もし公方様の命が狙われたら何とする?」
こちらの意図まで見透かすような発言をする。
「という事で、この話は無しだ。公方様、帰るぞ」
「し、しかし」
先程まで隣で黙っていた義晴が、困ったような顔をする。
「知恵のある小坊主と思っていたが、ふん、とんだ期待外れだったわい!」
そう捨て台詞を残し、伊予入道は去って行った。
そして彼が去って行った後で、
——まずは一つ。
と自分に言い聞かせて、拙僧は息を吐いた。
年が明けて一月中旬、拙僧の予想通り史実が早まった。
桂川で敗走した幕府軍は坂本へ逃げる事になり、典厠こと細川尹賢は軍の指揮から将軍義晴の輿を守る役目に格下げされたらしい。
典厠の格下げは想定外だったが、拙僧の策には好都合かもしれない。そちらには番内を見張りにつけている。
そして八瀬の童子から、伊予入道が予定通り動いたと連絡があった。
では、拙僧も行動を起こすとするか。
「おや覚恕さま、わらわに何用で?」
曼珠院に父と滞在中の、近衛晴子が声をあげる。
「突然だが、拙僧と八瀬まで湯治に行って欲しいのだ」
「……本当に突然でございますね」
驚く晴子だが、不快な表情はない。
むしろ何故そんな話をするのだろうと興味深々といった感じだ。
「ですが思い当たる節はございます。
先日覚恕どのが公方様に、八瀬行きを薦められたと聞いておりまする。
それは立ち消えになったとも聞いておりますが、覚恕さまの事です、何か策がおありなのでしょう?」
驚いた。
普段は無学だと公言しているが、あの典厠よりよっぽど聡明だぞこの女性。
「理由は後で話すが、この件は近衛様には内緒だぞ?」
「父に秘密を作るのですね?これは面白くなって来ました」
そういって晴子はホホホと笑うのだった。
「待て、その三人で行くつもりか」
拙僧と坊官の珍平、そして晴子の三人で出かけようとした際に、幹に引き留められた。
「そのつもりだが、何か問題が?」
「大有りだ。坊主二人に若い貴族の娘が一人。
不自然だとは思わないのか?」
確かに言われてみれば、訳ありの貴族の密会などと勘ぐられかねない。
本来なら輿を用意する所だが、生憎その余裕はない。
「なので美女を一人同行させる。これで万事解決」
「美女?」
「わたしわたし」
そう言って幹が自分を指差す。
「何なら、わたしの仮面を貸す。これで中身もバレない」
かくして、自称美女の猿楽使いを加えた四名が八瀬を目指す事になったのだった。




