九、本願(挿絵追加)
西暦1526年、大永六年の春に起きた事を話す前に、整理すべき話がある。
それは山城本願寺、つまり京都の浄土真宗についてだ。
一向一揆でよく混同されるが、あれは浄土真宗の「一向宗」である。
まず鎌倉時代、大原問答で名前を知られる浄土宗・法然の孫弟子筋にあたる一向 俊聖が起こした、一向宗というのが別にある。
しかし浄土真宗の信者が「南無阿弥陀仏」を「一向に祈る」ことから、ややこしい話だが、もう一つ「一向」という呼称が生まれた。
なので正確には一向宗というより一向「衆」と呼ぶのが本来正しいのだが、南無阿弥陀仏で救われるという分かりやすさを受け入れる民衆、とりわけ学びの機会が極端に薄い農民にその違いは分からない。
そのため浄土真宗なのに一向宗というややこしい事態が起きている。
さて京都の山城本願寺に話を戻すが、そもそも浄土真宗の開祖の親鸞自体が法然の弟子で、比叡山で修行もしている。
そして本願寺は元々は大谷廟堂と言って浄土真宗・親鸞の墓所、つまり小さなお墓であった。
それが本願寺というお寺になり、宗内派閥とのライバル争いを制し浄土真宗で本願寺派がトップになる。
拙僧が生まれる、二十年以上前の話である。
しかし宗派の地位としては頂点に立った本願寺であるが、寺そのものの格は驚くほど小さい。
開祖の血縁であるにもかかわらず、だ。
一応断っておくがほぼすべての仏教が出家したら禁欲の観点から独身を貫く中、浄土真宗だけが唯一、結婚と子孫反映を禁じていない。
故に跡継ぎが生まれる宗派なのだ。
そしてここからが本題になるが、拙僧の曼珠院が珍平という坊官を借りている青蓮院、ここも天台宗だが浄土真宗の本願寺派の得度をする寺になっている。
ここが仏教の奇妙な制度だが、出家の儀式である得度を行うのは何も自分の宗派の寺である必要がない。
拙僧も天皇御所で得度を行っている。
ただ本願寺派が代々青蓮院で得度してきたのは自由な選択というより、元々本願寺が青蓮院の一末寺という格下の立場という経緯がある。
宗派のトップの立場と、寺同士の格の違いは別物なのだ。
ちなみに現在の本願寺派の宗主は十代目で、まだ数え十歳の証如。
本当は父の円如が次ぐはずだったが若くして亡くなり、祖父の九代目宗主実如が亡くなった際に継承した。
実権は後見人で母方の祖父蓮淳が握っていると言って良い。
蓮淳の悪い噂は書き連ねたらキリがないが、ここへ来て拙僧の祖父後柏原天皇の体調が思わしくないことにかこつけて、青蓮院門跡を狙っているという情報を忍者である多羅尾番内から聞いた。
なので、どうしようかと思案している所だ。
門跡。
元来は門葉門流、日本の仏教の開祖の後継者の意味であった。
それがいつしか曼殊院や青蓮院のように皇族や摂関家など一部の者だけが継承できる寺院や長を指すようになり、室町時代に入って足利将軍家が門跡寺院に入るなど時代とともに変化を遂げている。
とは言え門跡の解釈の変更は天皇の御威光を損ねるとして、史実でも本願寺は門跡こそ許されたが最終的には最後尾、准門跡の格を与えられるに留まり、それすら異論を唱えるものもいたほどだ。
故に門跡の空白期間は例え皇族や摂関家が人数不足だとしても許される事ではないのだが、実は件の青蓮院、門跡は尊鎮法親王なのだが3年ほど前から高野山に隠退している。
浄土宗の揉め事の仲裁者になり、事態は解決に導いたものの嫌気が差して門跡を放棄して山に籠もったのだという。
そして本願寺と祖父の話に戻るが、天皇崩御のあかつきには本願寺が葬儀を執り行い、見返りに青蓮院の門跡を狙っているのだという。
本願寺派にしてみれば先ほども話したように、青蓮院は歴代宗主の得度を行い格の違いを叩き込まれる場所である。
例えるなら大会社の社長の就寝式を小さな町工場で行うような物で、本願寺派にとってはさぞ屈辱である事だろう。
何より門葉門流、開祖の後継者という意味に立ち返るなら喉から手の出るほど欲しい門跡。
幼い証如はともかく、蓮淳はこの機を逃すまいと思っているだろう。
しかし、である。
多少なりとも動機に同情はできても、"皇族の権威の空洞化"という実害は看過できない。
何より祖父の死亡にかこつけて、というのが気に入らない。
もっとも拙僧がこれを阻止するために、これからやろうとしている策と何が違うのと問われれば多少心が痛むのだが、何はともあれ武野新五郎に文を書く。
彼の師匠である、京の生き字引きに取り次いでもらうために。
「ほっほっほ。そちがあの一休の再来か。新五郎から色々話は聞いておるぞよ」
三条西 実隆。
後土御門・後柏原・後奈良の3代に仕えた公卿である。幼少期も含めればその前の後花園天皇をも知る存在だ。
確か齢は七十を超えているはずだが、それを感じさせない闊達さがあった。
「そしてお主の策であったが、実に理にかなったものじゃ。あの本願寺の坊主どもに、みすみす門跡をくれてやるよりよっぽど良い」
「ありがとうございます」
彼に肯定されて、拙僧は少しだけ心が軽くなった気がした。
「さて、山に籠もったあのお人好しを迎えに行くとするかの。おお、そうだ覚恕よ」
「何でございましょう」
「人助けも程々にな。あ奴のように燃え尽きて山に籠ることになるからの、ほっほっほ」
そう言ってこの生き字引は、愉快そうに笑うのだった。
そして後柏原天皇、崩御——史実通りの、大永六年四月七日であった。
蓮淳は想定通り葬儀を要請するが、その目論見は外れることになる。
何故ならその弔いは隠退していた尊鎮法親王が執り行い、青蓮院の門跡にも復帰する事になったからだ。
ここにはあの生き字引、三条西実隆の働きかけがあったのだが、その後の蓮淳の怒りは相当だったようで。
「あの蓮淳とやら。よーっぽどその件、はらわた煮えくり返ったんでっしゃろなあ」
曼珠院に来た新五郎が事の次第を報告してくれた。
「何でも堅田の本福寺いう寺に難癖つけて、寺の財物やら門徒やら根こそぎ持ってったっちゅう話ですわ」
本願寺の堅田破門事件は歴史の教科書で見たことがあるが、まさかこんな形に拘ってくるとは。
本福寺自体はその後没落したが再建され、かの松尾芭蕉の門人にもなっていたはずだ。
遠因とはいえ不幸な目にあった本福寺は援助を……いやいや、人助けも程々にと忠告を受けたばかり、と拙僧もしばらく頭を悩ませることになるのだった。
それはさておき。
「お久しぶり、愛宕様」
おい、やめろ幹。
「何をそんなに不機嫌なの?愛宕様」
いや、分かってて揶揄ってるだろ。
拙僧はこの奇妙な呼び名問題で、新たな問題を抱えることになるのだった。
10/24 挿絵追加(愛宕権現)




