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9/13

EIGHT

 本日は、少し雲の厚い、晴れ間のない朝でございました。

 私が日課の掃除をしておりますと、玄関の方からバタバタと小気味よい足音が近づいてまいりました。

 

「父さん!」

 

「幸雅、おはようございます。おや、今朝は随分と早いですね」

 

「あー、例のバグらせた影響かな。明け方の三時にはバッチリ目が冴えちゃってさ。ちょっと朝のランニングに行ってくるよ」

 

「それは良い方の影響で安心いたしました。朝の清々しい空気は脳にも良い刺激を与えてくれるでしょう。いってらっしゃい」

 

「うん、学校に遅れない程度にね。……あ、それとさ、假谷さんの記憶を分析(アナライズ)した内容、箇条書きにして机に置いておいたから」

 

「えっ!? もう書き出してくれたのですか?」

 

「早くアウトプットして、自分の脳を正常化させたかったんだよね。掃除が終わったら読んでみて」

 

「なるほど……。早速ありがとう、幸雅。すぐに読ませてもらいますね」

 

 そう言って快活に駆けていく幸雅を見送り、私は素早く朝の掃除をこなしたのでありました。

 

 片付けを終えてリビングへ戻ると、そこでは桜々さんが一足先にその記憶分析書に目を通しているところでございました。私が戻ったことに気づくと、彼女はひどく複雑な表情で顔を上げました。

 

「……やっぱり、トッキー。裏で糸を引いている『隠れ』が別にいそうだわ」

 

「そうでございましたか……」

 

「假谷さんは、いたって真面目で誠実な人よ。幼い頃からあの強面を怖がられて、ずっと誤解されて生きてきたみたい。そんな彼を大人になってからずっと支えて、親身になってくれているのが、会社の同僚である梶山さんという人物らしいのだけど……」

 

「その先は、トッキーが直接読んでみて。私は朝食の支度に戻るわね」

 

 手渡された分析書を受け取り、私はすぐに目を通したのでございました。

 そこに書き連ねられていたのは、假谷さんという男の、あまりにも慎ましく不器用な半生でした。人を蹴落とす野心やパワハラなどとは無縁で、社内に流れる自身の悪評すら本人は露知らずにいるようでした。

 

 さらに、奥様との結婚についても驚くべき事実が記されておりました。婚約者から強奪したなどというのは全くのデマで、実際は奥様の方が假谷さんに一目惚れし、当時婚約していた相手に自ら破棄を申し出たというのです。

 そして――その破棄された元婚約者こそが、現在も親友の顔をして假谷さんの傍にいる、同僚の梶山でした。当の梶山は「気にするな」と優しく声をかけ、二人の結婚を快く祝福してくれたのだと、假谷さん自身は今も信じて疑っていないようで……。

 

 バラバラだったピースが、最悪の形で結びついたような気がいたしました。あまりにも悲しい結末が予感され、胸が痛むのでございました。

 

 読み終わり、私が深く物思いに(ふけ)っていると、背後から声をかけられました。

 

「父さん……大丈夫?」

 

「おや、コウ。ランニングから戻ったのか、お疲れ様でした。シャワーを浴びて、すっきりした顔をしていますね」

 

「うん、リセットはばっちり。……あのさ、父さん。分析(アナライズ)している時のことで、まだ言ってなかったことがあって」

 

「おや、何でしょう?」

 

「前に別の人の記憶を分析した時は、禍々しくて暗い映像が頭に流れ込んできて怖かったんだ。でも、今回の假谷さんは違った。まるで暖かな日向ぼっこをしているような……すごく優しい感覚だったんだよね。これって……」

 

「その方が本来持っている、魂の波動――マインドオーラでしょうね」

 

「やっぱり? だからさ……」

 

「ええ。假谷さんは、天沢様を陥れた元凶ではありません」

 

「だよね。あの人、ちょっと猫のことになるとアレだけど……誰かを傷つけるような人じゃないよ」

 

「真の姿というものは、往々にして目には見えないものですからね。幸雅が『分析(アナライズ)』を引き受けてくれたおかげで、確実に真実へと近づけました。本当にありがとう」

 

「どういたしまして! あとは任せるね。……あ、それから父さん。無理を押し付けられたなんて、これっぽっちも思ってないから、何かあればまたいつでも言ってよ」

 

「幸雅……。そう言ってもらえると、救われますよ。……ありがとう」

 

「うん! じゃあ朝ご飯にしよう。みんな待ってるよ」

 

 促されて食卓へ目を向けますと、すでに賑やかな気配が漂っておりました。

 

「おや、ユキも起きてきていましたか」

 

「父さん、おはよー! 難しい顔してどうしたの?」

 

「お待たせしてしまいましたね、少し考え事をしておりました。さあ、みんなで桜々さんの美味しい朝食をいただきましょう」

 

 いつものように賑やかな朝食を済ませた後、私はすぐさま夏丸に相談し、彼は即座に行動を起こしてくれました。

 続いて、私自身も假谷さんへの接触を試みることにいたしました。幸いにも「本日の夜、会社帰りなら少し時間が取れる」との色よい返事を頂けたため、まずは一対一での対話の場を設けたのでございます。

 

 最初に彼が指定してきた待ち合わせ場所は……ンフッ、あろうことか『いニャし』という名のカフェでございました。ご丁寧極まるネーミングですが、要するに猫カフェでございます。どれだけ猫を愛していらっしゃるのか……フフッ、大変和みます。

 ですが、「別の猫の匂いをつけて帰宅されるのは、おかゆ君のご機嫌的に大丈夫ですか?」とさりげなく指摘申し上げたところ、假谷さんはハッとされたようで、すぐさま自宅近くのファミリーレストランへと変更になりました。本当に、おかゆ君ファーストな御仁でございます。宜しゅうございました。

 

 夕方になり、私はお礼の品を携えてファミレスの扉をくぐりました。

 

「あっ、押上さーん! こっちです、こっちこっち!」

 

 見渡せば、すでに假谷さんが大きな体を縮こまらせて席で待ってくれているではありませんか。待ち合わせの十五分前には着いたはずなのですが。

 

「申し訳ありません、假谷様。お礼に伺った私が遅くなってしまいまして……」

 

「いやっ、違うんですよ! 私が仕事の癖で必ず三十分前には着いちゃうだけで、押上さんは一分も遅れていません! すみません、私が勝手に早く来すぎたんです!」

 

「左様でございましたか。では、改めて……この度は夏丸が大変お世話になり、ありがとうございました。心ばかりの品ですが、どうぞご笑納ください」

 

 用意していた菓子折りを差し出しますと、假谷さんは慌てて立ち上がり、丁寧に頭を下げて受け取ってくださいました。

 

「そんな、気を遣っていただかなくても……。ですが、これも何かのご縁ですので、ありがたく頂戴いたします。ありがとうございます」

 

 その謙虚な物腰を見つめながら、私は確信いたしました。やはり、この方は決して悪人ではない、と。

 すると、お冷を一口飲んで意を決したように、假谷さんが身を乗り出してきました。

 

「それでですね! あのッ……お宅の猫ちゃんのお名前は、夏丸くん、と言うのですか?」

 

「はい。夏の丸と書きまして、夏丸(かまる)と呼びます。年齢は三歳前後でしょうか」

 

「三歳……前後?」

 

「実は夏丸は拾い猫でして。劣悪な環境にいたところを瀕死の状態で保護したのです」

 

「ええっ!? そう……だったんですか。てっきり、ベンガルという立派な血統書付きの猫ちゃんだと思っていました。毛並みもあんなに素晴らしいし……」

 

「今ではすっかり我が家の立派な一員です。ただ、いささか自由奔放が過ぎる質でして、この前のように度々脱走しては手を焼かせる可愛い息子でございます。……おかゆ君も、拾い猫だと伺いましたが?」

 

「おかゆもミックスの野良ちゃんだったんです。近所でよく見かける小さな白猫で、最初は警戒心が強くて近づくことすら出来なかったんですが……」

 

 そこまで言うと、假谷さんの目元が悲しげに歪みました。

 

「ある日、あの公園の入り口付近で、誰かが仕込んだ毒餌を食べて丸まっていたんです。気づいた時は頭が真っ白になって……夜間病院を探して、夢中で走り回りました。幸い食べる量が少なくて命は助かったんですが、妻には猛反対されましてね。『自分が責任を持つから』と必死に懇願して、ようやく許してもらったんです」

 

「そんな過酷な経験を……。毒餌のトラウマは、その後の食事にも響いたのではありませんか?」

 

「ええ、その通りなんです。カリカリも缶詰も一切受け付けなくなってしまって……。二日間絶食が続いた時は、本当に生きた心地がしませんでした。でもある時、私が食べていた白米の茶碗を目がけて飛んできて、ガッツくように食べ始めたんです。お行儀は悪かったんですが……」

 

「いいえ。飢えを凌ぐためです、仕方のないことでございますよ」

 

「ですよね! それから獣医さんに相談して、必要な栄養素を調べながら、今も手作りのご飯をあげているんです。最初は消化にいいよう『おかゆ』にして与えていたから、名前もおかゆ。今じゃ、美味しそうに完食してくれるのが何よりの癒やしです」

 

「ええ、本当に。夏丸も、大変美味しかったと申して――」

 

「えっ? 夏丸くんが、俺のご飯を……?」

 

「あッ……こ、この前帰ってきたとき、夏丸の毛艶がすこぶる良くふっくらしておりましたので、きっと……おかゆ君、の美味しいご飯を分けてもらったのだろうと、私が勝手に想像しただけでございます!」

 

(――危っっっないところでした……!!)

 

 假谷さんがあまりに良い人なものだから、ついポロッと口が滑りそうになりました。冷や汗をにじませながら、私はお茶をすすって居住まいを正します。気を引き締めなくてはなりません。

 

「あ、なるほど! いやあ、そう言ってもらえると嬉しいです。ありがとうございます」

 

「こちらこそ、温かいお話をありがとうございました。……假谷様、まだ少し、お時間はよろしいでしょうか? 実は、お話ししたいことがございます」

 

「あ、はい! 猫友達ができて、俺も嬉しい――」

 

「天沢五郎様のお話を、させて頂きたいのです」

 

 私がその名を告げた瞬間、假谷さんの顔から笑顔が消え、まるで彫刻のようにその場で凍りついたのでございました。

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