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NINE

 唐突に告げられた名前に、假谷さんは酷く動揺して言葉を失っておりました。しかし、ようやく我に返ったように小さく首を振ります。

 

「あ、えっ……と。天沢が……どういった……?」

 

「私はマンション『YADOCALI』の管理人をしております。天沢様は現在、我がマンションに入居されている住人の方なのです」

 

「引っ越したとは聞いていましたが……。え、でも何故、私との関係を? 会社名もお伝えしていませんでしたよね?!」

 

「天沢様が過労で倒れられた際、私たち家族が病院へ運び込んだのです。ご両親やご兄弟を頼れない事情を鑑み、我が家でお世話を勝手出た次第でございます。その際、天沢様の口から『上司の假谷部長』のお名前を伺っておりましたので、もしやと思いお聞きいたしました」

 

「あ、そうだったんですか……。……天沢は、元気になっていますか?」

 

「ええ、ようやくお元気になられてきました。ですが……」

 

「良かったぁ……!」

 假谷さんは大きな胸をなでおろし、本当に安心したように目元を緩めました。

 

「体調が悪くなるまで無理をさせてしまったと、上司として気に病んでいたんです。元気になったと聞いて安心しました」

 

「いいえ、假谷さん。まだ完全に快復されたわけではありません。……天沢様が体調を崩された真の原因に、お心当たりはございませんか?」

 

「えっと……連日の残業による疲れがたたったのだと……」

 

「天沢様が苦しんでいたのは、日頃からの陰湿な嫌がらせ、業務の妨害、さらには重要な取引先のイベントで起きた失態の身代わりをさせられたことでございます」

 

「重要な取引先? ……あ、あの件か! ですが、あれは代用品で何とかなったはずです。私も緊急の報告を受けてすぐに動き、代わりの品を届けました。先方にも頭を下げて、これならと許しを頂いたはずですが……」

 

「……どうやら、双方の認識に大きなズレがあるようですね。では、日頃の嫌がらせについてはどうでしょう。会議の時間や出張の日程が、本人の知らないうちに書き換えられていたそうですが」

 

「いや、そんなはずはありません! 同期の梶山がきちんと連絡を回したり、ホワイトボードの連絡板に書いてくれたりしていました。間違いなく書かれていたのを、私もこの目で確認しています……よ?」

 

 言いながら、假谷さんの声がにわかに自信を失うようにすぼまっていきました。

 

「では、取引先からの電話を天沢様へ繋がないよう指示したり、領収書を破ってゴミ箱へ捨てたり、営業先へ有りもしない悪評を流したり……といった噂を聞いたことは?」

 

「そんなこと……何ひとつ聞いたこともありません。何故……」

 

「ふぅー……。やはり、そうでございましたか」

 

「えっ……と、それは一体……」

 

「それら全ての嫌がらせを、天沢様は『假谷部長からの指示』だと信じ込んでいらっしゃるのです」

 

「ええっ?! 今、初めて聞くことばかりです! あいつが倒れたのも、日頃の不摂生が原因だと聞いていて……」

 

「それは、どなたからお聞きになったのですか?」

 

「部長補佐をしてくれている、梶山です。俺の唯一の同期で、一番信頼している同僚ですが……」

 

「なるほど。やはり、そこに繋がりますか」

 

 私が静かに告げると、假谷さんは困惑したように目を白黒させました。

 

「假谷さん。貴方ご自身に関する社内の噂を、耳にされたことはありますか?」

 

「いや……人の噂なんて当てにならないので、極力聞かないようにしていました。それに、昔から俺の見た目じゃ、どんな風に言われているか想像がつきますから……」

 

「それが間違いでございます。上司ならば、必要ないと思うような噂話や、周囲の人間の心理にこそ、耳を傾けておくべきでございました」

 

「ですが、俺の噂なんて……」

 

「ではお聞きしますが、假谷さんは昔から陰湿な嫌がらせを働き、優秀な同僚を蹴落とし、さらには婚約者の座をも力尽くで奪い取ってご結婚なされた、最低のパワハラ上司なのですか?」

 

「なッ、そんな訳ないじゃないですかッッ!!」

 

 假谷さんは思わず立ち上がりかけ、その迫力に周囲の客がビクリと振り返りました。

 

「ええ。私も、假谷さんがそのような方ではないと確信しております。なればこそ、このお話をしているのでございます」

 

「あ……。すみません、大声を出してしまって。でも、何故そんなデタラメな噂が……」

 

「あくまで私の推測ですが……その梶山さんという方は、社内でどういった立ち位置におられるのですか?」

 

「そりゃあ、同期の中でも一番仕事ができて、明るくて、いつも周りに人が集まっています。社交的で実績もどんどん出しているから、幹部陣からの人望も厚いですし……。まさか、梶山が……?」

 

「真実はまだ分かりません。ですが、可能性は極めて高いかと」

 

「いや、そんな……。彼はとても懐の深い、誰もが慕う男なんです……」

 

 假谷さんは力なく俯き、大きな拳を固く握りしめました。

 

「それは、あくまで表向きの姿なのかもしれません。假谷さん。貴方に情報が入る時、そのルートは常に梶山さん経由だったのではありませんか?」

 

「……はい、その通りです。彼がいつも『お前は顔が怖いから他の奴らが怯える。情報は俺がまとめて通してやるから、お前はどっしり構えていろ』と言ってくれていたんです。だから、他の人間に直接話を聞く必要がないと思い込んでいました……」

 

「今、社内で他に本音を話せそうな方はおられますか?」

 

「……一人、います」

 

「それは?」

 

「天沢のひとつ下の後輩女性です。話をしたことは数回しかありませんが、周りの連中に流されず、俺のことも怖がらずに普通に接してくれる子です。おとなしいですが、たまに発言することは若いくせにとても芯が通っている、という印象があります」

 

「では、まずはその方にそれとなく聞いてみてはいただけませんか? 天沢様の本当の状況、そして、ご自身の噂についてを」

 

「分かりました……」

 

「切り出しにくいことかとは思いますが、どうにも私には、悪意ある何者かが天沢様を孤立させ、假谷さんへの誤解を意図的に植え付けたように思えてならないのです」

 

「……はい。俺の評判なんてどうでもいい。ですが、天沢がそんな目に遭って苦しんでいたなんて、気づきもしなかった自分が情けない。天沢は大事な部下です。上司として、必ず事の真相を明らかにします」

 

「ありがとうございます。假谷さんにお話しして、本当に良かったです。どうぞ、よろしくお願い致します」

 

 そうして假谷さんと別れ、私が自宅へと戻ると、リビングで待ち構えていた桜々さんがすぐさま駆け寄ってまいりました。

 

「おかえりなさい、トッキー! ……どうだったの?」

 

「やはり、幸雅の分析報告書にあった通りの実直な人柄でした。假谷さんは天沢様の件も、自身の悪評も、全くご存知なかったのです。そして、梶山という男を心から信頼していらっしゃいました」

 

「信頼していた人に裏で操られていたなんて……それは、假谷さんにとっても苦しい事実ね……」

 

「そうですね。あのような心優しい方が、また傷つけられることになるのは忍びないのですが……」

 

「けれど、このままじゃ何も解決しないわ。いつかは通らなければならない道だったのよ」

 

「はい……」

 

「ニャアーん、……戻ったぞ」

 

 足元にしなやかに現れた夏丸に、私は慌てて膝をつきました。

「夏丸、ご苦労様です! 假谷さんのご自宅の様子はどうでしたか?」

 

「お前の推測通りだ。あの奥さん、今でも旦那にゾッコンらしいぞ」

 

「やっぱり……」

 

 事情の掴めない桜々さんが、不思議そうに首を傾げました。

「え? 誰が誰にゾッコンですって?」

 

「假谷さんの奥様ですよ」

 

「奥様が!? だって、昼間はソファーから動かなくて、おかゆ君の世話も假谷さんに任せっきりだって……」

 

 すかさず夏丸が、自慢げに髭を揺らしました。

 

「それはな、假谷が家にいる時だけのパフォーマンスだ。旦那が家を出た途端、掃除やらアイロンがけやら、ストック用の栄養満点な料理作りやら、とにかく(せわ)しなく動き回ってるらしいぞ」

 

「やはりそうでしたか。以前お会いした際、假谷さんの靴が見事に磨き上げられておりましたし、服装にも女性ならではの細やかな配慮が感じられましたのでね」

 

「あとな、一息つく休憩中には、熱心にある写真を眺めてるそうなんだ」

 

「写真、ですか?」

 

「假谷のどアップのスマイル写真だ」

 

「「ブフッ……!!」」

 

 夏丸のあまりに衝撃的な爆弾発言に、桜々さんも私も同時に吹き出してしまいました。必死に笑いを堪えながら、私は眼鏡の位置を直します。

 

「ンフフッ……今時で言う『ツンデレ』というものでしょうかね。普段は素直に好意を示すのが気恥ずかしいからこそ、夫の前ではソファーから動かないのでしょう」

 

「それにおかゆの奴が言ってたぞ。假谷がいない時は、奥さんがめちゃくちゃ自分の世話をして遊んでくれるんだと。電気代を気にして普段は冷房を入れないくせに、暑い日はおかゆが熱中症にならないよう、ひんやりした部屋を探して放り込んでくれるらしい」

 

「ほう。家計を預かる身としての節約ですか。猫がお嫌いなのかと思っていましたが、そうではなかったのですね」

 

「ただ、おかゆに対して可愛い嫌味は言ってるみたいだぞ。『アンタばっかり可愛がられて羨ましいじゃないのッ』ってな」

 

「ふはっ、アッハッハッ! それは嫌味じゃなくて、ただの可愛らしい嫉妬ね! なんてチャーミングな奥様なの」

 

 桜々さんが楽しそうに声を上げて笑いました。夏丸が言葉を続けます。

 

「だろ? 嫌がらせどころか、前に假谷の留守中におかゆが毛玉を吐いた時なんて、奥さん、パニックになってバスタオルに包んで病院へ猛ダッシュしたらしいぞ。医者から教えてもらった猫草を慌てて買いに走ったりもしてな。でも、帰ってきた假谷はそんな大騒動があったことすら、全く気づいてないんだとさ」

 

「それは……本当に見事な縁の下の力持ち、でございますね。夏丸、家庭の内情を探ってもらって本当に助かりました。夫に余計な心配をかけまいと、彼が家で安心して休めるように必死に家庭を守っていらっしゃるのでしょう。……本当に可愛らしい奥様です。假谷さんも、もう少し周囲を見る目を養わねばいけませんね」

 

 夏丸がもたらしてくれた心温まる報告に、私の胸のモヤモヤは少しだけ晴れるような気がいたしました。

 どアップのスマイル写真……ククッ。本当に、旦那様を愛していらっしゃるのですね。実に素敵なご夫婦でございます。

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