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8/13

SEVEN

 今宵は、ちぎれ雲の隙間から覗く星々が、実に見事な協奏曲(コラボレーション)を奏でている夜でございます。

 お察しの通り、本日も私たちは徒歩での移動をしております。「え? また空生お嬢様を怒らせたのか」ですって?!

 ち、違いますよ! 今回は夏丸が同行しておりますので、幸慈とお留守番をお願いしたのであります。

 

 それに、桜々さんは幸雅が初の試みである『脳のバグ』を実戦で試すことに猛反対されておりました。何かを深く考えるように黙ったまま、リビングでひとり佇んでいた妻の様子が気がかりで……。なればこそ、空生と倭久に事情を話し、彼女の側に残って貰ったのでございました。

 

 ――カツ、カツ、カツ

静まり返った夜道に慌ただしい足音が響いたのは、私たちがしばらく歩いた頃でした。

 

「待ってッ……みんな、待って!!」

 

 なんと、私たちの後を追って、桜々さんが息を切らせて走ってくるではありませんか。

 

「どうしたんですか、桜々さんッ! 何かありましたか?」

 

「ハァ、ハァ……。私も、私も一緒に行くわ!」

 

「えっ?! ですが……」

 

「コウは一生懸命に考えて、前へ進もうとしているの。それなのに、先輩能力者であり母親である私が、後ろ向きな不安に囚われて我が子の足枷になるなんて……間違っていたわ。ごめんなさい、コウ」

 

「母さん……」

 

 幸雅は驚いたように目を丸くしました。桜々さんはその細い肩を揺らしながらも、力強い眼差しを息子へと向けます。

 

「何かあっても私が側にいるわ! 自分の信じた通りに、思いっきりやりなさい!!」

 

「ありがとう、母さん。……あのさ、俺、今回は『上書き』じゃなくて『消去』の方を試そうと思ってるんだ」

 

「消去? それは一体どうして?」

 

「高熱を出した機械を一度シャットダウンするみたいに、活性化した余剰電流を綺麗に消して神経をバグらせる方が、脳が落ち着く気がするんだ。その方が確実性がある」

 

「……そうなのね! 分かったわ」

 桜々さんは深く頷き、我が子の両肩を包み込みました。

 

「もしも……万が一、何かを忘れてしまうようなことがあったとしても、貴方が私の大事な息子であることに変わりはないわ。その時は、私が全部覚えておく。ずっと側にいて守るから、最善を尽くしてきなさい。健闘を祈るわ」

 

「……うん。すごく、心強くなった。精一杯、頑張るよ」

 

 そうして二人は、何年振りか分からぬほど久しぶりの抱擁をそっと交わしたのでございました。

 

 幼い頃の幸雅は感情表現が豊かな甘えん坊で、空生と喧嘩をしては負け、よくベソをかいている子でした。今でこそ冷静沈着に振る舞い、滅多なことでは弱さを見せない澄まし顔の幸雅ですが、……この時ばかりは、未知の領域への不安が勝っていたのでしょう。桜々さんの温かい言葉に、その瞳に熱いものが込み上げていくのが見えました。

 

 母と子の絆の強さと温かさを、この老骨も肌で感じ……ウゥッ、申し訳ございません。……昔の光景が頭を過り、涙腺が完全に崩壊いたしましたッ! 成長した我が子の健気さ、そして滅多に拝めない母子の美しい光景に、私は今、猛烈に号泣させて頂いておりますぅうう!! 桜々さんんんー! 幸雅ぁあー! 私もそのハグに混ざりたいぃぃー!!

 

 ――コホン……失礼いたしました。

 ひとしきり流した涙を拭い、三人と一匹で気持ちを新たにして再び目的地へと歩を進めました。すると、私の足元から夏丸が首を傾げて声をかけてきました。

 

「ところでトッキー、どうやってターゲットに接触するんだ? おかゆに頼んだところで、猫の通り口じゃ人間は入れんぞ」

 

「流石に不法侵入の手は使えませんねぇ。ですから、帰宅途中の假谷さんを待ち伏せしようかと考えております」

 

「おー、それならあの近くにデッカい緑地公園がある。そこへ俺が誘い込んでやろうか?」

 

「おや、ついてきてくれますかね?」

 

「假谷は猫好きだからな。それも、たぶん重度のやつだ」

 

「えっ? 何故そこまで言い切れるのです?」

 

 私の疑問に、夏丸は少し気まずそうに髭を揺らしました。

 

「……実は、一晩中あの家の中に潜んでいた時、おかゆのベッドで一緒に寝落ちしちまってな。今朝、假谷本人に見つかったんだよ」

 

「なッ!? そうだったのですかッッ!?」

 

「『ちみは何処から来たのかにゃぁー? おかゆのおニャ友でちゅかぁー?』ってな。あの強面が信じられんほどヘニョヘニョにふやけた顔になって、猫撫で声で触ろうとしてきやがったからさ……気味が悪くて、思わずシャーして逃げちまったよ」

 

「「「!!」」」

 

 夏丸は余程のことがない限り威嚇シャーなどしない、極めて飄々とした賢い猫でございます。そんな彼を本気で警戒させた假谷部長の姿を想像し、桜々さんも幸雅も、そして私も、同時に呆気に取られ――そして、大爆笑いたしました。

 

「アハハハハ! 夏丸がシャーしたの?! 珍しいなぁ!」

 

「笑いごとじゃねえよ、コウ! 巨体の悪党面が、ダレきった顔で『おニャ友でちゅか〜』って迫ってくるんだぞッ! 身の危険を感じて逃げ出すのは野生の本能だろうがッッ!」

 

「ンフフッ……確かに、それは恐怖ですねぇ……アッハッハッハ!」

 

「シャーって……フフッ、夏丸ったら、ンフ、アハハッ!」

 

 夜の公園を前に、私たちはしばらく笑いを堪えることが出来なかったのでございました。

 

「ふぅ、笑い死ぬかと。フフ……まぁ、そんな御仁なら、夏丸の誘いには一発で乗るでしょうね」

 

「ああ。おかゆ曰く、緑地公園の中に猫集会に使う隠れ場があるらしい。入り口から東の奥にある茂みを抜けた、小さな広場だ。滅多に人が寄り付かない場所だから、そこで待ち伏せろ」

 

「分かりました。では、現地で落ち合いましょう」

 

 そうして夏丸が夜道へと消え、私たちは緑地公園の少し鬱蒼とした茂みをかき分け、件の広場へと先回りいたしました。

 静まり返った闇の中、耳を澄まして待つこと数分。遠くの方から、何やら酷く形容しがたい声が響いてまいりました。

 

「ニャンちゃぁああん! 今朝の、おかゆのおニャ友でしょうー? 何処に行くのかニャー? そっちの奥は危ないから、こっちおいでぇー。ほーら、ニャール持ってるよぉ、おいでぇええー。ニャンちゃぁああん!」

 

 ……なるほど。ンフッ、これは確かに夏丸が生命の危機を感じるはずでございます。

 ガサガサと草を分けて、まずは酷くゲンナリとした顔の夏丸が茂みから這い出てきました。吹き出しそうになるのを必死に堪え、私は幸雅と視線を交わします。

 

「コウ……来ますよ。よろしくね」

「了解。……いつでもいける」

 

 幸雅は小さく息を吐き、静かに精神を研ぎ澄ませました。

 私がすかさず足元の夏丸を抱き上げた、まさにその瞬間。草むらを押し分けて、ネクタイを少し緩め、顔中をデレデレに緩ませた強面の男――假谷虎ノ介部長が姿を現したのでございます。

 

「んおぅッッ!? ――あ、あぁっ、すみません! 人がいるとは思わなくて……!」

 

 私たちを見るや否や、假谷さんはハッと現実に引き戻されたように直立不動になり、顔を真っ赤に染めました。

 

「いえいえ! こちらこそ驚かせてしまって。あの……この子を捕まえようとしてくださっていたのですか?」

 

「えっ、あ、いや……その、ハイ……」

 

「ありがとうございます! 実はこの子、うちの飼い猫でして。数日前に突然脱走してしまい、家族で必死に探していたのです。この辺りで目撃情報があったもので」

 

「おや、お宅の猫ちゃんだったんですか! 実は今朝、私の自宅に迷い込んでいましてね……」

 

「そうだったのですか! それは大変なご迷惑をおかけいたしました!」

 

「いやいや、滅相もない! うちのおかゆ――あ、雄の白猫を飼っているのですが、彼が蓮花のベッドに招き入れたようで、仲良く並んで寝ていたんですよ。だからお友達なのかと思って。でも良かった、無事に飼い主さんの元に戻れて。今朝は私が急に話しかけて驚かせたせいで逃げてしまったので、心配していたんです」

 

 そう語る假谷さんの口調は、社内でパワハラを働いている人物とは到底思えないほど、誠実で優しさに満ちておりました。

 

「ご心配をおかけし、本当に重ねてお詫び申し上げます。私は押上時士と申します。不躾ですが、お名前を伺っても?」

 

「これはご丁寧に、假谷虎ノ介と申します」

 

「假谷様、本当にありがとうございました。……お仕事帰りでお疲れのところ、こんな奥まで追いかけさせてしまい、申し訳ありませんでした」

 

「そんな、頭を上げてください。偶然、道路を横切るこの子を見かけて、危ないなと思って必死に追ってきただけですから。変な声を出して呼び止めてしまい、こちらこそ失礼いたしました」

 

「とんでもございません。今夜はもう遅いですから、後日改めて、おかゆ君への感謝も込めて、お礼に伺わせて頂きたいのですが……」

 

「いえいえ、お礼なんてそんな! ……でも、来ていただけると、おかゆが喜ぶかな……いや、私も嬉しいですけど」

 

 会話の弾む假谷さんの懐に、幸雅が「足元が暗いですから、お気をつけて」と懐中電灯の光を向けました。そうして、段差を気遣うようにさりげなくその袖口へ指先を触れさせたのです。

 ここが『分析アナライズ』の開始合図――。幸雅の瞳の奥が、一瞬だけ鋭く光るのを私は見逃しませんでした。添えられた指先から静かに術式が流れ込み、假谷さんの脳の記憶をじわじわと読み解き始めたのでございます。

 

「ありがとうございます。では、明後日の夜など、ご都合はいかがでしょうか?」

 

「あー……、それなら丁度空いています!」

 

 そう言って、私は假谷さんとスマートフォンの連絡先を交換したのでございました。

 

 それから公園の入り口へ向かって歩き出す際、幸雅はスッと假谷さんの斜め後ろに付き、今度はその背中にそっと、しかし確実に片手を添え直しました。

 暗い夜道で転ばぬよう気遣う、ごく自然な少年の振る舞い――。ですが、これによってアクセスは途切れることなく継続され、假谷さんの膨大な記憶が幸雅の脳内へ刻一刻とロードされていくのを、私は息を呑んで見守りました。

 

 入り口までの短い道中、幸雅はずっと假谷さんの背を優しく支えるように、その手で触れ続けておりました。上機嫌に談笑する假谷さんの声をBGMに、幸雅の瞳の奥がかすかに点滅するように鋭く光り続けています。

 ようやく外灯の明るい公園の入り口に辿り着き、幸雅が静かに手を離したその時。

 假谷さんはお別れに「最後に、夏丸くんを一撫でしてもいいかね?」と、それはそれはホクホクとした様子で嬉しそうに、しばらく夏丸を撫でまわし始めたのでございました。

 軽やかな足取りで去っていかれるその背中を、私たちがようやく見送った――まさに、その直後のことでございました。


「……ヴグッ! ……グハッッ……!」

 

「コウッッ!!」

 

 突如、幸雅は猛烈な苦痛に顔を歪め、頭を激しく抱え込んでその場に崩れ落ちたのでございました。

 やはり、無理をさせすぎたかッ! 私が慌てて手を差し伸べようとした瞬間、桜々さんが弾かれたように幸雅の横へと膝をつきました。

 

「コウ! しっかりしなさいッッ!! 聞こえる?! 大丈夫、貴方なら出来るわ! これはコウにしか出来ないことなのよッ!! 意識を手放しちゃダメ、コウッッ!!」

 

 母親の必死の叫びが、息子の脳へと届いたのでしょうか。

 激痛に耐えていた幸雅の全身の強張りが、スルスルと解けるように抜けていき、やがてその表情に穏やかさが戻りました。脂汗に塗れながらも、仰向けになった幸雅はゆっくりと瞼を持ち上げます。

 

「コ、コウ……?」

 

 桜々さんが震える声で呼ぶと、

「……母さん……」

 ハッキリとした足取りの、確かな声が返ってきたのでございました。

 

 良かったですッッ……! 安堵のあまり、桜々さんは大粒の涙を流し、声にならない声を漏らしておられました。私もすぐさま床に膝をつき、息子の顔を覗き込みます。

 

「自分の名前が分かるかい、コウ?」

 

「分か……るよ……。けど、……まだ頭がクラクラする……」

 

「無理に動いてはいけません! ええと、お、お水は……触ってはいけないから、動かさずに、そのままで……!」

 

 私が酷く狼狽えて右往左往していると、幸雅は「はぁー……」と長い息を吐き出しました。

 

「落ち着いてきた……。正直、めちゃくちゃ焦ったぁ……」

 

「な、何がですかッッ!?」

 

分析(アナライズ)さ……。公園の入り口に着いた時には、もう九割方終わりかけてたんだよね。あの假谷さん、見た目は強面なのに、猫のことになるとスイッチが入って話が長いんだもん……。おニャ友とか言いかけるし。おかげで時間はたっぷりあって、かなり詳しく視られたんだけど……別れ際に夏丸を一撫でするんじゃなくて、全力で撫でまくり始めたでしょ?」

 

「確かに、熱烈に撫でまわしておりましたね……」

 

 すかさず、私の腕の中で夏丸が、


「俺もよく噛みつかずに我慢したと、自分を褒めてやりたいぜ」


 と合いの手を入れました……ククッ。


「あの部長なら、夏丸に噛まれてもご褒美だと喜びそうですがね」


 私がそう言うと、幸雅も小さく笑いました。

 

「アハ、そうだね。もし噛んでたら喜んでしまって、余計に時間くってたかもね。……はぁーほんと良かった。あんな風に目の前で嬉しそうに撫でまくられている最中、頭に手を当てて『消去』の術式を組むわけにもいかなくてさ。活性化の熱がジリジリ始まりかけてたから、本当に冷や汗が出たよ」

 

 息子の命懸けの立ち回りに感嘆すると同時に、私はある重大な事実に気づき、目を見開きました。

 

「そうだったのですかッッ!? ……ん? 待ちなさい、幸雅。今、貴方が『その焦っていた状況』を克明に覚えているということは……」

 

「うん! 活性化直前までの自分の記憶は完璧に残したまま、分析によって過剰駆動した『他人の記憶の残滓』だけを狙い澄まして消去し、脳の暴走をバグらせることに成功したよ!!」

 

「おおお……! なんという、素晴らしい快挙を……!」

 

「結果オーライ、かな。でも次からは、分析が終了する前のサインを父さんと決めておかないと、だね。やっぱり、実践してみないと分からない改善点ってのが出てくるもんだねぇー。はぁー良かった……」

 

「左様ですね……。本当によく、この過酷な試練を乗り越えてくれました。新技の獲得おめでとう、幸雅。……そして、本当にありがとう」

 

 私が差し伸べた手を、幸雅は力強く握り返し、ぐっと地面を蹴って立ち上がりました。

 假谷部長の記憶の収穫を胸に、私たちは誇らしい我が子の背を支えながら、温かい我が家への帰路についたのでございました。

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