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6/12

FIVE

――身体が重い。行かなきゃ……。どうして、こんなことになってしまったんだろう――

 

「ヴ、ヴェッ……、ゲホッ……、グゥッ……」

 

 身体の芯をきしませるような激痛と苦しみの中で猛烈な吐き気を催し、その方は慌ててトイレへと駆け込みました。一頻り吐き終えたものの、前日から何も食べられる状態になかったため、胃の中には何もない。ただただ、酸っぱい胃液だけが喉を焼きながらせり上がってくるのでございました。

 そんな惨めな状況にあってもなお、彼は這うようにして会社へと向かい、過酷な労働をこなし続けていたのでございます。

 

 数日後のある朝。とうとう洗面台に鮮血を吐き散らしてしまい、それを見た瞬間に、それまで張り詰めていた心の糸が、音を立てて千切れました。

 

「……ウッ、……うう、苦しい……。誰か……誰か助けて……」

 

 微かな擦れ声を最後に彼は意識を失い、冷たい床へと倒れ込んでしまったのでございます。

 一人暮らしゆえに誰も呼べぬその救難信号を、私は自身の能力で察知いたしました。すぐさま桜々さん、空生、倭久に協力を仰ぎ、彼の自宅へと急行。そのまま病院へと運び込んだのでございます。

 幸いにも命に別条はなく比較的軽い症状ではあったものの、医師からは絶対安静と入院が必要との診断が下されました。

 身寄りのない彼に代わって私が手続きを行おうとした矢先、ふと意識を取り戻した彼が、青白い唇を震わせて最初に口にされた言葉――それは、「年老いた両親と、田舎の兄弟にだけは心配をかけたくない」という、切ないまでの気遣いでございました。

 なればこそ。私は一週間の入院を経て退院された彼に、我が『YADOCALI』へのご入居を提案させていただいたのでございます。

 

◆◆◆◆◆

 

 本日は、天を衝くような吸い込まれるほどの青空が心地よい朝でございます。

 私が日課のエントランス掃除をしておりますと、スーツを身に纏った一人の男性が、実におぼつかない、弱々しい足取りで部屋から出てこられました。私に気づくと、彼は力なく視線を向けます。

 

「あ……おはようございます、管理人さん」

 

「これは天沢様。おはようございます。……お出かけでございますか?」

 

「……はい」

 

「差し支えなければ、どちらへ行かれるのかお聞きしても?」

 

「……会社に」

 

「それは……。そのお身体で、一体何をしに行かれるのでしょうか」

 

「辞表を、出しに行こうかと……」

 

「天沢様」

 私は持っていた箒を止め、彼の正面に立ち塞がりました。

 

「――それは、なりません」

 

「でも、かなり休んで迷惑をかけてしまったし……! それに、もう僕みたいな無能がいたって……」

 

「天沢様は現在、正当な病気休暇を使われてお休みになっているのです。体調が未だ思わしくありませんのに、無理など言語道断。それに病気休暇とは、組織に身を捧げてきた貴方が堂々と使ってよい『権利』なのでございますよ。どうか、疲れ果てた心と身体を癒すことを最優先にお考えください」


「……情けないですね、僕。本当に、情けない……」

 

「いいえ。そこまでボロボロになるまで必死に走り、喰らい付いて頑張ってきたという誇るべき証でございます」

 

「だけど周りのみんなは……誰もこんな風にならずに、ちゃんと頑張っているのに。僕だけが……脱落したんだ……」

 

「人には人のペースがございます。置かれた状況も違えば、背負う重荷も違うのです。天沢様、次から次へと考えなければならない難題は多くございましょうが、一旦、すべてここに置いていきましょう。どうか……今はただ、ご自身のお身体と健やかな心を取り戻すことだけを、お考えになってくださいませ」

 

「……はい」

 

 この消え入りそうな優しい笑顔を浮かべる甘いマスクのお方は、天沢五郎様。二十六歳でございます。

 新卒で誰もが知る大手総合広告代理店に入社され、成績優秀者として花形の営業部へ配属。将来を嘱望され、精力的に動かれていました。しかし、直属の上司が配置換えとなった日を境に、彼の運命は暗転します。その新しい上司から、極めて陰湿なイジメを受けるようになっていったのでございます。

 

 打ち合わせの会議室や出張のスケジュールを故意に間違えて伝えられたり、重要顧客からの電話を取り次がないよう周囲に指示されたりもした。破り捨てられた領収書をゴミ箱の底から見つけ出すような日々に、挙句には彼が営業に回っていた先々で根も葉もない悪評を流され、顧客との信頼関係を破壊された……。

 

 証拠が一切残らぬよう計算し尽くされた手の込んだ足の引っ張り方で、彼を徹底的に孤立させるよう仕向けていたのであります。全く……その狡猾な知恵を、どうして正当な仕事に活かそうとしないのか、甚だ疑問に思うばかりでございますね。

 周囲の同僚たちも、最初こそ同情して声をかけてくれていたそうなのですが、上司の報復を恐れてか徐々に見て見ぬふりをするようになり、やがて一人、また一人と、上司に媚びるように天沢様へ嫌がらせをしたり、聞こえよがしの陰口を叩く側へと転じていったそうでございます。

 

 それでも天沢様は、決してミスを出すまいと万全の準備を整え、必死に耐えておられました。しかし……ある重要な取引先の大型イベント当日、彼が発注していた機材が届かないよう別の無用な荷物にすり替えられており、イベントが完全に台無しにされてしまった。それが……彼が心身のバランスを崩し、倒れる決定的な引き金となったのだと、後にぽつりぽつりと話してくださいました。

 

「あ、そうだ! 天沢様、もしよろしければ、これから桜々さんの〝ヒールフォレスト〟をお受けになられませんか?」

 

「ヒール……フォレスト?」

 

「ええ。所謂、極上の森林浴を味わう癒しの時間、とでも申しましょうか。とても心が安らぐんですよ?」

 

「森林浴……。山なんて、もう何年も行ってないなぁ……」

 

「以前は、よく山に行かれていたのですか?」

 

「ええ。僕の故郷は山ばかりのド田舎だったので、他に遊ぶ場所もなくて。三兄弟でいつも泥だらけになって、木々の間を走り回っていました。川もすごく透明で、綺麗で、本当に気持ちの良い場所だったんです……」

 

 遠い故郷の景色を思い描くように、その端正な横顔に懐かしさと、切ない寂しさが入り混じります。

 

「……左様ですか。でしたら尚更、桜々さんの施術をお受けになってください。あ、料金の心配は無用でございますよ。我が『YADOCALI』の住人様への、特権でございますから」

 

「……じゃあ、少しだけ、お願いしようかな」

 

「はい! 素晴らしいご決断です。では準備が整いましたらご連絡いたしますので、お部屋にて少々お待ちくださいませ」

 

「はい……ありがとうございます」

 

 そう言って、天沢様はご自身の部屋へと戻っていかれました。その背中はまだ重そうではありましたが、故郷の記憶に触れたことで、強張っていた表情がほんの少しだけ和らいだように見受けられました。

 

 さて、この『ヒールフォレスト』と申しますのは、桜々さんが営むお悩み相談解決法の一つでございます。彼女は自宅の一室で、小さなお悩み相談所を開いておるのです。もちろん、しかるべき資格を習得し、届け出を済ませて許可もいただいている正式なお店ですが、大々的な宣伝は一切しておりません。本当に救いを求めている方、心に深い傷を負った方が、まるで目に見えぬ糸に引かれるようにして、自然とこの場所に辿り着くようになっておるのです。

 

 特に心の症状が重い方に対しては、あの特殊な『コントロールボール』を用い、症状や必要性に応じて『ヒールフォレスト(森林浴)』や『シーリラクゼーション(海原の安らぎ)』、はたまた『サウンド・オブ・インセクト(虫の音の癒やし)』など、多種多様な精神的癒やしの空間を完璧にご提供しているのであります。

 

 どうですか、素晴らしいでしょう、我が桜々さんはッ! ――何を隠そう、私の最愛の妻でございますッ、ムンッ!!

 

 愛しい桜々さんの姿を思い浮かべただけで、私の幸福メーターは一気に限界を突破。日課の掃除をマッハの速度で片付けると、弾むような足取りで我が家へと飛び込みました。

 

「桜々さん! 申し訳ありませんが、今すぐ『ヒールフォレスト』の準備をお願いできますでしょうか!?」

 

「ええっ!? もー、トッキーはいつも急なんだからぁ……。どうしたのよ、突然」

 

「天沢様のことでございます」

 

「あぁ、……なるほど。午前中の予約は入っていないから大丈夫よ。でも、どうして急にヒールフォレストを?」

 

「その方が彼の心を救うのに最も有効だと、私の予知が告げたのです。天沢様の故郷は、美しい山々に囲まれた場所でした。豊かな木々と、清らかな川の流れる……」

 

「分かったわ。少しだけ準備の時間を貰ってもいい?」

 

「もちろんです、私も手伝います。桜々さん……いつも突然の無理を言って、本当に申し訳ありません」

 

「ふふっ。トッキーの無茶振りなんて、今に始まったことじゃないじゃない。五郎くんが少しでも元気になるなら、私、いくらでも頑張るわよ」

 

「桜々さん……」

 

「なぁに、そんなに心配そうな顔をして。大丈夫よ」

 

「い、い、いつの間に、そんな親しげな名前呼びにッッ……!?」

 

「へっ?」

 

「ご、五郎くん、だなんて……!」

 

「はぁ!? そっちを気にしてるの!?」

 

「だって! 天沢様とはまだそこまで深く交流されていないはずでしょう!? なのに、どうしてそんなに自然に下の名前で呼べるのですかッッ……!」

 

「……トッキー。私を怒らせたいわけ?」

 ジロリ、と桜々さんの美しい瞳が据わりました。

 

「ち、違います! ですがッ……!」

 

「あのね、トッキー。五郎くんは空生の一つ年上。私から見れば自分の子どものようなものよ。それに、彼が退院してしばらくの間、幸慈と一緒に身の回りのお世話をしていたでしょう? 合鍵を預かって部屋の片付けに入ったら、ちょうど彼がリビングのソファで眠っていたの。……でもね、すごくうなされながら、涙を流して『母さん……』って呼んでいたのよ」

 

「えっ……」

 

「それを見た幸慈がね、『お母さんの手の代わりに、僕たちの手を貸してあげよう』って。二人で彼の両手をそっと握ってあげたら、ようやく泣き止んで、穏やかな顔になって眠ってくれたの」

 

「て、ててて、手を……握られたのですか……!」

 

「少ししたら五郎くんも目を覚まして、恥ずかしそうに慌てて謝ってきたから、私も勝手に部屋に入ったことを謝ったの。そうしたら幸慈がね、『恥ずかしいことじゃないんだよ。お母さんの手はとっても優しいから、僕が貸してあげてって頼んだんだよ』って、優しくフォローしてくれて。五郎くん、本当に救われたみたいに、何度もありがとうって言ってくれたわ」

 

「……そんなことが、あったのですね。申し訳ありません、軽率に取り乱してしまって……」

 

「……時士さん」

 

 不意に、いつもと違う響きで名を呼ばれ、私はハッと背筋を伸ばしました。桜々様が私を『時士さん』と呼ぶ時――それは、彼女が心の底から真剣な想いを私に伝えようとしている合図でございます。

 

「私はね、子どもたちも家族も、みんな同じように大切。だけど……私にとって、人生で一番特別で大切な人は、時士さん、貴方だけよ。それは恩があるからなんて理由じゃない。……一緒に幾つもの険しい道を乗り越えてきた、世界にたった一人のパートナー。決して解けることのない絆で結ばれた、私の最愛の夫だと思っているわ。それは、生涯絶対に変わらない。……だから、そんな風に嫉妬したり、心配したりしないで欲しいの」

 

 ――ああ、私は何という愚か者なのでしょうかッ!!

 

 己の浅はかな脳天を今すぐ拳で殴りつけてやりたい衝動に駆られました。最愛の妻にそんな悲しげな顔をさせ、私の不器用な猜疑心を晴らすための尊い言葉を言わせてしまうなんて。

 申し訳なさと、あまりの愛おしさで胸がいっぱいになり、彼女をこの腕に固く抱き締めようとそっと手を伸ばした――まさに、その刹那でございました。

 

「たっだいま、戻りましたーッ! いやぁ、なんか急にお腹が減っ――」

 

 ガチャリとドアを開けて入ってきたのは、倭久の野郎。

 そして部屋の異様な空気と緊迫した雰囲気を察知するなり、奴はドアの取っ手を握ったまま、彫像のように硬直いたしました。

 ……(ことごと)く、本当に悉く私の見せ場をぶち壊しにやってくる、天性のタイミングの悪さを持つ小僧でございますッッ!!

 

「あ、あのッ……なんか、お取り込み中のところを、本当に邪魔しちゃったというか……」

 

「本っっ当にその通りでございますな、お前はッッ!!」

 

「いや、あのッ、お父さん! そんなつもりは全くッ……!」

 

「貴様のような小僧にお父さんと呼ばれる筋合いは、一寸たりともねぇえええーッッ!!」

 

「は、ハイィッ! なんか、もう、本当にすみません、俺ッッ!! でも本当にお腹がペコペコで……」

 

「お前の薄汚い腹を満たす食糧など我が家には一粒もないわッ! 庭に出て外の雑草でも(むし)って食ってろやァアアアーーーッッ!!」

 

「トッキィィィーーーッッ!!」

 

 ひぃッッ!!

 そうして私は、部屋中に響き渡る桜々さんの雷が落とされ、抱き締めるどころかリビングの隅に正座させられ、こっ酷いお説教を頂戴することとなったのでありました。

 怒りで頬を染めるいけずな桜々さん……しかしッ、そのお姿もまた最高に美しく、ご褒美以外の何物でもございませんッッ!!

 

 本来なら作らなくてもよいはずの倭久の軽食を桜々さんが作っている間、私は一人、静まり返ったカウンセリングルームで、寂しく天沢様を迎えるための『ヒールフォレスト』の準備を整えるのでございました。……私の目から零れ落ちそうなものは、決して涙ではございません。

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