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4/13

FOUR

 本日は、雲一つない見事な秋晴れでございます。まさに、羽柴様親子が新たな一歩を踏み出す、ご退去の日にふさわしい青空。

 

 あの一件から半年以上の月日が流れました。元旦那様の島浜様とあのお姑様は、今もお元気で暮らしておいでのご様子。幸雅が施した脳内ファイルの書き換えは見事に定着したようで、この半年間、『YADOCALI』や羽柴様の職場周辺に彼らが姿を現すことは一切なくなりました。お約束を、実に綺麗に守っておいでのようです。

 

 実は一度だけ、近くを通りがかった折に遠目から島浜邸を覗いてみたことがございましてね。かつての物々しいセキュリティ門構えは綺麗に撤去され、実に見通しの良い、開放感に満ちた佇まいに様変わりしておりました。お二人で並んで仲睦まじくお庭の手入れなどをされている姿を見かけた時は、その微笑ましさに、私も胸の内でそっと安堵したものでございます。

 

 エントランスの自動ドアが開き、羽柴様と蓮織くんが姿を現しました。手にしているのは、本当に僅かなお荷物だけ。あ、説明し忘れておりましたが、我が『YADOCALI』は全ての部屋が家具家電付きとなっておりますので、お引越しも鞄一つで楽々なのでございます。

 お見送りをしようと、私、桜々さん、空生、倭久の四人でマンション前に並んで待機しておりました。私どもを見つけるなり、お二人はすぐに小さな荷物を揺らしながら駆け寄ってこられます。本日のお天気のように穏やかな、美しい笑顔を浮かべた羽柴様が、静かに口を開かれました。

 

「この一年間、本当にお世話になりました。……あの時、皆さんに助け出していただかなかったら……ッ、私も蓮織も、こうして元気に生きて過ごせている未来なんて、絶対にありませんでした。本当に……何とお礼を言ったら良いか。二人でまた新しい生活を始められるようになったのも、すべて皆さんのお力添えのお陰です。本当に、ありがとうございました……」

 

 深々と頭を下げる羽柴様の肩を、桜々さんが優しく抱きとめます。

「そんなことないわ、小葉さん。次の引っ越し先を見つけて、正社員の仕事を決めて、保育園の手続きをして……生活に必要なものをしっかり揃えることができたのは、すべて貴女の頑張りよ! 本当によく踏ん張ったわ。でもね、もしまた困ったことがあったら、いつでも遠慮なくここへ帰ってくるのよ?」

 

「はい、ありがとうございます! ……桜々さんには、育児の相談に乗っていただいたり、お下がりの服をたくさん分けていただいたり……。まるで、亡くなった母がすぐ側にいてくれるようで、本当に心強かったです。本当に、ありがとうございました……」

 

「そう言ってもらえると、私も嬉しいわ。……蓮織くん、これからもお母さんと一緒に、楽しい毎日をいっぱい過ごしてね。元気でね」

 

「あい! ママと僕をたしゅけてくりて、ありがとうございました。これからは、僕がママを守りまちゅッ」

 

 三歳という幼い子どもの精神年齢がこれほど急速に成長してしまうのは、そうせざるを得ない過酷な環境が生み出した悲しい結果なのかもしれません。健気で勇ましいその小さな背中が、少し痛ましくもあり、同時にたまらなく愛おしくもあり……。胸を締め付けられるような思いで、私はその場に屈み込み、蓮織くんの目線に合わせました。

 

「蓮織くん……あまり、頑張りすぎないでくださいね。これからたくさん、お母様の胸に飛び込んでいって、いっぱい甘えなさいませ。そして、蓮織くんからも必ず、お母様をギュッと抱きしめ返してあげるのです。それがお二人にとって、何よりの――」

 

 言いかけたところで、蓮織くんが小さな眉をキリッと吊り上げ、大真面目な顔付きに変わりました。

 

「僕はもう男の子だから、じぇったいに甘えたりちたらダメなんでつッ」

 

「おや……そうですか? 私は、それは少し違うと思うのですが」


「どうちて? 男は甘えたいってちたらダメって、テレビで……」

 

「男だから甘えてはいけないなんて、本当にそうでしょうか? ……人というのはね、いくつになっても、無条件に甘えられる場所があるということ自体が、とても幸せで嬉しいことなのです」

 

 私は優しく微笑み、蓮織くんの小さな肩にそっと手を置きました。

「甘えたいと思った時に、それを優しく受け止めてくれる人が側にいる……それはそれは、とても素敵なことなんですよ。ですから、素直に甘えられるお母様がいるのなら、今のうちはたくさん甘えておきなさいと、私は思うのです」

 

「……本当に、いいの?」

 

「ええ、もちろん! 甘えるというのはね、自分の心が傷ついた時に、どうやってその傷を癒せばいいのかという『心の守り方』を学ぶ大切な機会でもあるのです」

 

 蓮織くんは、小さな首を傾げて不思議そうに私の顔を見つめています。その澄んだ瞳に向けて、私は言葉を噛み砕くように続けました。

 

「……人間というのは、すぐに大切なことを忘れてしまう生き物ですからね。そうした経験があまりできないまま身体だけ大きくなってしまいますと、大人になって心が傷ついた時、どうやって自分を労わればいいのか分からなくなってしまうのです。そうすると、どんどん自分が苦しくなっていき、いずれ心がポキリと折れて動けなくなってしまう……。そうなったら、お母様が一番悲しむとは思いませんか?」

 

「うん……」

 

「それにね……お母様に思い切り甘えられる時間というものにも、ちゃんと限りがございます。ずっと甘えてばかりでは、いつまでも格好いい大人にはなれないと……そう思いませんか?」

 

 ハッとしたように、蓮織くんが小さな口を少しだけ開けました。

 

「ですから、どうかその貴重な時間の使い方をお間違えにならないように。蓮織くんが『嬉しい』や『楽しい』、そして『幸せだ』と思うことを、お母様と一緒にたくさんたくさん、積み重ねてみてください。そうすればお母様も、きっと世界で一番素敵な笑顔になられますから」

 

「うん! 僕、ママの笑ったお顔、じぇんぶちゅきッ! ママが泣いたお顔は、僕も胸が痛くなって悲ちくなるから……」

 

 幼い子どもは周囲の状況を何も分かっていないなんて、そんなものは大人の都合の良い免罪符に過ぎませんね。まだ三歳という幼さながらも、蓮織くんは現在に至るまでの家庭の空気を、しっかりと肌で理解しておいでだったのです。これまでに植え付けられた恐怖や傷ついた記憶が、これから訪れるたくさんの幸福な思い出によって、一刻も早く温かい色へと塗り替えられることを……私は切に願うばかりでございます。

 

「あッ! そらちゃんッッ!!」

「レオ――ッ」

 

 なんとッッ!!

 次の瞬間、二人はギューッと熱いハグを交わしたのでございました。しかも、驚くべきことに名前呼びですかッッ!? い、いつの間にそこまで親密な関係にッッ! うぬぬぬ……蓮織くん、やはり男として侮れないタマであります。

 

「そらちゃん、いつも優しくちてくれてありがとう。僕、じぇったいわちゅれないからね。大きくなったら、絶対、また会いに来るからね!」

 

「うん。いつでもおいで。待ってるから……」

 

 あぁーん、少年の言葉に柔らかく微笑む空生の横顔が、息を呑むほど美しいぃぃぃーッ!!

 

「そらちゃん、……僕、早く大きな大人になって、そらちゃんをお迎えに来るから! 待っててねッ」

 

 するとここで、子ども相手の他愛ない約束に本気で嫉妬した倭久が、実に大人げなく二人の間に割って入りました。

 

「はいはーい! 残念でしたぁー!! ソラはもう僕の奥さんになる人なんですぅー。レオがどれだけ大きくなって迎えに来ても、絶対に駄目なんですぅー」

 

(――おい小僧、俺はまだお前との結婚なんて一言も認めてねぇぞッッ!!)

 と、地獄の底から響くようなドスの利いた声が口から飛び出しそうになったその時、

 

「うるちゃい、ワクッ! そらちゃんは僕と一緒にいる方が楽しいって言ってたもんッッ。ワクはいつも手が焼ける困ったちゃんだって、そらちゃんが言ってたもんッッ!!」

 

「えッ……嘘。……嘘だよな、ソラ? ねぇ、ソラ……?」

 

 まさに寝耳に水。背後から奇襲を食らった形の倭久は、縋るような目で空生を見つめました。しかし、当の空生はただニッコリと、どこまでも慈愛に満ちた無言の笑顔を返すのみ。完全に撃沈した倭久を見て、私は心の内で快哉を叫びました。ザマァ見やがれ! クククッ……。

 

「もう、蓮織ったら、お兄ちゃんをからかっちゃダメでしょ……。じゃあ、そろそろ……。皆さん、本当に、本当にありがとうございました」

「ありがとうございまちたッッ!」

 

 そう言って、お二人はもう一度深々と頭を下げられました。そして仲良く手を繋ぎ合い、引越し先である隣町を目指して、駅の方へと一歩一歩、確かな足取りで歩いて行かれたのでございます。

 幼いながらも愛する母を守ろうとする少年の気概と、誰の力にも頼らず自らの足で立ち、己の人生を切り開いていこうとする羽柴様の強い意思。あのお二人であれば、これからの未来、何があってももう大丈夫でございましょうね。

 

 私たち四人は、遠ざかっていくお二人の仲睦まじい後ろ姿が完全に街の景色に溶けて見えなくなるまで、誰一人としてその場を離れることはありませんでした。

 少ししんみりとした空気が漂う中、桜々さんが小さく息を吐きました。

「これで……一件落着、かな」

 

「そうですね……」

 

「最初にあの部屋から助け出した時は、一体どうなることかと思ったけれど……。こうして立派に立ち直って、自分の足で踏ん張った小葉さんは本当に偉いわね」

 

「あちら側の弁護士が離婚協議でかなりゴネてきましたから、思いのほか時間がかかってしまいましたね。ですが、終わり良ければ全て良しでございます。……あ、そういえば、いつの間にソラちゃんと蓮織くんはあそこまで仲良くなっていたのですか?」

 

 すると、未だに精神的ダメージから立ち直れていない倭久が、恨めしそうな声を上げます。

「そうだよ、ソラー! 酷いじゃん、俺のあの言いよう……!」

 

 お前の言い分などこれっぽっちも興味はないんじゃぁッッ!

 空生が目の前にいる手前、決して口には出せず、心の中で全力の悪態を吐き散らしていると、空生がふっと視線を落として語り始めました。

 

「小葉さんが仕事でどうしても手が離せなくて、保育園のお迎えに行けそうにない時にね、連絡をもらって私が代わりに迎えに行ったりしてたの。離婚の話し合いが長引く時とかも、私の部屋で預かってたから……」

 

「おや、そうでしたか。いつの間にか、羽柴様ともそこまで深い信頼関係を築かれていたのですね。……てっきり、ソラちゃんは小さい子どもが少し苦手な部類なのだと思っておりましたが……」

 

「うん……今までは正直、子どもってどう接していいか分からなくて、苦手な方だったかな。でも、レオはすごく素直だったし、言葉の理解も早かったから。……私も、もし将来自分の子どもができたらこんな感じなのかなって、ちょっとだけ予行練習になったというか……」

 

「はへッ!? こ、こここ、子ども、ですって……!?」

 

「私も一応こうして家庭を持った身だし、いつかは……って、考えるくらい普通でしょ」

 

「はっやぁぁぁぁいッッ!! 早いッ、早すぎるでしょう、そんな大人の段階を考えるのはッッ! こ、ここここ、子どもだなんて、我が家にはまだ、天地がひっくり返っても早すぎますッッ!」

 

「何でよ……。そりゃあ今すぐって話じゃないけど、いつかはって、未来の願いを言ってるだけじゃん」

 

「ダメです、ダメダメダメッッ! 子どもを育てるというのはね、そりゃあもう、想像を絶するほど大変なことなのですから! すぐに原因不明の熱は出すし、服の上から容赦なく吐くし、落ちているあらゆる危険な物を口に入れるし、突然喋り出すし、目を離した隙にどこまでも走り回るしッッ……!」

 

「そんなの育児で当たり前じゃん……何、パニくってんの? 風邪も引かなくて、一言も喋らなくて、お人形みたいに大人しい子だったら、そっちの方が怖くて引くわ……」

 

「でもッ! それでもッッ!!」

 

 〝我が娘の出産〟というあまりにも恐ろしいパワーワードに完全に脳のキャパシティを越え、慌てふためく私を哀れむように、桜々さんがポンと私の肩を叩きました。

 

「あー、はいはい。トッキー、一旦落ち着いて深呼吸ね? あのね、今すぐどうこうっていうお話ではないの。ソラも一人の女性として家庭を持ったのだから、いつかそんな幸せな未来を迎えられたらいいな、っていう純粋な願いよ」

 

 桜々さんは呆れたように微笑みながらも、真剣な眼差しを私に向けました。

 

「子どもを授かるのは本当に奇跡的なこと。そして、出産はいつだって命懸けよ。そうした大きな覚悟と準備がすべて整った『いつか』のためにって事よ。今は温かく見守ってあげましょうよ」

 

「しゅっ、出産は命懸けッッ! そうですよ、出産は命懸けなんですよおぉおッッ!! ソラちゃんに、万が一の、もしものことなんかがあったりしちゃったら、私は一体どうしたらいいんですかッッ! 毎日泣いて泣いて、涙で床を浸し、この『YADOCALI』が一夜にして水没してしまいますよッ! それでも良いと言うのですかッッ!?」

 

「ハァアアー…………ほんっっっとにウザいッ!!」

 

「う、ウザいって……。あ、ソラちゃん……ちょっと待って、どこに行くのですか? ねぇ……ソラちゃーん……」

 

 私の必死の呼び掛けを完璧にスルーし、空生はスタスタとジムの受付室へと入って行ってしまいました。あぁ、愛しの娘に拒絶されるこの絶望。

 ふと隣を見ると、なぜか倭久の奴が、顔を真っ赤に染めながら私を横目で見てモジモジと(うごめ)いております。何なんだよお前はッ、気持ち悪いッッ!!

 すると、奴は意を決したように拳を握り締め、私に向かって直立不動で頭を下げました。

 

「お父さんッ! 俺、ソラがそんな辛い目に遭わないように、一生をかけて、全力で、這いつくばってでも支えますからッッ!!」

 

「はぁぁあああ!? 小僧の分不相応な意気込みなんかこれっぽっちも聞いてねぇよッッ!! ……お前、調子に乗って空生に妙な手を出しやがってみろ……。絶ッッ対に、奈落の底まで呪い殺してやるからなァー……。触るなよ、指一本触んじゃねぇゾォッ! 分かったかぁああーッッ!!」

 

「トッキィィィーッッ!! ちょっと来なさいッ!」

 

 ひぃッッ!!

 そうして私は、背後に般若の如き笑みを浮かべた桜々さんにガシッと首根っこを掴まれ、そのままズルズルと自宅のリビングへと連れ込まれました。その後、きっちり小一時間ほど床の上で正座をさせられ、こっ酷くお説教を食らったのでありました。

 叱られている最中の、あの冷徹で美しい桜々さんの眼差し……ああ、最高に素敵でございました……。

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