TWENTY-THREE
本日は、天を分厚い黒雲が覆う、どこか不穏な薄暗い朝を迎えました。
土曜日。約束通りヴァルハラからの迎えの車が到着し、幸雅は静かに乗り込んでいきました。見送る皇さんは、幸雅が協力してくれることがよほど嬉しいご様子で、朝から一段とハイテンションでございました。
幸雅が出かけている間、私は昨夜話しきれなかった詳細を空生、倭久、幸慈の三人に伝えました。それぞれが一人で行動せぬよう、そして万が一の事態に備えるようにと。
かつて自分が連れ去られそうになった古い記憶が蘇ったのか、心細そうな表情を浮かべた幸慈の肩を、桜々さんが優しく抱き寄せました。
「ユキ……大丈夫よ。学校の登下校は私が影からついていくし、状況が落ち着くまで絶対に一人にはさせないからね」
「お母さん……。コウ君が前に言っていた『強くなれ』って言葉、こういう事態に備えるためでもあったんだね……」
「そうよ。コウは自分が苦い経験をしているからこそ、ユキに同じ苦しみを味わわせたくなくて厳しく言っていたの。……今なら、お兄ちゃんの伝えたかったこと、分かるわよね?」
「うん……僕、もっともっと頑張るね!」
「ええ、頼もしいわ、ユキ」
すると、その様子を見ていた倭久が、決然とした面持ちで桜々さんに向き直りました。
「空生は僕に任せてください。僕よりもしっかりしている彼女ですから、そう簡単にはヤツらの手に落ちないとは思いますが……何があっても、命に代えても守り抜きますから」
「倭久……ありがとう。あなたなら安心して任せられるわ。空生をよろしくね」
「はい……!」
若者たちの覚悟を目の当たりにし、私も居住まいを正して告げました。
「卑劣な上に残虐な手段を選ばないのが、グルーサム……いえ、ネファリアスの本性です。くれぐれも気を抜かぬよう、各々、万全の態勢で臨んでください」
「「「「はいッ!」」」」
リビングに、力強い声が揃って響いたのでございました。
◆◆◆◆◆
夕方になり、幸雅は無事に帰宅いたしました。しかし、その顔色はお世辞にも良い結果を持ち帰ったとは言い難い、暗く沈んだものでございました。
同席した皇さんに、私はすかさず説明を求めました。そこで皇さんの口から語られたのは、あまりに驚愕の事実でございました。
「端的に答えますとねぇ、すべての黒幕は『GK』でした。まぁ意外でしたけどぉ、合点のいく部分もありますしぃ、分かってすっきりしましたわぁ」
私は耳を疑い、思わずオウム返しに呟いておりました。
「G……K……、あそこが、でしたか……」
「まぁ、あの組織は常にヴァルハラの後塵を拝む二番手でしたからねぇ。底知れない劣等感を募らせていたのでしょう」
皇さんはコロコロと鈴を転がすように笑いました。しかし、にわかには信じがたい私は、なおも言葉を重ねてしまいます。
「ですが、あそこの構成員たちは穏やかで、人助けを主とした医療活動をされているはずでは……」
「……時士さん。貴方がそれを口にするのは違いますね」
一瞬にして、皇さんの瞳から温度が消え失せました。
「コウ君の『分析』に間違いはありません。……人の心なんて、いくらでも隠せるものですから。裏側で糸を引く連中は、表向けの聖人君子たちの影に隠れてカモフラージュしていたのでしょう。あの悪徳なネファリアスも含め、正統でない犯罪組織はすべてGKが子飼いにしている傘下組織……これが、紛れもない真実です」
「ッ……! すみません……。ごめん、コウ。決してあなたの結果を疑ったわけでは……」
「分かってるよ、父さん」
幸雅は力なく首を振りました。
「俺も……まだ頭と気持ちの整理が、全然追いついていないんだ……」
「コウ……」
重苦しい沈黙を破るように、皇さんが手をポンと叩きました。
「それにしても助かったわぁー! 本当にありがとうね、コウ君!」
「……いえ」
「……ねぇ、コウ君」
皇さんが、じっと幸雅の横顔を見つめました。
「あ、はい……?」
「あの分析報告書に書かれていたこと以外で……まだ何か、私に隠していることがあるんじゃないかしらぁ?」
「……」
幸雅が息を呑み、視線を落としました。皇さんの鋭い洞察力は、息子の胸の奥にある「澱み」を正確に見抜いていたようでございます。
「……あるのね?」
「……はい」
「はぁー……なんであの場で言わなかったのよぉ」
「それは……あの時、ムギさんが近くにいたので。本人を前にしては、とても言えませんでした」
「……まさか、施設長の暗殺計画?」
「……はい。それに、皇さん……あなたの名前も、リストの最上位に入っていました」
「へぇー……」
皇さんの口元が、三日月のように歪みました。
「なかなかやる気じゃないの、そこまで舐められていたとはねぇ。……ククッ、面白いわ。あのクソ野郎どもがぁッッ!!」
全身からビキビキと凄まじい殺気を放出する皇さんに、幸雅は縮こまりながら謝罪しました。
「すみません……すぐに言えなくて」
「……優しいのね、コウ君。施設長に余計な気苦労をかけたくなかったのでしょう? あの人と仲良しだものねぇ」
皇さんはスッと殺気を収め、ふっと息を吐きました。
「それで? 決行日はいつなの?」
「二日後です。ヴァルハラで大きなイベントがありますよね。それを利用して一気に実行する計画のようです」
「……なるほど。ということは、まだ我が組織の内部に仲間……ネズミが潜り込んでいるわけね?」
「はい。血液採取の担当者と、遺伝子配列の解析者の二名……『中路』と『田守』という人物です」
「そう。分かったわ。施設長が寝首をかかれる前に分かって本当に命拾いしたわ……」
そこへ、幸雅が意を決したように顔を上げました。
「皇さん! 俺も、俺もその二日後のイベントに参加させてください!」
「ええっ!? コウ君が!?」
「俺、ムギさんの……近くにいたいです。何かあったら、俺が守りたい」
息子の言葉に、すかさず桜々さんが立ち上がりました。
「……そうね、それがいいわ。皇さん、私たち押上家も総出で協力させてもらうわよ」
「ええ!? でも、皆さんをそんな危険に……」
黙って聞いていた空生が、いたずらっぽく微笑んで口を挟みました。
「大丈夫だよ。私とお母さんは、ヴァルハラ製薬の『特別会員』なんだから。新商品のお披露目イベントに私たちが招待客として出席していても、誰も怪しまないでしょ? ほら、ちょうどここに招待状もあるし!」
「そうなのよ!」
桜々さんも我が意を得たりと頷きます。
「招待状が届いた時から行きたいと思ってたの! 新商品の中に確か『ツルピカ美肌ケア』ってあったじゃない? 私、とっても気になってたのよ! ……それに、当日はGKのトップや幹部たちも来るんでしょ?」
「はい……。あちらのトップ層にも特別会員が数名いるので、イベントには必ず顔を出すはずです」
「だったら、敵を迎え撃つ舞台としては最高じゃない! 潜入しているネズミもしばらく泳がせておいて、当日に一網打尽にしましょう。それに……コウがムギちゃんの近くにいてくれるなら、私としても一番安心だわ」
私も妻と同意見でございました。
「そうですね。周りの雑魚は私たちが引き受け、一掃しましょう。桜々さんや空生、幸慈には指一本触れさせません。なあ、倭久?」
「もちろんですっ!! 派手に蹴散らしてやりましょう!」
これほど心強い言葉が並ぶとは予想していなかったのでしょう。珍しく皇さんが目元を潤ませ、感極まった様子で頭を下げました。
「……皆さん……本当に、ありがとうございますっ。施設長には私から伝えておきます。どうか、よろしくお願いいたします……!」
「任せなさい! 皇さんも、それまではくれぐれも気をつけるのよ。相手には能力者もいるはずだから、直接接触してくるかもしれないし……」
「はいっ! 牙を剥いてきたら、バチコン叩き潰しますからっ!」
涙ぐみながらも、ゾッとするような凶悪な笑顔を見せる皇さん。こうして押上家は全員で二日後の決戦へ赴くことを決意し、皇さんもまた、信頼できる味方を得たことで、幾分か肩の荷が下りたようなご機嫌な様子で帰路につかれたのでございました。
それにしても、GKが黒幕だったとは……。やはりネファリアスの背後には、想像以上に巨大な巨悪が潜んでおりました。GKほどの組織がバックにいたからこそ、あのグルーサムも再起できたのでしょう。
ならば当然、決戦の日にはヤツらもヴァルハラへ集結するはずです。その時に、すべての因縁を壊滅させねばなりません。特に、このGKのような組織が存在し続ける限り、かつての私のように、実験体として惨い経験を強いられる能力者の子供たちが後を絶たない。それだけは、何としても阻止せねばならない――私はリビングでそっと拳を強く握り締め、心の中で静かに誓うのでございました。
◆◆◆◆◆
皇さんが去った後、異様な緊張感と沈黙が押上家のリビングを支配しておりました。誰もが思考を巡らせ、重苦しい空気が漂う中――その雰囲気を一撃で吹き飛ばしたのは、やはりこの男でございました。
「あー! お腹空いたぁーーっ! 腹が減っては戦はできぬ、って言うもんね! お母さん、ごはーーんっ!!」
幸慈のあまりにいつも通りの大声に、桜々さんがハッと我に返って吹き出しました。
「あら、そうね! もうそんな時間じゃない。ちょっと待ってね、今日は肉じゃがを用意してあるから、すぐに温めるわ!」
「やったぁ、肉じゃが! にっく、にっくぅ〜♪」
お尻を振ってはしゃぐ幸慈の姿に、隣の幸雅が呆れたようにため息をつきました。
「お前……よくそんな状況で食欲が湧くな。俺、胸がいっぱいで何も入りそうにないから、今夜はいいわ……」
「ダメだよ、コウ君!」
すかさず幸慈が、兄の前に立ちはだかって真剣な目を向けました。
「お母さんの作ってくれる美味しいご飯を食べないとダメ! 『来たるその時』に、最高の備えをしてなきゃ戦えないでしょ! だから、食べないなんて絶対に許しませんっ!」
「来たるその時って……プッ、何だよその大層な言い回し。ウケるんだけど」
張り詰めていた幸雅の顔から、ようやく笑みがこぼれました。
「備えあれば憂いなしっ!」
「なんだそりゃ。じゃあ、母さんの料理がその『備え』だって言うのか?」
「だって、お母さんのご飯は僕たちの血となり肉となって、最高のパワーになるんだよ? これ以上の備えなんてないじゃない!」
「あー……なるほどな。確かにそうだわ。ユキ、お前なんかちょっと大人になったな」
「えっ!? コウ君、本当にそう思う!? 僕、大人!?」
「ああ。考え込んで飯を抜く俺より、よっぽどユキの方が大人だよ。……そうだな、ここで悩んでても仕方ねえし、今の俺にできるのは、しっかり飯を食って体力をつけることだ。ユキ、気づかせてくれてありがとうな」
「えへへ、どういたしまして!」
二人の息子の微笑ましいやり取りを、私は目を細めて見つめておりました。
「私たちの息子は……本当に素晴らしい考え方を持つ子に育ちましたね、桜々さん」
「ええ……。私が言おうとしたことを、幸慈が全部代弁してくれたわ。そして、それを素直に受け入れるコウ。本当に良い子たちね……大人の私たちも、しっかりしなきゃ。さぁ、出来たわよ! みんなで頂きましょう!」
賑やかに食卓を囲む中、空生がそっと桜々さんの手元を見つめました。
「お母さん……私、今夜は肉じゃがの量を少し減らしてもらえる?」
普段ならご飯を絶対に一口も残さない空生が、自ら量を減らしてほしいなどと言うのは、今までにないことでございました。私は驚きのあまり、箸を落としそうになりながら取り乱してしまいました。
「ソ、ソソソ、ソラちゃん!? どうしたのですか、どこかお体が悪いのですかっ!?」
「ううん、元気だよ。ただ……さっきの皇さんが心配で。涙ぐんでいるのを見たら、なんだか胸がキュッとしちゃって……」
「ああ……そういうことでございましたか」
鬼の目にも涙、とまでは言いませんが、常に気を張り詰め、ヴァルハラを背負って戦う皇さんの孤独を、空生は敏感に察知していたのでしょう。
「うん。でも、私もいつまでも心配してばかりじゃなくて、今自分にできることに気持ちをシフトするつもり。ユキの言う通り、食べないのは良くないから、そのぶんサラダとフルーツはたくさん頂くね。だからごめん、少しだけ量を減らすのを許して……」
娘の健気な決意を聞いていた桜々さんは、すべてを察したように優しく微笑みました。
「……分かったわ、空生。あなたも皇さんとは仲良しだものね。心配な気持ちをエネルギーに変えて、しっかりシフトしていきなさい」
「ありがとう、お母さん」
「おいおい、おれ様にはササミの追加をよろしくなっ!」
足元から、空気を読まない我らが毛玉が割り込んできました。
「分かっているわよ、夏丸。ちゃんとカロリー計算して、ブロッコリーも添えておいたわよ」
「さすが桜々、分かってるねぇ! 恩に着るぜ!」
「どういたしまして。夏丸にも、二日後はその立派な前足で頑張ってもらわないといけないからね」
「フン、任せとけってんだ!」
こうして押上家は、愛情たっぷりの温かい料理で英気を養い、二日後に控えるヴァルハラでの一大決戦へと、静かに備えるのでございました。




