インターミッション5
おい、お前。またかよ。
この前来たばかりじゃねえか。……あー、悪いがゆっくり相手をしてやる暇はねえんだ。今から時士と、ちょっとした大事な話があってな。
日課の掃除がもうすぐ終わるはずだから、玄関前で帰りを待ってるところだ。え? 一緒にいていいかって? まぁ、邪魔しねえならそこにいろ。……おっ、時士が帰ってきたな。
「時士!」
「おや、夏丸。おはようございます。玄関前でどうしたんですか?」
「おはよう。……あのさ、少し、お前に聞きたいことがあってな」
「……構いませんよ。ですが、その件ならルナさんも同席した方が良さそうですね。二人で和室に入っていてください。手を洗ったらすぐに行きますから」
「なっ……!? なんで分かったんだ?」
「彼女もあの時、見かけていましたからね。その時の話でしょう?」
「そう……だったのか。分かった、呼んでくる」
「それと、そこで縮こまって、こちらを覗かれている『そちらの方』もご一緒にどうぞ。分かっていますから、ご遠慮なく」
「お、おぉ……」
さすが時士、相変わらず底が知れねえ男だ。おい、お前も一緒に入るぞ。ルナを呼んでくるから、そこで待ってろ。
ルナを伴って和室へ入ると、時士はすでに静かに座していた。俺たちが用意された座布団へ腰を下ろすと、時士はすっと目を細めた。
「さて。……話というのは、ロイさんのことですね」
「ああ。……お前が父さんと会ったって聞いた。何故、あの時一緒に逃げなかったのか。何故、俺を真っ先にお前に託したのか……教えてくれ」
「分かりました。それにはまず、あの『仕置き騒動』の引き金から話さねばなりませんね。……騒動の前、あの組織から桜々さんへ協力の要請があったのです。動物たちを忠実な下僕とするための『暗示』に、彼女の能力を欲した。当然、即座にお断りしたのですが、それが彼らの不興を買った。そこから押上家への、陰湿で執拗な嫌がらせが始まったのです」
隣でルナが、苦虫を噛み潰したような顔で低く唸った。
「あの組織がいかにもやりそうな、浅ましい手口ね……」
「ええ。最初は適当にあしらっていたのですが……ある日、小学校に上がったばかりのユキが、人気のない場所で拐われましてね」
「「っ……!?」」
「すぐに要求の電話をいただきましたので、お迎えに上がったのですよ。激怒した押上家の面々を引き連れて……」
「そ、それは……最悪の相手を怒らせちまったな」
「でしょう? 特にコウが激怒しておりましてね。容赦なく組織を叩き潰し、施設を破壊して回る最中、私はロイさんが囚われている部屋へ辿り着いたのです。……あの時のロイさんは、酷い有様でした。冷たい水が張られたプールへ、何度も沈められていた形跡があった。逆らう気力を奪うための、虐待的な『躾』を日常的に受けていたのでしょう。夏丸、お前が極端に水を恐れるのは……おそらく、幼い頃に同じ躾を――」
「ええ、夏丸もされていたらしいわ」
ルナが沈痛な声で言葉を継ぐ。俺の背中に冷たい汗が流れた。
「えっ……? おぼ、覚えてねえよ、俺は……」
「幼すぎたがゆえに、本能が記憶を消し去ったのでしょう」
時士の声は、どこまでも優しく痛みを包み込むようだった。
「ですが、恐怖は潜在的に身体が覚えている。夏丸、お前は本来、水を恐れるタマじゃない。ロイさんは、ベンガルという血統を持つアメリカ出身の漢でしたからね」
「そんなことまで、どこで調べたんだよ」
「写真付きの資料を、組織から『拝借』してきました。後で見せてあげますよ」
「あ、ああ……」
「ベンガルという種は、本来は水を恐れません。ミックスのお前にもその血は色濃く流れている。お前の水嫌いは、血ではなく、その時に刻まれたトラウマのせいなのです」
「……そうか」
「話を戻しましょう。私はロイさんを救い出しましたが、彼は満身創痍の身でありながら、すぐに私の手をすり抜けた。囚われた仲間たちを逃がすため、檻の鍵を開けに走ったのです。多くはすでに命を落としていましたが、生き残った一匹一匹に、彼は『逃げろ』と声を掛け続けていた」
「親父が、そんなことを……」
「ええ。状況を察した私の母さんも、ロイさんの指示に従って、動物たちを逃がす手伝いをしていたのよ」
ルナが誇らしげに胸を張るのを見て、時士は小さく微笑んだ。
「そこで私はルナさんを見かけた訳です。私もロイさんと共に檻を回っていたのですが……そこで、瀕死のお前を見つけた。その姿を見た瞬間の、ロイさんの愕然とした顔は忘れられません。お前が実験体にされているとは知らなかったのでしょう。彼は私に向き直り、『この子を、どうか助けてくれ』と、魂を絞り出すように懇願された。お前を絶対に生かすという、痛いほどの執念でした」
「母さんはその後、ロイさんから『時士に任せれば大丈夫だ』と聞かされたのね」
「その通りです。崩落を始めた建物から共に脱出しようと促しましたが、ロイさんは『まだやり残したことがある』と言って聞かなかった。先に夏丸を治療してくれと、私にお前を託し、彼は崩れる煙の中へと走り去っていった。ちょうどそこへ、ユキを救出した桜々さんたちが合流したため、私たちは一度、その場を引き上げたのです」
「やり残したことって……何だったんだ……」
「夏丸、お前のお母様を探しに行ったのですよ」
ルナが息を呑んだ。
「ノアさんを!? でも、彼女は……っ」
「ええ。私はお前を桜々さんに預け、すぐさま、崩落の始まりかけた建物内へ引き返しました。ロイさんと合流するためです。……ですが、私が現場へ辿り着いた時、そこはすでに激しい死闘の最中でした」
「死闘……?」
「ロイさんは、マリシャスと対峙していたのです。満身創痍の身体で激しく爪を振るうロイさんと、それを迎え撃つ一匹の影。そして……彼らが激突するすぐ傍らの檻の中に、一匹の黒猫が静かに横たわっていました。ロイさんの狂気にも似た必死な戦いぶりを見て、私は理解したのです。あの横たわっている悲しい骸こそが、彼の探していた妻――ノアさんなのだと」
「じゃあ、その時に親父を無理矢理にでも連れて戻ればよかったじゃねえか!」
思わず声を荒らげた俺を、時士の静かな眼差しがいなした。
「マリシャス……?」
俺が復唱するより早く、その名を口にした瞬間にルナの瞳に烈火のような怒りが宿った。
「マリシャス……ッ! あいつ、やっぱりそこへ現れたのね!?」
「ルナ、そいつは誰だ? 何故親父と戦ってたんだよ」
「反乱の手助けをするフリをして、ロイさんを裏切り、人間に売り渡した張本人よ! それまでは右腕面をして、常にロイさんの影に隠れていたくせに……。優秀なロイさんの側にいれば、自分も偉くなれるとでも思ったんでしょうね。歪んだ嫉妬よ。ロイさんが捕まってからのあいつは、仲間を足蹴にしてのさばり、挙句の果てには、ノアさんや夏丸たちを実験台にするよう人間に進言したのよっ……!」
爪が畳に食い込むほどの怒りが、俺の身体を駆け巡る。そんなクズに、親父は――。
「いいえ、夏丸。ロイさんはマリシャスに敗れたわけではありません」
時士が厳かに首を振った。
「我が子を実験台にされ、最愛の妻を奪われたロイさんの怒りは、凄まじいものでした。死闘の末、ロイさんは見事にマリシャスをねじ伏せた。そこへ激しい揺れと共に天井が崩落し、マリシャスは瓦礫の下敷きとなったのです。それで、因縁の決着はついた」
「なら、どうして親父は……!」
「マリシャスを巻き込んだ崩落を機に、建物全体が凄まじい勢いで崩れ始めたのです。私はロイさんに、ノアさんを抱えて共に逃げるよう叫びましたが、彼は首を振った。重い瓦礫が迫る中、傷ついた体でノアさんを抱いたまま、そこを動こうとはしなかったのです。『彼女を一人にしてはいけない。今度こそ、俺が隣にいる』……そう言って、私に背を向けた」
「おふくろを、一人にしないために……」
「『俺の子を頼む』――それが、崩落の轟音に消えていった、彼の最後の言葉でした。私は間一髪、直撃を避けて外へと退避せざるを得なかったのです」
部屋が静まり返る。親父の最期の覚悟が、重く胸に突き刺さった。
「崩落が収まった後、私はすぐに二人を捜しに戻りましたが、変わり果てたマリシャスの死体を見つけただけでした。二人の姿はどこにもなかった……。やがて警察や野次馬が集まり始めたため、私は迎えにきた空生と共に、その場を離れたのです」
拳を握りしめ、黙り込む俺の顔を、ルナが心配そうに覗き込んできた。
「夏丸……大丈夫?」
「……ああ。……なぁ、時士。おふくろは、どんな奴だったんだ?」
「資料の記述に過ぎませんが、ボンベイという美しい黒猫種で、穏やかで賢く、活発な一面もあったと書かれていましたね」
「私と同じ黒猫だけどね」
ルナが潤んだ瞳で、懐かしむように微笑む。
「漆黒の艶やかな毛並みに、まるで太陽を溶かしたような、金色の不思議な瞳をした綺麗な人だった。立ち居振る舞いは花が舞うようにエレガントで、走れば疾風のように軽やか。そして何より、優しくて、愛情深くて……っ……ウ、ウウッ……」
「ルナ……」
「……ごめんなさい。私の憧れの人だったの。本当のお姉さんのように優しくしてくれて、母さんに怒られた時はいつも庇って、私の他愛ない愚痴を聞いてくれたわ……」
「そうだったのか……」
ルナは溢れる涙を前足で強く拭うと、意を決した目をして時士を見据えた。
「時士さん、夏丸。お願いがあります。……一ヶ月間、私に外出の許可をください」
「「えっっ!?」」
唐突な申し出に、俺は思わず立ち上がった。
「な、何かこの家に不満があるのか!? それなら時士に言えば、いくらでも――」
「そんなわけないじゃない! ここは温かくて、優しい人ばかりで、世界で一番大好きな場所よ!」
「じゃあ、なんでだよ!」
「母との……私の亡き母との、大切な約束があるんです。お願いします……っ」
俺と時士は顔を見合わせた。時士の目が、静かにルナの覚悟を測る。
「今でなければ、ならないのですね?」
「はい。……今を逃せば、もう二度と果たせない気がするのです」
「分かりました。夏丸、お前はどうですか?」
「俺は……」
引き留める言葉が喉に詰まる。そんな権利は、俺にはない。ただ、脳裏をよぎったのは、あの静かな墓前での誓いだ。
「……ミー母さんの墓前で、俺はルナを守るって、約束したんだ」
独り言のようにつぶやいた俺の言葉に、ルナが目を見張った。
「まぁ、夏丸! そんな約束を母と……?」
時士の視線を感じて、急に顔が熱くなる。俺は慌ててそっぽを向いた。
「あ、ああ……あの公園からお前を連れ出す条件として、な。ミー母さんに誓ったんだよ」
「……ありがとう、夏丸。その役目は、帰ってきたら存分に果たしてもらうわ。でも、今は行かせて。今……行かなきゃ、私はもう……」
俯くルナの背中を見つめる俺に、時士が静かに、だが重みのある声を投げかけた。
「事を起こすべき『好機』というものを見誤ってはなりません。夏丸、ルナさんを本当に大切に思うのなら、男らしく背中を押してあげなさい。己の寂しさだけで相手を縛り付けるのは、ただの身勝手というものですよ」
「……っ」
「お願い、夏丸。信じて待っていて……」
ルナの真っ直ぐな瞳に、俺はついに白旗をあげた。深くため息をつき、頭をガシガシと掻く。
「うぅーッ……分かったよ、行ってこい! その代わり、俺のリュックと、GPニェス付きの首輪をつけていけ!」
「ええっ!? そんな重装備、無理よ!」
「全部軽量化されてるから大丈夫だ! 俺のリュックには警報噴射装置がついてる。変な野良猫が襲ってきても追い払えるし、GPニェスがあれば、お前がどこにいても空生に頼んですぐに迎えにいける。これだけは譲れねえ、つけて行けッ!」
途端に、横から「ククッ……」と嫌な笑い声が聞こえた。
「相変わらず、重度の過保護でございますねぇ、夏丸は」
「うるせえ! 何とでも言いやがれ! 心配なんだよ、し・ん・ぱ・い、っ!」
「ブハッ! クックックッ……いや失礼、あまりに必死なもので……」
腹を抱えて笑う時士の顔面に爪を立ててやりたかったが、ルナが嬉しそうに微笑んだ。
「ふふ、分かったわ。心配してくれてありがとう、夏丸。一ヶ月以内に、必ずすべてを終わらせて帰ってくるから。……待っててね」
「おう。気をつけてな」
数日後、雲一つない青く澄み渡った空の下、ルナは旅立った。
一ヶ月後の無事な帰還を祈ることしか俺には出来なかったが、遠ざかっていく彼女の後ろ姿は逞しく、大いなる使命感を背負った、誇り高いものだった。
……あ? おい、何を見てんだよ。泣いてなんかねえぞ、バカ野郎。
み、見るんじゃねえ! お前もそろそろ自分の家に帰りな。
じゃあな、また連絡しろよ。――シーヤ!




