↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

22/35

NINETEEN

 本日は晴朗なり!

 お母さんの鐵能理子(くろがねのりこ)さん、そして湖大郎くんのご退去の日でございます。

 

 あの雨の日以来、能理子さんがお付き合いされていたあの暴力男とは、無事に縁を切ることができました。アパートは元々その男の家であり、能理子さん親子は家賃や光熱費を折半する名目で住まわせてもらっていたそうでございます。

 

 ここへ来てからすっかり身なりを整えた能理子さんは、見違えるほどお綺麗になられました。すると、浅ましいかなその男は、綺麗になった能理子さんに強烈な未練を抱いたようで、復縁を迫って周囲を付きまとい始めたのです。

 相談を受けた桜々さんが幸雅にお願いをいたしますと、彼は少しばかり……記憶の『仕置き(消去)』を行ってくれました。お陰で男は能理子さんと湖大郎くんの存在を脳内からすっかり忘却し、二度と姿を現すことはなくなったのでございます。

 

 男の排除と並行して、私の方は能理子さんのご両親へと連絡を入れました。喧嘩別れをしたきりだと聞いておりましたので、ご両親をこのYADOCALIへと招き、私が間に入って仲を取り持とうと考えたのです。

 住まわれている部屋へとご案内し、玄関を跨いで、能理子さんとご両親が顔を合わせた――その刹那でございました。

 

 ――バシーンッッ!!

 

 激しい音が響き、能理子さんの頬が赤く跳ね上がりました。

 お父様の手が空を切る。驚く私を余所に、ご両親はすぐさま私の方へと向き直り、深く膝を折られたのです。

 

「この度は能理子と孫の湖大郎が大変なご迷惑をお掛けし、申し訳ありませんでしたッッ!」

 

 そのまま、玄関の床に土下座をされたのでございました。私が慌ててお体を起こそうとしても、ご両親は頑として動きません。

 

「このような立派なお住まいを提供していただき、様々な手助けまで……。押上さんのお陰で、娘も孫も……雨風を凌ぎ、人並みの暮らしを取り戻せました……っ」

 

 お父様の声が詰まり、涙が床にこぼれ落ちます。

 

「……能理子、お前がひと言でも連絡をくれれば、私たちだってすぐに動けた。なのに離婚の報告だけで、その後は一切音沙汰もなく……!」

 

 はつられた頬を押さえながら、能理子さんが悔しげに言い返しました。

 

「仕方ないじゃないッッ! 携帯も取り上げられて連絡手段なんてなかった! それに、私が我慢をしないからだ、なんて離婚の経緯も聞かずに一方的に怒鳴り散らしたのは、お父さんたちの方よッッ!!」

 

「当たり前だろう! 公衆電話からだって一本くらい掛けられたはずだ!」

 

「言い分も聞いてくれない人に、どうしてそこまでしなきゃいけないのよ! 一銭も持たされずに追い出されて、湖大郎の寝床とご飯を最優先にするしかなかった……それの何が悪いのよッ!!」

 

「……待て。一銭も持たされずに追い出された、だと?」

 

 お父様が呆然と目を見開き、記憶を辿るように言葉を紡ぎました。

 

「進之介くんは……お前が勝手に家を出て行って、家のお金まで全部持ち逃げした……と」


 そう聞かされていたのでした。しかし能理子さんは、結婚してから一度も家計を握らせてもらったことなどなく、自分の結婚前の貯金を切り崩して生活していたと言います。

 双方の主張が完全に食い違っている。そこに元旦那・進之介の影を感じ取った私は、すっと会話に入りました。

 

「失礼ですが、お父様。それは元旦那様から直接お聞きになったのですか?」

 

「あ、はい……。能理子から連絡がある前に、進之介くんから『能理子が男を作って財産を持ち出し、湖大郎を連れて逃げた。大変な迷惑を被ったから、代わりに慰謝料を払ってくれ』と。私は慌てて、二百万円ほど用意して彼に渡しに行ったのですが……」

 

「なっ……何よ、それ……。私は、そんなこと……っ」

 

 非道な嘘を知らされ、能理子さんはその場に泣き崩れてしまいました。そこへ、湖大郎くんが小さな体を震わせ、怒りに満ちた声で立ちはだかったのです。

 

「じいちゃんッッ!! 母さんと僕はいきなり外へ追い出されて、安い宿を転々としてたんだ! すごく困ったけど、でも、これでお母さんが殴られることもなくなったからホッとしてたのに……! なんで、じいちゃんがまた母さんを殴るんだよッッ!!」

 

 ご両親は息を呑み、唖然と立ち尽くしました。

 あまりにも残酷な事実に、ご両親は言葉を失ったようでございました。そこには、すべてを能理子さんのせいにする、巧みな罠が張られていたようでございました。

 

「母さんは、自分が食べなくても、僕にはずっとご飯をくれたんだ! その日のうちにお金がもらえるお仕事も、毎日一生懸命やってくれてた! そんなお母さんに……手をあげるなあああーッッ!!」

 

 少年の悲痛な叫びが玄関先に響き渡り、空気が凍りつきました。

 

「能理子……あなた、本当に家を追い出されて……」

 

 お母様が震える手で娘の肩に触れました。

 

「な、殴られて……いたの……?」

 

「……ずっとよ。情けなくて言えなかった。最初は私の要領が悪いからだって自分を責めて我慢してた。でも、湖大郎が小学校に上がってからは、あの子にも手をあげるようになって……。必死に、庇うしか、なかったの……」

 

「母さんはずっと自分を盾にして、僕を護ってくれてたんだッ! だからあの家から離れられて、やっと安心できたのに、今度はじいちゃんがッ!」

 

 湖大郎くんはお父様をギロリと睨みつけました。その真っ直ぐで強い眼差しに、お父様は狼狽を隠せません。

 

「たとえ僕に優しいじいちゃんとばあちゃんでも、母さんにこれ以上手をあげるなら、僕は絶対に許さないからなッッ!!」

 

 幼き守護者の気迫に満ちた言葉。これ以上の衝突は不毛でございます。まずはこの絡まった糸を解かねばと、私は穏やかに提案いたしました。

 

「ひとまず、リビングで落ち着いてお話をいたしませんか? どうやら、お互いに見えている景色が全く違うようでございます。……湖大郎くん。お祖父様とお祖母様はね、君たちが受けた苦しみとは全く違う嘘の『お話』を聞かされて、騙されていたのです。お二人もまた、その男に二百万円を騙し取られた被害者なんですよ。きっと、もうお母様が手をあげられることはありません。……ですから、一度怒りを鎮めて、みんなできちんとお話をしませんか?」

 

「……ほんとに? もう、母さんを叩かない?」

 

「ええ、神に誓って」

 

「……分かった」

 

 湖大郎くんは小さな拳をそっと下ろしてくれました。

 リビングのソファーに腰掛け、私はあらかじめヴァルハラから取り寄せておいた詳細な資料を、ご両親へと提示いたしました。

 財産分与の不当性、不倫の事実、そして着の身着のまま母子を放り出した凄惨な現実。突きつけられた書類を前に、ご両親の顔は怒りで烈火のごとく染まっていきました。能理子さんもまた、「実家に怒られた」という意地から連絡を絶ってしまったことを静かに打ち明け、長年の誤解はここに氷解したのです。

 

 当時の能理子さんは、元旦那の不貞行為の証拠をUSBメモリに保管してはいたものの、通信手段も裁判費用もなく、泣き寝入りするしかなかったそうです。生活費を求めて自宅へ向かった際も、新しい女に少額の紙幣を叩きつけられ、足蹴にされて追い払われたとのことでした。

 

「――すべて、私に任せなさい。費用はいくらかかっても構わん!」

 

 全容を把握したお父様は、即座に腕利きの弁護士を手配されました。証拠のUSBをもとに財産分与と慰謝料の請求、そして騙し取られた二百万円の返還を求める泥沼の法廷闘争が幕を開けたのです。

 

 そこからは怒涛の日々でございました。

 幸いにも離婚後三年以内であったため、すべての請求が正当に認められ、二百万円も無事に取り戻すことができました。また、月二万円の振り込みがたった二ヶ月で途絶えていた不当な養育費も、増額調停の末に正式な額が毎月支払われるよう法的な縛りを設けたのです。

 元々、元旦那の強引な横暴が招いた悲劇であり、能理子さんたちには何の落ち度もありません。当然の報いでございますね。

 

 そうして過酷な苦難の日々を乗り越えられたお二人は、ご両親の強い希望もあって実家へと戻られることが決まり、本日、ついにこのYADOCALIを巣立つ日を迎えたのでございました。


元旦那への『仕置き』はどのようなメニューにしてやろうか……と、見送りに並んだ押上家一同は各々腕を鳴らしながら手ぐすね引いて待機しておりましたが、別れ際、能理子さんにそれとなく尋ねますと、彼女は静かに首を振りました。

 

「もう……十分です。法的な手続きも、すべて望み通りに応じさせましたから」

 

 能理子さんはどこか吹っ切れたような、穏やかな笑みを浮かべました。その瞳には、かつて暴力に怯えていた影など微塵も残っていません。

 

「それに、きっと返ります。自分のしてきたことは、形を変えて必ず自分に返ってくるはずですから。……だから、これ以上のことは大丈夫です」

 

「左様ですか……。少しばかり、骨の折れる仕置きを考えておりましたが……」

 

 私が少し名残惜しそうに告げると、彼女は「ふふっ」と小さく声を立てて笑い、それから愛おしそうに私たちの手をそっと見つめました。

 

「皆さんに力を借りてしまったら、大切な皆さんの手を汚してしまう。それが何より嫌なんです。――皆さんの手は、救われた人間の希望そのものですから」

 

 真っ直ぐに紡がれたその言葉は、私たちの胸の奥へと深く、温かく染み渡っていきました。

 

「そう言って頂けただけで、私は十分に幸せです。……本当に、ありがとうございました」

 

 そう言って、彼女は深く、深く頭を下げたのでございました。

 やがて、すっと顔を上げた能理子さんは、どこかいたずらっぽく、それでいて少し照れくさそうに笑みを深めました。

 

「それと……以前は『オッサン』なんて生意気を言って、本当にすみませんでした。あの頃は、少し心が荒んでしまっていて……」

 

「あ、いやいや! 全然気にしていませんよぉ! アハハハハ!」

 

「押上さんは立派に子育てをされていて、ここへ来てからも尊敬することばかりでした。泥と雨に塗れた湖大郎に、優しい救いの手を差し伸べてくださったこと、一生忘れません」

 

「……あの日、お風呂から上がった湖大郎くんは、真っ先に私へと立派なお礼を述べてくれました。本当にしっかりしたお子さんだ、と。それは他でもない、能理子さんの温かい教えがあったからこそ。貴女もまた、立派なお母様でございますよ」

 

「そんな……私なんか……」

 

 照れる能理子さんの肩を、桜々さんが優しく抱きすくめました。

 

「能理子さん、もっと自信を持ちなさい! 湖大郎くんがあんなに良い子に育ったのは、貴女の温かい愛情があったからこそよ。これからもお互い、子育て頑張りましょうね!」

 

「桜々さん……。はいっ、その言葉を胸に、頑張ります!」

 

 二人の母親は、強く、確かなハグを交わしました。

 

 ふと視線を移せば、その後方でも小さな別れを惜しむ二人の姿がございました。

 

「ユキ……もう泣くなよ」

 

「だって……せっかく怪我が治って、これからたくさん遊べるって思ってたのに。転校しちゃうなんて寂しいよ……っ」

 

「ごめんな。でも、本当にありがとう、ユキ。俺、学校で嫌な目に遭ってたとき、ユキだけがいつも優しく声をかけてくれて……すごく嬉しかったんだ。今回の怪我も、ユキが治してくれたお陰でこんなに元気になれた。向こうに行っても、絶対に忘れないから! また絶対に遊びに来るから、その時はサッカーやろうなッ! だから……泣くなよ……っ」

 

「コタ……っ。うん、うん! 僕も、絶対に忘れない……っ!」

 

 二人の少年は、涙を流しながらお互いの体を強く抱きしめ合いました。

 

 やがてご両親の車がゆっくりと動き出しました。窓から差し出された湖大郎くんの手を、幸慈は発進するその瞬間まで、千切れんばかりに強く握りしめておりました。

 長閑な晴れ間が彼らの流した涙を優しく乾かし、新たな幸せの路へと導いてくれるよう、私はただ静かに願うのでございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。