SIXTEEN
しばらくして、倭久と幸慈が戻ってまいりました。ですが、二人の顔は目に見えて沈んでおり、倭久の手には先ほど渡したはずの服と下着の入った袋が、虚しく握りしめられていました。
嫌な予感が胸をよぎり、私はすかさず尋ねました。
「……何か、あったのですか?」
「コタのお母さんが……すごく、怒って……」
「えっ!? ユキが怒られたのですか!?」
「ううん。怒られたのは、コタなんだ……」
「ええっ!? なぜ、そんなことに……」
うつむいて今にも泣き出しそうな幸慈を見かねて、倭久が重い口を開きました。
「『あれほど人に迷惑をかけるなって言ったでしょ!』って、いきなり湖大郎くんが怒鳴られてしまって……。俺がいくら事情を説明しても、聞く耳を持ってもらえませんでした」
倭久は悔しそうに拳を握りしめ、言葉を絞り出しました。
「『余計なお世話だ、施しなんていらない』と、その場で湖大郎くんの服を剥ぎ取るように脱がせて、下着まで突き返されてしまったんです……。すみません、俺がいながら……」
「違うよッ!」
うつむいていた幸慈が、ボロボロと涙をこぼしながら叫びました。
「倭久兄ちゃんは何も悪くない! 一生懸命説明してくれてたんだッ!! でも……っ」
「湖大郎くんのお母様は、最初から話を聞く気がなかったのですね」
「……うん。それで、僕たちの前で玄関のドアをバンッと閉められて……。帰ろうとしたら、中から、ウッ、……ウッ……コタぁ……」
「どうしたのですか、ユキ? 泣いていては話が分かり……」
私が言いかけると、倭久が苦渋に満ちた表情で言葉を継ぎました。
「……湖大郎くんが何度も謝る声と、母親の怒鳴り声……それから、体を激しく叩くような音が聞こえてきたんです」
「それを、そのままにして帰ってきたのですかッ!?」
「いえ……俺も黙っていられなくて、もう一度チャイムを鳴らして、ドアを叩きながら必死に声をかけました。ですが中から、『近所迷惑だからやめて! これ以上しつこいなら警察を呼ぶわよッ!』と叫ばれてしまって……。ユキも一緒でしたし、まずは一度引いて、自宅に戻ってから対策をと考えまして……」
「……そうでしたか。倭久、ユキの安全を最優先に考えてくれてありがとう。責めるような言い方をして済まなかったね」
「いえ……」
肩を落とす倭久と、親友の身を案じて涙を流す幸慈を見つめ、私は意を決して笑顔を作りました。
「大丈夫ですよ。今から父さんが、もう一度お詫びと説明に行ってまいります。幸い、雨も上がりましたしね」
「父さん。私が送るわ」
驚いたことに、その場にいた空生が静かに申し出てくれたのでございました。
「……ソラ。ありがとう、助かります」
そうして私たちは、湖大郎くんの洗濯した服と下着、そして丁重なお詫びの品を用意し、空生の『瞬間移動』の能力を借りることにいたしました。能力者同士には干渉しないはずの力ですが、空生の服に触り、意識を一つにしていれば、私たちもその恩恵にあずかることができるのです。その原理はいまだ未解明ですが、いまは深く考えている時間はありません。私たちは一瞬にして、湖大郎くんの自宅前へと移動いたしました。
ピンポーン――。
インターホンを鳴らすと、少しの沈黙のあと、不機嫌そうな声が返ってきました。
『……はい』
「夜分に恐れ入ります。初めまして、押上幸慈の父でございます。先ほどは息子たちが大変失礼いたしました。ご迷惑をおかけしたお詫びに伺ったのですが……」
直後、ドタバタと怒りをぶつけるような荒々しい足音が響き、玄関のドアが勢いよく開かれました。
そこに現れたお母様は、一見すると若く綺麗な方でしたが、目元の陰りに酷い疲弊が滲み出ている、刺々しい雰囲気をまとった女性でした。彼女は開口一番、激しい罵声を浴びせてきました。
「なによ、次から次へと余計なことばっかりして! 人の子供に施しをするなんて、いいご身分ね! 勝手にうちを見下して、服だの下着だの押し付けてさ。バカにしてるわけ!?」
「滅相もございません。湖大郎くんが泥と雨でずぶ濡れになり、あまりに寒そうにしておいででしたので、私の判断で声をかけさせていただいたのです」
「誰がそんなこと頼んだのよッ! 保護者であるあたしが頼んでもいないのに、首を突っ込まないでよ! 大体、湖大郎も湖大郎よ。あれほど人に迷惑をかけるなって、耳にタコができるくらい言ってるのにッ!」
「いえ、湖大郎くんはきちんとお断りになられていました。ですが、こちらが迷惑ではないと伝えてお通ししたのです。どうか彼を責めないであげてください」
「だったら、最初から余計な手出しはしないでよ、オッサン!!」
「オ……オッサン……」
その容赦のない単語が、胸にグサリと突き刺さりました。思わず私が怯んだその時、私の後ろで静かに話を聞いていた空生が、冷徹な声で一歩前に出ました。
「余計な手出しとおっしゃいますが、結果としてお子様が助けられたのは事実です。保護者であるならば、感情的に怒鳴る前に、まずは先にお礼を言うのが筋ではないでしょうか?」
淡々と、しかし確かな棘を含んだ空生の言葉に、母親の目が吊り上がりました。
「ふーん……。で、あんたは何なのよ?」
「幸慈の姉です」
「はぁ? アッハッハ! どんだけオッサンなのよ、あんた。金髪頭のくせに、こんなでかい娘がいるなんてね!」
「父はオッサンですが、オバサンに言われる筋合いはありません」
「はァアア!? あたしのどこがオバサンなのよッ!」
「私から見れば立派なオバサンです。目の下のクマも、ボロボロのお肌も……生活感に疲れ果てたオバサンそのものじゃないですか」
「あんたねぇッ!! 失礼極まりないわッ!!」
母親が激昂し、掴みかからんばかりになったその瞬間、通路の奥から気だるげな男の声が響きました。
「なんだぁ? 人んちの前でギャンギャン喧嘩すんなよ。……おっ、よく見たら美人じゃん。お姉ちゃん、何しに来たんだ? よかったら中上がってく??」
「ちょっと、ナオ君ッ!」
部屋から出てきたその若い男に対し、空生は冷ややかに口角を上げました。
「騒がしくしてすみません。ですが、中まで声が筒抜けですよ、オ・バ・サ・ン」
「ナ、ナオ君、この女が……っ」
激怒して肩をわななかせている母親を見て、これ以上の対話は不可能だと判断いたしました。私は空生の前に割って入り、側に立つ男性(ナオと呼ばれた男)に向かって深く頭を下げました。
「こちらの配慮が足りず、お母様に多大なる不快な思いをさせてしまいました。心よりお詫び申し上げます。こちらは、まだ乾ききっておりませんが、お預かりしていた湖大郎くんのお洋服と下着です。お詫びの品と共に、お受け取りいただけますでしょうか」
男はバッと乱暴に袋をひったくると、意外にも軽い調子で首を振りました。
「あー……なるほどね。わざわざどうも! こっちもすみませんねぇ。ご覧の通り、いっつもギャンギャンうるさい母親なもんで、迷惑かけました。気にしないでください。――オイ、湖大郎! ちょっと来い」
「は、はい……っ」
男に呼ばれ、奥の部屋から恐る恐る姿を現した湖大郎くんを見て、私の心臓が凍りつきました。彼の小さな頬が、痛々しく赤く腫れ上がっていたのです。男はそれを隠すように、少年の肩を乱暴に叩きました。
「まーたお前は壁に顔をぶつけて。こいつ、本当におっちょこちょいだから、あちこちぶつかってばかりなんですよ。な?」
「は、はい……」
「ほら、ちゃんとお礼言え! お世話になったんだろ」
「あ、ありがとうございました……」
「よし、じゃあそういうことで! 金髪メガネのお父ちゃんも、美人のお姉ちゃんも、またねぇー」
男はそのまま軽いノリでドアを閉め、鍵をかけました。
ドアの向こうから男女の言い争うような声は聞こえてきましたが、幸いにも、湖大郎くんの悲鳴や叩かれるような音は響いてきませんでした。私たちはそれ以上の介入ができず、後ろ髪を引かれる思いでその場を後にいたしました。
自宅に戻ると、心配して待っていた桜々さん、倭久、そして事情を聞いた幸雅と幸慈が、一斉に私たちを迎えました。
玄関に入るなり、空生はこれまで溜め込んでいた怒りを吐き出すように声を荒らげました。
「なんなの、あのオバサンッ! 本当に胸糞悪い!」
「空生……。なぜ、あんな挑発をするような真似をしたのですか」
私が厳しい声で制すると、空生は信じられないといった風に目を見開きました。
「だって、お礼を言うどころか、お父さんを侮辱して、こっちを悪者扱いするなんて理不尽じゃない! 我慢できるわけないわ!」
「だからと言って、相手と同じ土俵に上がって容姿の揚げ足を取れば、それは無意味な争いを生むだけです! 自分の言葉の刃が、その後にあの家に残される湖大郎くんにどう跳ね返るか……お前は、その最悪の結末を想像できなかったのですかッ!!」
「っ!!」
空生は息を呑み、血の気が引いたように顔を青ざめさせました。
「……できて、いませんでした。……っ、申し訳ありません……」
「お前はまだ若い。お父さんを庇おうとしてくれた、その憤る気持ちはよく分かりますし、優しい気持ちは嬉しいです。ですが、言っていいことと悪いことの区別はつけねばなりません。常に冷静に、その先にある状況を見通して言葉を選ぶ……それが、常識ある大人のすることです」
「……はい。以後、気を付けます」
空生がこれほど厳しく私に叱られている姿を初めて見た幸慈が、おずおずと姉の服の袖を引きました。
「ソラちゃん……大丈夫?」
「ユキ……ごめんね。ユキの大切なお友達のお母さんなのに、私、ひどいことを言ってしまったの……。本当にごめんなさい」
「ううん、大丈夫だよソラちゃん! 僕が明日、学校でコタにちゃんと謝っておくから。コタはとっても優しいから、絶対に許してくれるよ。だから、そんな悲しい顔しないで、ね?」
「……ええ。ありがとう、ユキ。不甲斐ないお姉ちゃんでごめんね。湖大郎くんによろしくね」
「うん! 任せて!」
ようやく少しだけ落ち着きを取り戻し、私たちは食卓を囲んで、桜々さんの作ってくれた夕食をいただきながら事情を整理いたしました。
幸慈の話によると、あの家にいた男は本当の父親ではなく、母親が連れ込んでいる男だということ。そして以前、合同体育の着替えの際に偶然見えてしまった湖大郎くんの体には、Tシャツに隠れた背中や腕、至るところに無数の青あざや赤黒い傷があったというのです。
それは昔からだったけれど、最近は特にひどくなり、隠しきれない場所にまで増えていた、と――。
子供は、大人が思っている以上に周囲をよく見ているものでございます。
湖大郎くんは、日常的にあの二人から暴力を振るわれていたのでしょう。その凄惨な現実に、私はかつて救った蓮織くんの姿を重ねずにはいられませんでした。
とにかく、まずは明日、幸慈にもう一度さりげなく湖大郎くんの様子を見てもらうようお願いし、その夜は床に就きました。
――しかし、次の日から、湖大郎くんが学校へ姿を現すことは二度となくなってしまったのでございました。




