THIRTEEN
「生かされた命を大切にしろ……。ほれ、これでも食え」
差し出された温かい握り飯。それを渡してくれた手は、驚くほど大きく、武骨で……それでいて、思わず縋りつきたくなるような絶対的な優しさに満ちておりました。
布団の上で震える手でそれを受け取り、涙ながらに頬張っていた白髪の少年――それが、かつての私、竜神時士でございました。そして、不器用な手で握り飯を差し出してくれたその恩人こそが、桜々さんのお父様である押上真之さんだったのです。
私は元々、竜神家の一人息子として生を受けました。父は治癒の能力を、母は念力を持つ、穏やかで愛情に満ち溢れた能力者の一家。幼い頃の私は、父親譲りの漆黒の髪をなびかせた、自由奔放な少年でした。大らかな両親は私を型に嵌めることなく育ててくれましたし、当時は特別なトレーニングをすることもない、ごく普通の子供として過ごしていたのです。
ですが、十歳とひと月を過ぎた頃、私に「救済者察知」の能力が発現いたしました。
困っている人を見つけては、解決できる場所へと導く。幼いながらも、誰かのために力を尽くしているつもりでした。しかし一年半ほどが経った頃、私は「人を救える自分」に慢心し始めていたのでしょう。「一人で動いてはならない、勝手に解決しようとするな」という両親の厳命を破り、あちこちへ首を突っ込むようになってしまったのです。
子供の浅知恵のすること。当然、後始末が綺麗にできるはずもありません。その綻びを、当時の反社会的かつ過激な能力者組織に目を付けられてしまったのです。彼らは私の能力に目をつけ、自宅へと押し寄せてきました。「親は邪魔だ、子供だけを奪え」と、乱暴に私を連れ去ろうとしたのです。困っている者を察知させ、その弱みに付け込んで金儲けを企む、残虐非道な輩たち。それが彼らの正体だと知ったのは、ずっと後のことでした。
父は私を庇って応戦し、母も必死に念力を振るって抵抗してくれましたが、組織の精鋭部隊を前には多勢に無勢、あまりにも無力でした……。
最後には狙われた私を、身を挺して庇った隙を突かれ、父も母も、冷たい骸となってしまったのでございます。……母のお腹には、七ヶ月になる私の妹がいると聞いたばかりでした。楽しみにしていた妹の顔を見ることも叶わぬまま、家族は一瞬にして天に召されてしまったのです。
絶望の底で呆然とする私の腕を掴み、乱暴に引きずっていこうとする男たち。その群れを、凄まじい剛腕で文字通り蹴散らしたのが、真之さんでした。
正統な能力者家系の中でも最上位に位置する、押上家。その高名さは知っていましたが、我が家との関わりは一切ありません。なぜあの場所に真之さんが現れたのか、当時は分からず、後に尋ねても「偶然だ」としか教えてくれませんでした。ですが、今にして思えば……あの組織の不穏な動きが、真之さんの耳に入っていたのだろうと、腑に落ちるのですがね。
真之さんは私だけをなんとか救い出し、連れ帰ってくれました。両親の遺体がその後どうなったのか、私には分かりません。次の日に真之さんが現場を訪れた際には、家の中は何事もなかったかのように綺麗な状態に戻っていたそうです。
元の家に戻せるわけもなく、引き取られた私は、現在の自宅であるマンション『YADOCALI』へと迎え入れられました。桜々さんのお母様はその頃すでに亡くなられておりましたので、私の身の回りの世話は、真之さんの娘であり、私と同い年の桜々さんが担ってくれることになったのです。
当時の私は、ひどく扱いづらい少年だったと思います。しかし彼女は何も言わず、ただ黙々と、私の部屋へ食事を運んできてくれました。
けれど、私は出された食事に一切手を付けられませんでした。目を閉じればあの惨劇がフラッシュバックし、父と母、そして見ぬことの出来なかった妹のことを想っては泣き崩れる日々。そのうちに立ち上がる気力すら失い、ただ布団の中で、死んだように呼吸を繰り返すだけの塊になっておりました。
その絶望の深さゆえか、私の自慢だった漆黒の髪は、一気に色が抜けて真っ白な白髪へと変わってしまったのです。私のその異変を知り、真之さんが重い足取りで部屋へ入ってきたのは、そんな時でした。
「坊主! 飯を食わにゃいかんぞ。桜々の作った飯は美味いんだ、勿体なかろうが」
「……」
「……そんな姿じゃ、お前を助けて死んだ父さんと母さんが浮かばれんぞ。上から心配そうに見よるわ」
「……僕も、一緒に……上に行きたい。うっ……うう、グスッ……」
「はぁ……阿呆なことを抜かしよるわ、こんクソ餓鬼は……」
真之さんはボソリと呟くと、胸がはち切れんばかりに深く息を吸い込み――そして、鼓膜が震えるほどの怒声を轟かせました。
「こんのッ、甘ったれのクソ坊主がぁああーッッ!!」
私の両親はどこまでも穏やかな人たちでしたから、人からこれほど烈火のごとく怒鳴られたのは初めての経験でした。恐怖で全身の細胞が強張り、ビクッと身体が跳ね上がります。そんな私を睨みつけ、真之さんは言葉を続けました。
「生かされた命を粗末に扱うなッ! お前を守るために、両親は最後まで命懸けで抵抗したんじゃろうがッ! 守られたお前が自分で命を投げ出そうとするなんぞ、罰が当たるわい! そんな腑抜けた面で上に行っても、両親に会わせてもらえるわけなかろうがッ!」
「っ!?」
「生きろ! そしていつか、本当に両親に会える日が来たら、胸を張って『この世で精一杯頑張って生きてきたぞ』っていう証を見せてやるんじゃ! それがない奴は、あの世でもお断りなんじゃ! 坊主、今のお前にその証はあるんかッ!?」
「……そんなの……ない……」
「じゃあ、今からここで作るんじゃ! いっぱいいっぱい作るんじゃ!! そのたくさんの証を抱えて、胸を張って会いに行けるように泥水をすすってでも生きろッッ! それが、今! お前がすべきことなんじゃ! 分かったかァアアーッッ!!」
「ハ、ハイッッ……!」
「よし! 良い子じゃ」
真之さんは豪快に笑うと、お盆にあった大きな握り飯を掴んで、私の目の前に突き出しました。
「生かされた命を大切にしろ。ほれ……これでも食え」
久しぶりに身体を起こした私。渡された不格好な握り飯を夢中で頬張ると、堰を切ったように涙が溢れて止まりませんでした。少し甘じょっぱくて、五臓六腑に染み渡るその味は、今でも忘れることのできない私の原点の日でございます。
しかし、何日も絶食していた身で急に食べ物を詰め込んだものですから、私は激しく噎せ返ってしまいました。その激しい咳き込みを聞きつけて、スパーンッ!と勢いよく襖が開きました。そこに立っていたのは、目を丸くした桜々さんでした。
「お父さんッ!! 何日も食べてない人にいきなり握り飯を出すなんて、何を考えているのよッ! 胃が受け付けなくて、かえって身体に悪いでしょうが……んもぉーッッ! しかも、よりによって“飯盗び”をーッ!」
“飯盗び”とは、細かく刻んだ高菜を油で炒め、甘辛く味付けしたものを混ぜ込んだ、真之さんの大好物の握り飯でした。呆れ果てた顔で父親を睨みつけていた桜々さんは、私の方を向き直りました。
「自分が好きなものだからって、本当に呆れちゃう……。竜神くん、ちょっと待ってね。すぐに胃に優しい重湯を作ってくるから!」
その時、私は初めて桜々さんの「声」を意識しました。それまでは口数が少なく冷たい雰囲気の人だと思い込んでいたのですが、耳に届いたのは、まるで包み込むような、温かみのある母性に満ちた声でした。
当時の桜々さんは、早くに母親を亡くされたこともあり、押上家の台所を一身に仕切っておりました。同い年とは思えないほど手際よく、すぐに作ってくれたのは、梅の酸味がほんのりと効いた、塩味の重湯。それもまた、乾いた心に優しく広がる、忘れられない味となったのです。
それから私は少しずつ食事を摂れるようになり、身体への負担を減らすために一日の食事を六回に分けて少量ずつ出してもらうなど、細やかな配慮を受けました。そのお陰で衰弱していた体力はみるみる回復し、白髪だった髪も、現在の金髪(金色に近い亜麻色)へと変化していったのでございます。当時は気付きもしませんでしたが、これほど細やかな看護がどれほど大変な労力であったか。黙ってそれを支え続けてくれた桜々さんには、生涯かけても返しきれない大恩があるのです。
やがて体力が戻ると、私は押上家のしきたりに倣い、肉体を鍛えるトレーニングを少しずつ始めることになりました。
……が、最初に挑戦した初心者用のトラップ部屋での結果は、もう悲惨の一言。一方の桜々さんは、どんな過酷な罠も難なくクリアしていくのです。当時はそれが酷く腹立たしく、悔しくて仕方がありませんでした。徐々にレベルアップし、中には「これは拷問か?」と疑うような狂気的なメニューもありましたが、私は両親への戒めを胸に、毎日必死で励みました。
「子供ながら、本当によく頑張ってたよね。当時は感心しながら見てたんだよね」と、後に桜々さんが笑いながら語ってくれたのは、少し誇らしい思い出です。
学校へも、髪を真っ黒にカラーリングして、桜々さんと一緒に通うようになりました。学校という場所は身だしなみにうるさいですからね。真之さんに頑丈な黒染めに仕上げてもらいながら登校していたものです。
しかし、髪が伸びてくるとどうしても根本の金髪が目立ってしまうため、ヘアマニキュアで必死に隠す必要がありました。そのメンテナンスと、何よりプールの授業の後が一番面倒で大変でございました……。いくら時間が経っても、私の髪はかつての美しい漆黒に戻ることはありませんでした。
その頃からでしょうか。私の中に、現在の状況を多角的に把握し、微かな『予知』としての能力が備わり始めたのは。それもまた自分の人生だと割り切り、高校卒業と同時に黒染めはキッパリとやめました。何より、頭皮に刺激を与えすぎて、若くしておハゲ様になっては堪りませんからね……。男にとって、毛根の死活問題は能力の有無よりも重大な悩みなのですッ!
高校生になる頃には、桜々さんと私の関係にも、徐々に変化が訪れておりました。
出会ってから六年の月日が流れ、それなりの年頃になった私たちは、真之さんの手を借りず、二人で押上家を守る任務をこなすようになっていました。押上家に無謀にも挑んでくる不届き者を、桜々さんと共に鮮やかに返り討ちにする。そんな死線を潜り抜ける日々の共同作業を通して、私たちは互いを「なくてはならない生涯のパートナー」だと確信するようになったのです。
信頼と想いが通じ合うのに、時間はかかりませんでした。……が、そこで炸裂したのが、真之さんの重度な親バカでございました。はぁ……。
二人で意を決し、真摯に交際のお許しをいただきに伺ったものの、待っていたのは猛烈な反対でした。
「ハナタレの泣き虫坊主に、俺の大事な桜々は任せられんわいッ! 守るどころか足手まといじゃッ!」
と一蹴され、とにかく認めてもらえません。このクソ頑固親父めッ!と内なる悪態を隠しつつ、私は認められるためにさらに必死に尽くしました。そこからは、やる事なす事に邪魔や嫌がらせが入り、トレーニングでのシゴキは激化し、まさに地獄のような日々が幕を開けたのです。
そんな奇妙で騒がしい膠着状態のまま、三年の月日が流れようとしていた、あの冬。
――私たちは、真之さんが膵臓癌に侵されていることを知ったのでした。
気付いた時にはすでにステージ四。現代の医療でも、私たちの能力でも、手の施しようのない状態でした。しかもあの頑固親父は、その事実を私たちにずっと隠していたのです。戸棚の奥深くに隠されていた病院の薬袋を桜々さんが見つけ、二人で厳しく問い質したことで、ようやく残酷な真実が白日の下に晒されたのでございました。




