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本日は晴朗なり。天沢様が、この『YADOCALI』をご退去される日でございます。

 仕事が休みの日曜日、絶好のお引っ越し日和となりました。引越業者さんは頼まず、作業には間宮さん、そして假谷さんご夫妻がワゴン車二台を連ねて手伝いに来られたのでございます。

 

 天沢様と間宮さんは結婚を前提に、一つ屋根の下で新たな暮らしを始められるとのこと。新しいお住まいは假谷家の近くのアパートだそうですが、それというのも、実は假谷さんの奥様――佳乃子さんと間宮さんは再従姉妹同士で、大変仲が良いからなのだそうです。

 

 話は少し遡り、事態が落ち着いた頃に開かれた、假谷家での「猫飼い親睦会」でのことでございます。おかゆ君と夏丸の久々の対面を兼ねたその席には、どういうわけか社長ご夫妻や元常務ご夫妻までが一堂に会しており、私たち家族は初め、大いに困惑いたしました。

 しかしそこで明かされた真実は、唖然とするほど衝撃的なものだったのです。なんと、社長の娘さんこそが間宮さんその人であり、佳乃子さんとも親戚筋にあたるのだとか。これには当の假谷さんすら数日前まで知らなかったそうで、「私に任せて」と禍々しいオーラを放っていた間宮さんのあの姿が、ようやくストンと腑に落ちたのでございました。

 

 社長は、愛娘に社会勉強をさせるため、そして社内での假谷さんの不穏な噂を確かめさせるため、母方の姓を名乗らせて密かに会社へ潜り込ませていたのだそうです。間宮さんも、調査が終わればすぐに辞めるつもりだったようですが、ミスをして落ち込んでいた時に天沢様の優しい寄り添いに救われ、「この会社で働き続けたい」と社長に直談判したのだといいます。

 

 そんなお二人のご婚約を決定づけたのは、他ならぬ佳乃子さんの内助の功でした。假谷さんから「どうすればいいか」とひとり言のように相談されていたおかゆ君。それをソファで聞き耳を立てていた佳乃子さんが、「天沢くんと葉子ちゃんをうちに呼びなさいッッ!」と一喝し、密かに四人での食事会をセッティングしたのだそうです。グズグズと煮え切らない假谷さんを余所に、佳乃子さんの見事な先導によって話はトントン拍子に進み、天沢様からのプロポーズへと至ったのでございました。

 

 まさか恋人が社長令嬢だとは知らなかった天沢様は、「結婚のお許しを頂きに伺った時が、人生で一番緊張しました」と、今では素敵な笑顔で振り返っていらっしゃいます。結ばれるご縁というものは、本当に不思議な力で引き寄せられるものだと、嬉しく思った次第です。

 

 さらにこの親睦会を機に、假谷さんご夫妻の関係にも温かな変化が訪れていました。

 以前から假谷さんの悪い噂を耳にしていた佳乃子さんは、裏で元常務夫妻に相談し、「愛する人の苦痛を取り除いてほしい」と必死に頭を下げていたのだそうです。その事実が明かされた時、佳乃子さんは真っ赤になり、假谷さんは開いた口が塞がらないまま呆然と立ち尽くしておりました。

 

 その後、おかゆ君経由で夏丸が聞いたところによると、ご夫婦は「家では気兼ねなく休めるように、お互いに急がず、一緒に寛ごう」と言葉を交わされたのだとか。夏丸もこれには、「寝転んだ大仏なんて言って悪かったよなぁ」としみじみ反省しておりました。子どもが巣立った後、互いへの接し方に戸惑っていただけで、不器用な優しさは最初からそこにあったのでございます。今ではお二人でハイキングや旅行に出かけ、一緒にお料理を楽しまれているそうです。おかゆ君曰く、相変わらず鈍いところのある假谷さんが奥様に叱られ、照れくさそうに笑って誤魔化す姿が、何よりの幸せの風景なのだとか。……ンフッ、ちなみに例の「どアップスマイル写真」が今どこに仕舞われているのか、管理人としては少々気になるところであります。

 

「ちょっと、虎ちゃん! その段ボールより、こっちのラックを先に積んでいかないと」

 

「えっ……でもさぁ」

 

「でもじゃないの! 重い段ボールを後から手前に積むためにも、まずは奥にラックを入れなさいよ」

 

「あー、そっか。じゃあ、佳乃子さん、ラック先にちょうだい!」

 

 おや、いつの間にか名前呼びに変化していらっしゃる。微笑ましい光栄でございました。

 天沢様のお荷物は少なかったこともあり、作業は早々に終了。ワゴン車の前で、見送りに立った私たち家族と四人が改めて向かい合いました。もちろん、私の腕には夏丸も抱かれております。

 天沢様は、感極まったように声を震わせました。

 

「大変お世話になり、ありがとうございました。あの時、五郎さんに救い出して頂かなかったら、どうなっていたことか……。今こうして幸せにいられるのは、皆さんが良くして下さったお陰です。感謝しても、しきれません……っ」

 

 今にも泣き崩れそうなその両手を、私はそっと包み込みました。

「この出会いは、天沢様の日頃の誠実さが導いたものです。どうかこれからは、素敵な婚約者さまとご一緒に、小さな幸せを積み重ねていってください。決して、ご無理はなさらずに」

 

「……はいっ。二人でしっかり、歩んでいきます。本当に、ありがとうございました」

 

 間宮さんと二人、深く深く頭を下げられる姿に、胸が熱くなります。すると、空生と倭久が一歩前へ出ました。

 

「ご退去の記念に、うちのジムのロゴが入ったTシャツです。受け取っていただけたら嬉しいです」

 

「ペアルックで着て、また二人でトレーニングに来てくださいね! 待ってますから」

 

 Tシャツを受け取った間宮さんが、嬉しそうに微笑みます。

 

「ありがとうございます、倭久さん、空生さん! 式までにしっかり体を締めたいので、空生さん、またビシバシご指導お願いします!」

 

「お任せください! とびきり厳しめのメニューを考えておきますね」

 

「はい! ついていきます!」

 

 楽しそうに笑い合う二人を見て、あぁ、空生の笑顔はなんて素敵なのかッ!! と、父親としての喜びが込み上げます。そこへ、假谷さんが遠慮がちに身を乗り出してきました。

 

「あのっ、私もたまにお邪魔していいですか? 佳乃子と一緒に少し運動でも……」

 

 その瞬間、空生の表情がスッと、プロのスパルタトレーナーの顔に切り替わり、假谷さんのお腹をピッと指差しました。

 

「まずは、そのお腹を引っ込めることから始めましょう! 佳乃子さんは通常のメニューで十分ですが、假谷さんには……かなり、追い込んだ特別メニューが必要ですね。じっくり考えておきます!」

 

「えぇーっ!? な、なんで俺だけ……っ」

 

「是非ッッ! 空生さん、どうぞ容赦なくよろしくお願いしますッ!!」

 

 佳乃子さんの間髪入れない承諾に、その場はどっと温かな笑いに包まれました。

 

 最後に、假谷さんご夫妻は夏丸を愛おしそうに撫でてくださり、おかゆ君が『金のフォーク』などの市販のおやつなどを口にできるようになったと嬉しそうに報告してくださいました。そうして二台のワゴン車は、それぞれの幸せを乗せて、晴れ渡る青空の下へと出発していったのでございます。爽やかな風が、お二人の前途を祝福しているようでした。


 

 お見送りを終え、皆が自宅へ戻る中、私は幸慈を誘って少し遠回りの散歩へと出かけました。

 心地よい陽射しを浴びながら並んで歩き、私は隣の静かな横顔に声をかけました。

 

「ユキ。……何か思い悩んでいることがあるのなら、父さんに吐き出してごらん」

 

「えっ……」

 

「最近、ずっと何かを考えていたでしょう?」

 

「……」

 幸慈は視線を落としたまま、小さな唇を噛み締めました。

 

「ユキ?」

 

「……僕は、押上家の出来損ないだから……」

 

「出来損ない?」

 

「今回だって、何もできなかった。能力だって、まだ……」

 

「だけどユキは今、毎日、誰よりも厳しいトレーニングをこなしているではないですか」

 

「なんで……知ってるの……?」

 

「大事な家族のことですから。気付かないはずがありません」

 

 その言葉が引き金となったのか、幸慈の目から大粒の涙が溢れ出しました。私は愛おしい我が子を、久しぶりにその腕へと強く抱き寄せました。

 

「ユキ……それでいいんですよ。焦る必要なんて、どこにもありません。今頑張っていること、身に付けていること、そのすべてが、いつか能力が発現した時に必ずユキの力になります。それだけで十分なのです」

 

「っ……」

 

「出来損ないなんて、二度と言ってはいけませんよ。ユキが父さんの息子として生まれてきてくれた、それだけで何よりも素晴らしいことなのですから。自分を大切にして、ただ側にいてくれるだけで、私は十分に幸せなのです。……前にお話ししましたね? 父さんの子どもの頃の昔話を」

 

「うん……うっ、うう……お父さん……っ、お父さんっ!」

 

 幼子のように泣きじゃくりながら、幸慈は私の背中に強くしがみつき、涙を流し続けました。

 腕の中に伝わる我が子のぬくもりを感じながら、私の胸の奥には、今なお消えぬ昔の苦い記憶と痛みが微かに疼いておりました。けれど、この子の温かさが、その痛みを優しく和らげてくれるのを感じるのです。

 押上家の、騒がしくも穏やかな愛の物語は、こうしてまた一つ、確かな絆を結んでいくのでございました。

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