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ELEVEN

 事の詳細を話し終えた私は、假谷さんと間宮様を伴い、最上階にある天沢様のお部屋へと向かったのでございました。

 インターホンを鳴らしますと、以前の悲壮感とは打って変わった、ハリのある声色で天沢様が応じられました。

 

「管理人の押上でございます。少しお話をしたいのですが、お時間をよろしいでしょうか?」

 

「あ、はい! 今、開けます!」

 

 勢いよく玄関の扉を開けた天沢様は、私の背後に立つ二人の姿を見るなり、驚愕のあまり完全に凝固してしまいました。すかさず假谷さんが、ぎこちない笑みを浮かべて右手を上げます。

 

「よ、よォ。元気にしてたか?」

 

 天沢様の顔から血の気が引き、次の瞬間にはその場に平伏して土下座の姿勢をとられました。

 

「も、申し訳ありませんッ! 大事なイベントを台無しにした上に、自己管理もできずに病気休暇を頂いてしまい、会社には多大なご迷惑を――」

 

 その細い肩を掴むように、假谷さんが素早く屈み込みました。

 

「謝らなくていい! 謝るべきは、俺の方なんだ!! すまなかった……本当に、何も気づいてやれなくて……」

 

「え……?」

 

「お前に対する周囲の嫌がらせも、業務妨害も、あんなデタラメな悪評も、俺は何も知らなかった。いや、『知らなかった』では済まされない上司の怠慢だ。お前をここまで追い詰めてしまって、本当に申し訳なかった!」

 

「部長……? ですが、あのイベントは……」

 

「台無しになんてなっていないさ! 俺がすぐに代わりの品を届けて、先方にも納得してもらったんだ。何の問題もない!」

 

「そんな……。ですが、梶山補佐は、私に……」

 

「それも違うんですッ、天沢さん!」

 

 それまで黙って後ろに控えていた間宮様が、我慢できずに一歩前へ踏み出しました。

 

「梶山補佐の言っていたことは、全部嘘です!あの人こそが、有りもしない噂を捏造して、陰で広めていた張本人なんですからッ!」

 

「梶山さんが……? まさか、だってあの人は、社内で唯一僕の味方をしてくれて、一昨日だって心配して連絡を……」

 

「全部、天沢さんを騙して孤立させるための罠だったんです。あの人、裏では『ここだけの話なんだけどね』って言いながら、酷い噂を言い触らしていたんですよ。天沢さんが病気休暇を使って、豪華なマンションで遊び惚けているって……昨日も社内でそんな話が回っていたんです!」

 

「そんな……まさか……」

 

「私は、悔しくて堪りませんでした……! 天沢さんはそんな人じゃないのに。イベントだって、あんなに一生懸命頑張っていたのに……っ」

 

 怒りと悔しさのあまり、間宮様の大きな瞳から大粒の涙が溢れ出しました。事態の進展を見届けた私は、そっと割って入りました。

 

「天沢様。立ち話も何ですから、中でゆっくりお話ししませんか?」

 

「あ……そうですね。すみません、どうぞ、お入りください」

 

 室内へ通され、私たちは改めて席について言葉を交わしました。

 そこからの数時間は、実にもどかしく、しかし必要な時間でございました。梶山から吹き込まれていた嘘、假谷さんへの誤解、そしてイベントの本当の結末。ひとつずつ真実が紐解かれるにつれ、天沢様の表情から険しさが消え、本来の穏やかな輝きを取り戻していかれたのでございます。

 

 やがて、その梶山にどう事実を突きつけるかという具体的な相談になった時のことです。

 それまでおとなしく聞いていた間宮様が、にわかに禍々しいオーラをまとって顔を上げました。「――私に、任せていただけませんか?」と、凍りつくような笑顔で仰るものですから、私を含む男三人は、無言のままコクコクと激しく首を縦に振るしかございませんでした。穏やかな女性が真に怒った時の恐ろしさというものを、私は人生で初めて経験いたしました。

 

 用件を終え、いざお暇しようという時、私はふと思い出して声をかけました。

 

「そういえば、間宮様。まだ天沢様に、肝心のお礼をしていらっしゃらないのでは?」

 

「えっ!? 私ですか? お礼って、何の……」

 

「ほら、以前残業を助けていただいたという、あのホットレモンのお話ですよ」

 

「あっ!!」

 

「天沢様、この後もしよろしければ、気晴らしも兼ねて、間宮様とお食事にでも行かれてみてはいかがでしょうか」

 

 我ながら完璧なアシストだと自負したその瞬間、やはり空気が読めない假谷さんが嬉しそうに身を乗り出してきました。

 

「おっ、いいですねえ! 俺も是非――」

 

(――貴方は一体何を見ていたのですか、この唐変木がッ!!)

 

 喉元まで出かかった怒声をどうにか飲み込み、私は満面の笑みで遮りました。

 

「假谷さん。貴方とはこの後、夏丸の食事に関する重要な栄養相談と、我が家の退屈しのぎにお付き合い頂く手筈になっておりますが?」

 

「是非ともッ! では二人とも、また会社でな!ほらほら押上さん、行きましょう! 夏丸くんのご相談、喜んで乗らせていただきますヨォー!」

 

 間髪入れずに手のひらを返した假谷さんは、私の背中をグイグイと押しながら、脱兎のごとく部屋を後にしようといたしました。私が呆れつつ振り返ると、間宮様とバッチリ目が合いました。私がそっとウィンクを贈ると、彼女はすべてを察したように、嬉しそうに深々と頭を下げられました。

 

「押上さん、本当にありがとうございました!」

 

 背後から響くその弾んだ声に、私の目元も自然と緩むのでございました。

 

 

 自宅へ戻った後、私は假谷さんを客間に据え置き、上司としての視野の狭さについて、懇々とお説教を垂れさせていただきました。

 ようやく事の重大さに気づいた彼は(大半は私の誘導によるものでしたが)、「これからは二人の距離が近づくように、俺が全力で応援します!」などと息巻いておりました。むしろ余計なことはせず、静観してくれている方が百倍マシな気がいたしますが……まぁ、良しといたしましょう。これで少しでも、ご自宅での愛すべき奥様の行動に気づく目を持ってくだされば良いのですが、こればかりは少々時間がかかりそうであります。

 

 翌朝、私が日課の掃除をしておりますと、間宮様が天沢様を優しくお迎えになり、二人は並んで仲良く出社していかれました。その初々しい後ろ姿に、深く安堵いたしました。

 

 その数日後のこと。假谷さんから、驚くべき結末を記したメッセージが届きました。

 端的に申しますと、梶山はすべての悪事が露見し、一般社員への降格処分の上、即座に地方へと左遷されたとのことでした。天沢様が休職している間、彼は別の社員を次の標的に定め、同様の工作を行っていたそうなのです。証拠を残さぬよう狡猾に立ち回っていたようですが、どこかに綻びがあったのでしょう。動かぬ改ざんの証拠を突きつけられ、ついには社長直々のお出ましとなったそうです。

 営業部の全社員が見守る中、降格と左遷を言い渡された梶山は、往生際悪くこう喚き散らしたと言います。

 

「俺は悪くない! そもそも、俺より出来の悪い假谷が部長の座にいるのがおかしいんだ! 俺は会社のために良かれと思って――」

 

 その醜態が、社長の逆鱗に触れました。

 

「お前の犯した不正は、明確な犯罪行為だ! 懲戒解雇になっても文句は言えんのだぞ! 今までの功績に免じて左遷で留めてやった甘い処分に対し、感謝もせず喚き散らすな!」

 

 一喝された梶山は、そのまま一言も発せなくなったそうでございます。

 

 彼が去ってからの部署は、嘘のように風通しが良くなり、陰口や足の引っ張り合いのない、穏やかな空間へと生まれ変わったそうです。

 また、假谷さん自身も、部下の管理不行き届きとして半年の減給処分を言い渡されたとのことでした。痛い教訓ではありますが、これで彼も少しは成長してくれるに違いありません。人生はいつまで経っても学びの連続。假谷さんが周囲に目を向け、真摯に人と関わっていくようになれば、自ずとご家庭内の歪な冷戦状態にも、良い変化が表れるのではないかと期待しております。

 

 

 その日の夕食時、私は事の顛末を家族全員が集まる食卓で報告いたしました。

 幸雅は我がことのように顔を輝かせ、嬉しそうに頷きます。

 

「五郎さん、本当に良かったぁー! 僕の分析(アナライズ)が少しでも役に立ったなら嬉しいよ」

 

「コウの『分析(アナライズ)』がなければ、ここまで迅速な解決には至らなかったでしょう。本当に助かりました」

 

「どういたしまして! ……それにしても假谷さん、本当に猫に目がないんだね。この前、父さんに説教されてショボボーンって落ち込んでたのに、夏丸が気を利かせてすり寄っていった瞬間の、あの変わり身の早さ。からの、連続猫パンチ! ククッ、思い出しても笑っちゃうよ。假谷さんの頭、ボサボサになってたもん」

 

「笑ってんじゃねえよ、コウ! 手加減してやっただけでも有り難いと思えってんだ」

 

 皿の上の魚を突きながら、夏丸が不機嫌そうに髭を震わせました。

 

「あの巨体で覆い被さってきやがって、圧死するかと思ったぜ」

 

「確かに。あの勢いと……クッ、お前に対する『猫甘言葉』は最強の精神攻撃だったよね。しかも最後、夏丸、ちょっと爪出してただろ?」

 

「思いっきり引っ掻いてやりゃ良かったぜ、クソッ!」

 

「まぁまぁ、夏丸。悪い人ではないんだから、許してあげなさいよ」

 

 桜々さんがクスクスと笑いながら宥めます。

 

「猫ごとだと思いやがって……ったく!」

 

 そんな賑やかなやり取りを見つめながら、私は夏丸へ視線を向けました。

 

「夏丸には今回、大変な苦労をかけましたね。貴方が持ち帰ってくれた最初の情報がなければ、私は違和感を抱くこともなく、迷走を続けていたでしょう。おかゆ君の情報がなければ、正しい道へは進めなかった。おかげで假谷さんの誤解も解けたのですから、本当に大手柄です。さあ、今日のご飯は約束通りのスペシャルメニュー……」

 

「分かってるよ! マグロとカツオ仕立ての『金のフォーク』だったろ?」

 

「さすが夏丸、お見通しでしたか」

 

「食べた瞬間、美味さで背中の毛が逆立ったからな。ごちそうさん!」

 

「こちらこそ、いつもありがとうございます。……それから、ソラちゃんもありがとう。間宮様に声をかけて、ここへ連れてきてくれて」

 

 不意に名前を呼ばれた空生は、スープの匙を止めて小さく肩をすくめました。

 

「あの人……うちの店の前をウロチョロして挙動不審だったから。小さいのに妙に目立ってたし」

 

「確かに、小回りのきくリスのような動きをされていましたね。……天沢様にとっても、素晴らしい結末となりました。優しく、いざという時は頼りになるパートナーに出会えたのですから。聞けば、今は間宮様もソラちゃんたちのジムに入会されたそうで、天沢様と二人で仲良くトレーニングに励んでいるとか」

 

「うん、そうなの」

 

「優しいお二人ですからね、お互いの良い拠り所になるでしょう。……そうだ! ソラちゃん、天沢様のような、優しく寄り添ってくれる男性など、素敵だと思いませんか?」

 

「いや、私は別に――」

 

 空生が答えるより早く、隣の席から倭久が猛然と身を乗り出してきました。

 

「お任せください、お父さん!! ソラには俺がずっと寄り添って、この温かさで包み込みますからッ!」

 

「小僧にゃ聞いてねえよッ!! お前の中に温かさもクソもあるかァアアッ!!」

 

「いや、こう、ギュッと守る感じで――」

 

「ゴルァッ!!手ッ!その手をソラから離さんかァアアッ!!約束を破ってみろ、その不届きな両手、根元から捻り潰してくれるわァッ!!」

 

「トッキィィーッ!!」

 

「……ごちそうさまでした」

 

 桜々さんの凄まじい怒号と同時に、空生は素早く席を立ちました。すかさず私は声をかけます。

 

「あ、ソラちゃん、どこへ行くのですか? 食後のフルーツがまだありますよ。……あの、ソラちゃん……?」

 

 私の呼びかけを綺麗に無視して、空生はスタスタと自分の部屋へと去っていってしまいました。倭久も慌てて「ごちそうさま!」を告げると、その後を這うように追いかけていきます。

 

「あーあ……。ソラ姉、怒って行っちゃったよ。父さん、いい加減にしなよ?」

 

 幸雅にジト目で諭され、私は渋い顔で頷くしかございませんでした。

 その騒がしいやり取りの間、幸慈だけは一言も発せず、何かを深く考えるように静かに箸を動かしていました。その様子が少しだけ胸に引っかかりはしたものの――

 押上家の、騒がしくも穏やかな夜は、こうして静かに更けていくのでございました。

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