断鎖
両手を縛っていた手枷が、音を立てて砕け散る。
落ちた破片ごと、足の裏で地面を踏み抜いた。
踏み込んだ場所の地面が抉れ、乾いた土と落ち葉が跳ねる。
裂けていた脚がどうなったのかは分からない。肉の奥で何かがずれたような感覚はあったが、痛みとして形になる前に、次の一歩が地面を抉っていた。
光莉に振り下ろされかけていた腕の横に身体をねじ込む。
怪物の複眼がこちらを向く。
その動きとほとんど同時に、脇腹へ蹴りを叩き込んだ。
細い外殻がきしみ、怪物の身体が横へ吹き飛ぶ。
木の幹へぶつかった衝撃で枝葉が大きく揺れ、繭の内側に貼りついていた夜景が、波打つように歪んだ。
自分の身体も反動で流される。
両手で地面を掴み、無理やり受け身を取った。掌の下で土が潰れ、指先に熱がこもる。
ふと見ると、両手首から砕けた枷の残骸が垂れていた。
そこから伸びているのは、元は両手を繋いでいた鎖だった。
意識を伸ばして動かせそうなのは、左右の手首から伸びるその二本だけ。
以前のように、裾からいくつも這い出してくるものはない。
けれど、腕を動かすと、鎖はほとんど遅れずについてきた。
手首の奥からまだ骨が続いていて、その先が鎖の形をしている。そう錯覚するくらい、短い鎖は腕の動きに馴染んでいた。
息を吸う。
焼けた空気が、肺の内側を引っ掻いた。
喉の奥まで熱が上がっていて、呼吸をするたびに擦り切れるような痛みがある。
けれど、その痛みも、胸の奥で膨らんでいる熱にすぐ紛れた。
怪物の頭部がこちらを向く。
複眼の束が、今度ははっきりこちらだけを見ていた。
先程までの品定めのような余裕はない。
警戒と、苛立ちと、殺意が混ざっている。
近距離の間合いまで入ると、魔災獣は遠くから見ていた時よりずっと大きかった。
外殻の節も、腕の長さも、複眼の濡れた光も、思っていたより近い。
光莉はいつもこの距離に立っていたのだと、遅れて思う。
左手を振る。
鎖が体勢を立て直そうとする怪物の腕に巻きついた。
指を曲げるように手首を引くと、怪物の身体がわずかに傾く。その小さな崩れへ踏み込み、膝の関節へ蹴りを入れた。
外殻に細いひびが走り、硬いものの奥で湿った音がする。
怪物が腕を振るう。
距離は取らずに、右手首の鎖を斜めに張り、軌道だけをずらす。
完全には受けきれず、肩のあたりを裂かれた。
黒いドレスの表地が熱と爪で焼け裂け、ところどころ、白い裏地が覗いている。
布と皮膚が一緒に持っていかれる感覚があった。
その感覚が腕を伝うより先に、拳を握っていた。
炭化したように黒くなった手は、もう普通の指の形から少し外れていた。爪の先が鋭く伸び、節のあたりも硬く尖っている。
それを、怪物の頭部の横へ叩き込んだ。
硬い外殻が割れる。
複眼の粒がいくつか潰れ、青白い体液が飛んだ。手の甲にかかったそれは、触れたそばから、じゅう、と音を立てて蒸発する。
怪物が距離を取ろうとする。
首元へ鎖を絡めた。
逃げる動きに合わせて引き戻すと、外殻の継ぎ目が嫌な音を立てる。そのまま額をぶつけるように前へ出て、さっき割れた場所へ、もう一度拳を押し込むように殴りつけた。
黒くなった指先が、外殻の割れ目にかかる。爪の先が引っかかり、皮膚がさらに焦げる匂いがした。
指をねじ込む。
殻の奥には、ぬめった柔らかいものがあった。
押し込むと怪物の身体が跳ね、腕が無茶苦茶に振られる。
脇腹を裂かれ、肩を削られた。
それでも、距離を取らずに、衝動のまま指をさらに奥へ入れていく。
胸の奥の熱が、腕へ流れていく。
手首から伸びた鎖が赤黒く軋み、腕の内側を通っている何かまで熱を持ち始める。
骨の近くを熱が這う。
吐き気に似た感覚が喉元まで上がってきた。
足元で、ぬめる音が増える。
イモムシ型の魔災獣が、裂けた脚や腰のあたりへまとわりついてきていた。
小さな牙が食い込み、服の下で皮膚を抉る。痛みはあったはずなのに、すぐに熱に塗り潰された。
「……ど、け」
熱が一気に下りてくる。
肺を炙っていた熱が膨らみ、今度は手足の先へ駆けていった。
まとわりついたイモムシの身体が、触れたところから縮む。
じゅ、と小さな音がして、青白い粘液ごと焦げた。
遅れてもう一匹も、足首へ噛みつく前に黒く焼ける。薬品みたいな臭いと、焦げた肉の臭いが一緒に立ち上った。
足元の気配が減る。
目の前の怪物の割れた頭部へ左手をかけ、右手首の鎖で首元を押さえる。
鎖は短く、二本しかない。
けれど、短い分だけ腕の力がそのまま伝わるのか、あれほど圧倒していた怪物が暴れても、手元はほとんど揺れなかった。
割れた外殻の奥で、柔らかいものが震えている。
複眼の粒がばらばらに揺れていた。
痛がっているのか、怯えているのか、どちらかに見えた。
怪物の頭部を掴む手に、さらに力が入る。
炭化した指が外殻の内側へ食い込んだ。殻の隙間から青白い体液が溢れ、すぐに蒸発する。怪物の腕がこちらの背中を打ち、裂けた場所が広がる感覚があったが、それで手が緩むことはなかった。
熱を、頭部を掴んだ指先へ押し込む。
腕の内側が焼ける。手首の鎖が軋む。割れた外殻の中で、何かが泡立つような音を立てた。
「ヂ、■■……ギャ、ギギギギ、■■■■――」
怪物の声が高く歪む。
崩れた音だった。唸りでも咆哮でもない。潰れた呼吸みたいな、命乞いじみた音。
「……なんだ、鳴けるの、か」
生き物の埒外にいるものだと思っていた。
けれど、割れた外殻の奥にはちゃんと柔らかいものが詰まっていて、濡れた筋が走っていて、青白い体液は触れた手の熱でじゅうじゅうと蒸発していく。
――結局、生物ではあるのか。
首元に絡めた鎖を引く。
短い鎖が外殻の継ぎ目へ沈み、怪物の頭部が手の中で固定された。
逃れようとする力はまだ強かったが、今度は手元がほとんど揺れない。
胸の奥で燻っていた熱を、さらに引きずり出す。
呼吸をするたび、肺の内側が焼けた。喉の奥に熱が絡みつき、息を吸う音が掠れる。口の中に煤と血の味が広がっても、熱は止まらなかった。
手首から伸びた鎖が、赤黒く明滅する。
繭の内側の空気が揺れた。湿った空気が乾き、貼りついていた夜景の膜が熱で歪む。足元の落ち葉が、触れてもいないのに端から黒く縮んでいった。
首元に絡めた鎖を、さらに締める。
喉にあたる場所が外殻ごと潰れ、濡れた音がした。出かかった声は、空気になる前に口吻の奥で崩れる。
さらに熱を押し込む。
手首の枷の残骸が熱を持ち、皮膚へ食い込んだ。
青白い体液が泡立ち、割れた外殻の隙間から漏れる前に黒く濁る。
炭化した指が、頭部の奥へ沈んだ。さっきまで割るのがやっとだった外殻が、熱で脆くなっていく。
そのまま、握り込む。
頭部の外殻が、内側へ折れた。
青白い体液と黒い粒子が混ざり、指の間から噴き出す。怪物の身体が大きく跳ね、細い脚が地面を掻いた。
繭の膜が熱に炙られて波打ち、貼りついていた夜景に細い裂け目が走る。
抵抗が、少しずつ抜けていく。
それでも指は食い込んだままだった。残っていた熱を、最後まで流し込む。
掴んでいた頭部は、形を保てなくなり、手の中で灰のように崩れていった。
そこから黒い粒子が漏れ、胴へ、脚へ、順番に広がっていく。
最後に残っていた外殻の欠片も、指先に触れた瞬間、乾いた音を立てて砕け散った。




