スタイル・オーバーライド(5)
フードコートの境目を越えた途端、鼻を占領していた匂いの重なりがふっと薄まる。
代わりに、空気の密度が変わったみたいに人の気配が濃くなる。
いくつもの声と足音が、硬いタイルに当たって跳ね返り、あちこちから同じ強さで耳へ飛び込んでくる。
前を歩くのは、光莉、椎奈、穂乃花の三人。笑い合いながら進む背中を追いかけるように、最後尾に自分がつく。
――同じ列のはずなのに、通路に人が増えたせいで距離だけが勝手に伸びたり縮んだりする。ひとつ遅れれば、すぐに置いていかれるような感覚。
下りのエスカレーター前は思った以上に混み合っていた。上からは見えない下の階のほうから、拡声器の声が反響して届く。
「ただいまタイムセール開催中でーす!」
「本日限定、イベントスペースにて――」
全部は聞き取れない。それでも、言葉の欠片の向こうに、どこか懐かしい活気だけがはっきりと伝わってくる。
……こういう賑やかさは、都会ではあまり感じない気がする。
先頭の光莉が、迷いなくエスカレーターへ足を乗せる。椎奈も、穂乃花も続いた。
自分も遅れないように踏み出して――その瞬間、視界の前にすっと影が差し込んだ。
子どもを抱き上げた母親だった。横入り、というほどの強引さではない。2つの列が自然に混ざってしまう、地下鉄の改札前後のような自然な押し流され方に近い。
母親は正面を向いたまま、片手に持ったスマホを耳に当て、ずっと誰かと通話している。
「うん、今モール。……そうそう、セールが――」
抱えられている子はまだ小さくて、エスカレーターの手すりより少し上に顔が出ている。ちょうど、自分と同じ目線の高さだ。
目が合った。
ぱち、ぱち、とまばたきをして――次の瞬間、赤ちゃんがふわっと口元をゆるめた。
にこ、と笑った。
意味なんてきっとない。ただの笑顔。でもそれが、妙なほどまっすぐで、眩しくて。自分は反射みたいに視線を外してしまう。
母親は電話に夢中で、子どもの視線の先なんて気にしていない。こちらの存在も、おそらく意識に入っていない。
それでも赤ちゃんは、もう一度笑う。
何か嬉しいものを見つけたみたいに、こちらを見て。
少しだけ間を置いてから、そっと視線を戻してみる。雑踏の中で、その黒目だけが異様に澄んでいる。
吸い込まれそうなほど澄んだ目が、無邪気に自分を映していた。
まるで、本当の自分を、見透かすみたいに。
エスカレーターはゆっくりと下っていく。階が近づくにつれて、下のフロアの音が輪郭を持ちはじめる。店内放送、呼び込み、子どものはしゃぎ声。いろんな音が重なって、頭の内側に張っていた薄い膜をなでるみたいに流れていく。
――静かな場所より、少しうるさいほうが、考えなくて済む。
学生の頃は、こんなふうには思わなかったのに。社会人になってから、考えることそのものが苦手になった気がする。
必要な場面なら無理やり気を張れる。けれど、張る理由がないと、途端に力が抜ける。考えようとしても、頭の中に薄いもやが降りてきて、思考の道を塞いでしまうような感覚。
ぼうっとしている自分に、赤ちゃんは何かを見つけたみたいに手を伸ばしてきた。
小さな指が、自分へ向かって空を掴む。
その仕草に、ほんの少しだけ胸がほどけた。意味なんてないのに、「怖くないよ」と言われたみたいで。自分もつられるように、手を上げてしまう。
届く距離じゃない。それでも、同じ動きを返したくなる。指先が赤ちゃんの指先の形をなぞるように、空中で小さく揺れて――
そのとき。
胸の奥が、すっと冷えた。
……前にいたはずの三人が、視界にいない。
いつのまにか下の階に着いていた。エスカレーターの降り口の先は人で詰まっていて、流れが遅い。
少しずつ押し出されるように前へ進むしかない。
その中に、椎奈の紺色も。 光莉の明るい髪も。 穂乃花の淡い水色も――見えない。
一拍遅れて、音が戻ってくる。さっきまで遠かった店内放送が、急にやけにうるさく感じる。足元が妙に頼りない。自分の手は、まだ半分上がったままだった。
赤ちゃんは変わらずにこにこしているのに、こちら側の世界だけが急に現実へ引き戻される。
……あれ。
自分は、どこへ行くつもりだったんだっけ。
先に動いたのは、頭じゃなく体だった。どこかに向かうフリをする。歩いてさえいれば、そのうち見つけられるかもしれない。そんな理屈にもならない期待を握って、足を動かす。
店の明かり。派手なポップ。セールの赤い文字。流れるBGM。全部が同じ強さで目に刺さって、どれも目印にならない。曲がった角が、もう戻れない場所みたいに遠ざかっていく。
気づけば壁際の空いたスペースに紛れ込んでいた。店舗と店舗の間の、何も置かれていない角。人の流れから半歩外れただけなのに、音が急に薄い。空気だけが冷たくなったみたいだ。
立ち尽くす。
ここがどこなのか、わからない。
さっきまでは、わかっていたはずなのに。何階にいるのかすら曖昧だ。案内板を探して目を走らせても、文字が頭の中に入ってこない。読んでいるのに、意味が結びつかない。
……そもそも、離れなければよかった。
あそこで待っていれば、三人が気づいて戻ってきたかもしれない。
自分が間違っていることはわかっていた。それでも、動かないといけない気がした。止まったら、何かが追いついてくる気がして。
だから、衝動みたいに逃げた。
逃げても何も変わらないことくらい、分かっていたのに。
胸の奥がじわりと冷える。息が浅くなる。耳の奥が熱い。足の裏だけが、変に軽い。地面を踏んでいる感じが薄い。
……そうだ。これも、同じだ。
自分は何も変わっていなかった。
嫌で、怖くて、でも言葉にできなくて。考える前に体が動いて、戻れなくなる。
白い蛍光灯。 冷たい風。 金属の匂い。
何かを越えた感触。 戻れない音。
子どもみたいに投げ出した、あのときの責任と義務が、喉の奥までせり上がってくる。
吐き出したくて、でも吐き出せなくて、自分はぎゅっと目を閉じ――
「もしかして、迷子?」
頭上から、声が降ってきた。




