公衆浴場 宵の湯
その銭湯の前は、何度か通ったことがある。
宵ヶ丘の商店街のいちばん端っこ。
シャッターの降りた店が並ぶ先に、ぽつんと残されたみたいな古い建物。
高い煙突。
色あせた板に書かれた「公衆浴場 宵の湯」の文字。
入口の横には、ほとんど読めないくらいボロボロになった紙切れが一枚、
まだ諦めきれないみたいにカピカピのテープで留められている。
《火・金曜日 小学生以下無料》
曜日と「無料」だけは、ぎりぎり読めた。
最初に見つけたときは、特に気にもせずに通り過ぎた。
でも今日は、ここで足を止める。
風が吹く季節になったのか、起きたら砂埃にまみれてる気がする。
顔も、髪も、なんだかベタベタしてる気がする。
ここまで来ると、さすがに——
(……お風呂、入りたいな)
そう思っていたら、この張り紙を思い出した。
あの紙に書いてある「小学生以下」が、自分のことを指してるのかどうかは、正直よくわからない。
でも、今の見た目だけで言うなら——どう見ても小学生より以下にしか見えない、はず。
……今日は、たぶん火曜日。
ほんの少しだけ罪悪感を覚えながら、青い「ゆ」の暖簾をくぐった。
───
中は静かだった。
古い木の床。
掃除が行き届いているのか、埃ひとつない。
洗剤と石鹸と、ちょっとだけカビ臭さの混ざった、昔ながらの匂い。
番台には、小さく背中の丸まったおばあちゃんが座っている。
分厚い老眼鏡を鼻のあたりまでずらして、ぼんやりテレビを見ていたらしい。
気配に気づいて、こっちをまじまじと見つめる。
じーっと、上から下まで。思わず身体が強ばってしまう。
「……あら。ちっちゃいお客さんだねえ」
おばあちゃんは目を細めて、入口横のボロボロの紙をちらっと見やる。
「今日は、ええと……火曜だっけかねえ。
うんうん、小学生さんはタダの日だよ」
小学生じゃないけど、たぶん説明しても伝わらない。
どうしよう、と思って固まっていると、おばあちゃんはひらひらと手を振った。
「女湯、そっちね。今は誰もいないから、ゆっくりあったまっておいで。
細いから、ちゃんとあったまんなきゃダメだよ」
怒られるどころか、やけに優しい。
「……うん。ありがと」
小さく頭を下げて、女湯のほうへ向かう。
女湯の札をくぐる足が、ちょっとだけ遠慮がちになってしまう。
でも、今の姿で男湯に入るほうが何倍もおかしいのは、さすがにわかる。
───
脱衣所も、がらんとしていた。
少し歪んだ籐のカゴが並んだ棚。
隅で、年代物っぽい扇風機が、ゆっくり首を振っている。
壁の大きな鏡は、ところどころ銀が剥げていて、端っこが少し歪んで見えた。
鏡を、まともに見るのは、いつぶりだろう。
社宅の洗面所の鏡は、ヒゲを剃るためだけの物だった。
酷く小さく思える鏡で、口元だけ映ればいいとさえ思っていた。
最終的には、ヒゲを剃る時間も惜しくて、重点先と会うことになった日は、マスクで隠してやり過ごしていた。
そんなことを思い出しながら、パーカーを脱いでいく。
袖を抜ける腕が、自分で思っているよりひょろっとしていて、ちょっと変な感じがする。
ゆるゆるのハーフパンツも全部脱いで、鏡の前に立つ。
気だるげそうに鏡から見つめ返してくるのは、徹夜明けのくたびれた男じゃない。
肩より少し伸びた灰色の髪が、ところどころ跳ねていて、光の具合で、銀の糸みたいにきらっとするところもある。
目は、前の体よりも少し大きい気がする。
まつげがやたらと長くて、瞬きするたびに自分で気になる。
頬はやせているけど、骨格自体は丸くて、子どもの輪郭だ。
胸のあたりは、ほとんど平ら。
肋骨がうっすら見えて、栄養状態の悪さだけはすぐにバレてしまうだろう。
膝や肘には、小さな擦り傷。
足首には、うっすらと鎖の痕のような赤い線が残っていた。
変身中の手錠や足枷のせいなのか、それとも別の理由なのか、自分でもよくわからない。
(……どう見ても、小学生)
鏡の中の女の子が、少しだけ眉を寄せる。
その顔は、どうがんばっても「元二十代後半の男性」には見えない。
顎に手を当ててみる。
つるつるだ。
(ヒゲ剃らなくていいのは、楽)
前は、どれだけ剃っても青い影が消えなかったのに。
良いことなはずなのに、どこかちょっとだけ寂しい、かもしれない。
ふと、昨夜のあの子たちのことが頭をよぎる。
(……ちょっと、悪かった、かも)
ブレイドのぽかんとした顔とか、ドロップの困ったみたいな目とか。
もやもやが、胸の端っこに残っている。
でも——だからといって、明日から本部に行こう、とはやっぱり思わない。
(……働きたくないのは、本当だし)
それ以上あれこれ考える前に、蛇口をひねる。
勢いよく出てきたお湯が、タイルの床を跳ねた。
久しぶりに嗅ぐ湯気の匂いがふわっと立ちのぼり、鏡の中の灰色の髪が、少しだけぼやけていく。
桶にお湯をためて、ざばっと頭からかぶる。
ぬるいのとも熱いのとも違う、心地よいお湯の温度が、皮膚の奥まで染みてくる。
「……はぁ……しあわせ」
風呂の音に紛れてしまうくらい小さな声。
でも、浴場にひとりぼっちの自分の耳には、はっきり届いた。
湯船に浸かると、肩までじわじわと温かさが上がってくる。
固まっていた背中と首が、少しずつ溶けていくみたいだ。
こうして浸かっていると、温泉とかにも行きたくなってくる。
最後に行ったのは、小さい頃の家族旅行だったと思う。
小さい頃から親とは仲が悪くて、連れて行ってくれた旅行は、いつも何が楽しいのかわからなかった。
でも、今なら旅行の楽しさがわかるかもしれない。
良くない点といえば、少し姿勢を崩すと、すぐに顎先まで水面が来てしまうことだろうか。
この低身長のせいだ。恨めしい。
のぼせない程度にもう少しだけ、と湯の中で足を伸ばした。
そういえば——
(……いいなあ。自分だけの武器)
あの子たちの槍とか、双剣とか、弓とか。
男の子の憧れだ。自分にもそういうのが欲しい。
自分だけのかっこいい武器を妄想しながら、
のぼせないうちにと、ゆっくりと湯船から立ち上がった。




