関係ない、はずなのに
大型が霧みたいに崩れて、黒い煙と光の粒が夜空に混ざっていくのを見届けてから、そっと息を吐いた。
——おわった。
おなかもすいたし、かえろっと。
そう思って、くるりと背を向ける。
ふわ、と体を軽く浮かせて、暗い空のほうへとにじり上がろうとした、そのとき。
「ちょっと待ってーーー!!」
下から、大きな声が飛んできた。
思わず、ぴたりと動きを止める。
ゆっくり振り返ると、金髪の双剣の子——ブレイドが、全力で手を振ってこっちに向かってくるところだった。
「行っちゃダメー! せっかく会えたのに!」
せっかく。
その言い方が、なんだか少しだけくすぐったい。
でも、逃げるのも悪い気がして、そっと高度を下げた。
地面に足が触れるくらいまで降りると、ブレイドは勢いよく目の前まで駆け寄ってきた。
「やっぱりこの前の子だよね!? 鎖ビュンってやって、あたしのこと助けてくれた!」
ぐいっと顔を近づけてくる。
金色のポニーテールが、ぴょこぴょこ揺れている。
「さっきもありがと! すっごかった! あんなでっかいの、あんなにビターッて止められるなんて思わなくてさ!」
言葉が、途切れない。
まるで水道の蛇口を全開にしたみたいに、次々出てくる。
人と話すのも久しぶりなので、どう返せばいいかわからなくて——
「………どういたしまして」
とりあえず、小さく頷いておいた。
我ながらなんとも情けない返事だ。
それだけで、ブレイドはぱあっと笑う。
「あ! あたし光莉っていうの! 魔法少女名はサンブレイドって名前なんだけどさ、戦うときはブレイドって呼んでいいよ! 武器はこの双剣! それでね、それでね——」
自己紹介と自慢と感想が、一気に押し寄せてくる。
それを聞きながら、ふと視界の端で、残りの二人がこそこそ話しているのが見えた。
紺髪の槍の子と、水色の弓の子。
ちょっと離れたところで、声をひそめている。
「……やっぱりあれが、例の“鎖の魔法少女”ってわけね。変な動きをしたらすぐ捕まえてやるんだから……」
「だ、だめですよ……! 志乃原さんも、刺激するような行動は控えるようにって……! その拘束魔具もしまってください……!」
なんか……揉めてる?
小さい声だし、ブレイドの声が大きくて、うまく聞き取れない。
「でねでね、この辺の魔災獣っていつもはもうちょっと小さくてさー、あんな群れで出たのあたし達も初めてで——」
ブレイドはまだ喋っている。
自分は、なんとなく「うん」とか「……そうなんだ」とか、単語で返すだけ。
最近の女の子ってのはみんなこんな感じなのだろうか。
疲れたりしないのかな?
嬉しそうに一人で喋る彼女をぼんやりと見ながら、そんなことを考えていると、少ししてぴたっと言葉が止まる。
「あ! そういえば!」
ブレイドが、ぽん、と手を打った。
「そういえばさ、まだ聞いてなかった! なんて名前なの? なんて呼べばいい?」
名前。
言われて、初めてちゃんと考える。
自分の“前の名前”は、もう。
ここで言えるようなものじゃない。
それを口にすれば、前の会社とか、社員寮とか、全部に繋がる可能性がある。
あの環境とあの自分に、もう一度関わる可能性を、自分で呼び戻すってことで。
——それは、いやだ。
でも、今名乗れる名前なんてものもない。
考えたこともなかった。
どう答えればいいのかわからなくて、自分は黙り込んだ。
視線が、自然と足元に落ちる。
沈黙が、少しだけ続いた。
「……っ、その、あの!」
先に口を開いたのは、水色の髪の子——ドロップだった。
ブレイドの後ろから、ちょこっと半歩だけ出てくる。
「む、無理に言わなくても……大丈夫です……! あの、魔法少女同士でも、本名は言わない子、多いですし……」
おずおずとした口調だけど、必死にフォローしてくれているのがわかる。
続けて、槍の子——セレスが肩をすくめながら口を開く。
「そうね。そもそも個人情報だし、本名をぺらっと言わないほうが正解。ねえ、ブレイド?」
「えっ、あ、う、うん……?」
さっき自分の名前をあっさり名乗ったばかりのブレイドが、わかりやすく目を泳がせる。
名前のことは、それ以上は触れられなかった。
少しだけ、ほっとする。
けれど、話題はすぐに、別の方向へ向かう。
「……ただ、一つだけ。さっきも言いかけたけど」
セレスが、真面目な顔でこちらを見る。
「あなたみたいに、魔災庁の登録なしで戦ってる魔法少女って、本当は“違反”なの。知ってた?」
「魔法少女として活動するなら、適性検査と登録は義務。
危ないからっていうのもあるし、魔災庁がちゃんと把握しておかなきゃいけない決まりだから」
淡々としているけれど、それは責めているというより、ただ事実を告げている声だった。
……やっぱり、そうだよね。
自分は何も言わない。
ただ、黙って聞いている。
少し、空気が固くなりかけたそのとき——
「で、でも……!」
ドロップが、慌てて口を開いた。
「あ、あの、登録っていっても……その……軽いお仕事をお願いされるだけっていうか……。
ちゃんとした制度ですし、怪しいものじゃなくて……
同年代の子たちには、人気のお仕事、ですよ……?」
——仕事。
その単語だけが、やけにくっきりと耳に残った。
経費削減のために点々と光る蛍光灯。
境目が分からなくなるほど、書類とメモで埋まるデスク。
底の薄くなった靴の中で震える足先を隠しながら、目の前の小綺麗な作業服に身を包んだ誰かに、ぼんやりと視線を向ける。
『お前はこの仕事を何年やってるんだ?
学生気分でやってられるような仕事じゃないのはわかるよな?』
目の前の、誰かの、やけに落ち着いた声が頭に響く。
瞼が痙攣し、自分の肺の音が耳につく。
景色が、ほんの一瞬だけ二重になる。
いま目の前にいるのは、微笑みかけてくれる女の子たちで。
でも、言葉のいくつかは、あの鉄条網の向こうで聞いたものと、よく似ていて。
「そうそう! 本部の人も言ってたんだよ! 鎖と浮けるの、すっごく珍しいからって!
もし入ってくれたら、きっと大活躍できるって——
本部の人たちも、すっごく期待してるって!」
その言い方が、あまりにも聞き覚えがありすぎて。
胸の奥のどこかが、きゅっと小さく縮んだ気がした。
こんなことを考えるのはもうやめたのに。
この子たちは関係ない、はずなのに。
『君には期待していたんだけどね。どうやら間違いだったみたいだ』
また、ここにはいない誰かの声が響く。
——もう、そういうのは、いい。
「……ごめんなさい」
気付いたら、口が勝手に動いていた。
ブレイドの目が、ぱちぱちと瞬く。
「えっ……どうして? なにか、嫌だった……?」
問いかける声は本当に不思議そうで、責める感じなんてまったくなかった。
余計に、胸がちくりとする。
もう、長居はできない。
「……ごめん。もう、いくね」
それだけ言って、自分は少しだけ後ずさる。
裾から鎖がするりと伸びて、足元を支えるように揺れた。
ふわ、と体が浮く。
「あっ、ちょっと! まだ名前も聞いてないのに〜〜!」
ブレイドが手を伸ばす。
その手が届いてしまう前に、ゆっくりと上昇していく。
──────
「……逃げる気ね……!」
暗いドレスの背中が、空に向かって遠ざかろうとするのを見て、セレスが本部から拝借した拘束魔具を取り出す。
「セレスさん……! 待ってください……!」
ドロップは、考えるより先に手を伸ばしていた。
セレスの袖を、ぎゅっと掴む。
「お、追いかけるのは……よくないと思います……。志乃原さん、“深追いはしないで”って……。まずは話して、って……」
振り返ったセレスの眉が、わずかに寄る。
「……逃げられるのを黙って見てるつもり? 協力的とはいえ、相手は規則違反者なのよ?」
そう言いながらも、足はそこで止まった。
袖を掴むドロップの手も、ゆっくりと力を抜いていく。
そのとき、通信機が小さく震えた。
『三人とも、聞こえる?』
志乃原さんの落ち着いた声。
さっき交戦中に聞いたときよりも、少しだけ柔らかい。
「こちらセレススピア。……“鎖の魔法少女”が離脱しました」
セレスが、いつもの調子で応答する。
『映像と魔力反応、こちらでも確認しています。……やはり、何か事情がありそうですね』
モニター越しのはずなのに、その表情が目に浮かぶようだった。
厳しいけれど、責めるより先に「心配」が立つ顔。
『とりあえず、今はこれ以上追い詰めないでください。
第二区域支部に戻ってきて。詳しい話は、戻ってから』
「……了解しました。セレススピア、これより帰還します」
セレスがきっぱりと答えると、ブレイドが大きく息を吐いた。
「う〜〜……でも、また会えるよね……? 今度こそ、ちゃんと話したいのに……」
その横顔は、さっきまで大型に飛び込んでいった子と同じとは思えないくらい、年相応にしょんぼりして見えた。
「きっと……また、来てくれます……」
ドロップは、空を見上げながら小さく答える。
自分に言い聞かせるみたいに。
あの鎖の少女の背中は、どこかさびしそうで。
けれど同時に、誰かを守るときだけ、すごくまっすぐで。
(……次に会えたときは、もう少し……ちゃんと話したいです……)
胸の中だけで、そうそっと願った。




