トラウマ
その日は少し遅れて憩いの里へ向かった。遅れる旨は、奈緒から事前に伝えてもらっていた。
施設に到着すると、原口は他のメンバーとすでに街のパトロールへ出かけていた。
佐伯署長から「午前中は署内で待機していてほしい」と言われていたため、僕は昨日救出した近藤陽葵ひまりのことが頭に浮かび、3階の治療室へと向かうことにした。
「昨日の女性と話せるかな?」
治療室に入ると良子がいたので、声をかけた。
「マサキさん、今日は施設内におられるなんて珍しいですね。近藤さんでしたら、先ほど点滴も外しましたし経過も非常に良好です。ご本人が希望されれば、もう退院されても構わない状態ですよ」
「そうか、ありがとう。……それにしても良子、今日はなんだか顔色がいいね。よく眠れたのかな?」
「はい。昨夜は……熟睡できました。実は、少し一人で思い悩んでいたことがありまして……」
「大丈夫かい? 良かったら、いつでも相談に乗るよ」
「……別荘での件です」
僕たちが別荘に身を隠した際、良子は初老の男たちに凌辱された。やはりあの惨劇は、彼女の心に今も癒えない大きな傷を残しているのだ。
「一度、時間を取ってじっくりと話をしようか」
「いえ……その件につきましては、すでに治療を開始しておりまして……自分なりに手応えを感じているところです」
「治療……ということは、カウンセリングのようなものかな?」
「それは……非常にデリケートな問題ですので、お答えできません。ですが、心も少しずつ落ち着いてきましたし……時間が空きましたらマサキさんとどこかへお出かけでもしたいです」
「そうだね。まだまだ予断を許さない状況だけど、時にはリフレッシュも必要だからね。また落ち着いたら連絡するよ」
「はい。楽しみに待っていますね」
良子のトラウマは深く心配していたが、彼女なりに乗り越えるための解決方法を見出そうとしているようだった。
「そう言えば、近藤さんはどちらに?」
「あっ、申し訳ありません。あちらの仕切りカーテンの向こうにおられますよ」
「ありがとう」
僕がカーテンをそっと開けると、ベッドの上にいた陽葵がジトッとした冷ややかな視線をこちらへ向けていた。
「私は他の階の回診がありますので、これで席を外しますね」
良子はそう言い残すと、静かに治療室を出て行った。この施設の2階には他にも療養中の避難者がいるため、そちらの診察に向かったのだろう。
「そう言えばですか……私は、雑な扱いのひまりちゃんです!」
陽葵は少し拗ねたような表情でそう口にした。
「はは、元気になったようで良かったよ」
「……あのさ、井上さんってあの先生と付き合ってるの?」
「うーん……まあ、深い関係ではあるかな。世界がこんなことになってから、色々あってね」
「ふーん……そっか……」
陽葵はどこか寂しそうに視線を落とした。
「話は変わるけど、君はこれからどうするつもりなんだい?」
「どうしよっかな……」
「君はずっと、あの運送会社の事務所に潜んでいたんだったね」
「そうなの。……とりあえず家に帰りたいです。両親が……お父さんとお母さんが心配だから」
「分かった。僕がそこまで連れて行ってあげるよ」
「ほんとですか!? ありがとうございます……!」
正直なところ、彼女のご両親が生存している可能性は極めて低いだろうと僕は思っていた。もし無事なら、娘を探してあの運送会社へ向かうか、警察へ救助を求めているはずだからだ。
それでも連れて行こうと思ったのは、この現実をうやむやにしたままでは、彼女が本当の意味で前を向いて生き直せない気がしたからだった。
◇
まずは佐伯署長のところへ向かい、陽葵を自宅へ送る了解を得た。僕はあくまでボランティア立場なので、問題なく了承してもらえた。
署長室には、署長から直接逮捕術を習っていた奈緒もいたため、彼女も一緒に行くことになった。
「初めまして、河合奈緒です。私はマサキさんのパートナーなんですけど……今はこうして警察で逮捕術を習っています」
「初めまして、近藤陽葵です。昨日はマサキさんに助けていただきました」
どこか牽制し合うような、少し不思議な自己紹介を交わした後、僕たちは愛車のフォードへ乗り込み、陽葵の自宅を目指して出発した。
「すっごい車……やばっ! これ、日本では滅多にお目にかかれない5,000ccの輸入車ですよ! マサキさんの車ですか!?」
「うーん、今はね」
「今は……? どういうことですか?」
「世界が壊れてしまって、世間一般の窃盗の概念が変わったんだよ。簡単に言えば、亡くなった方の遺品を生きてる人間が有効活用させてもらっている、という感じかな」
「えっ、ちょっと待って……なら私も、フェラーリとか手に入っちゃうかもしれないんですか!?」
「可能性はあるね。陽葵さんは車が好きなの?」
「はい! 車も運転も大好きで……だから宅配の仕事をやってたくらいですから!」
「そうなんだ。それなら……君の家まで運転してみるかい?」
「マジですか!? いいんですか!?」
一度車を安全な場所に止め、運転を交代することにした。
陽葵は運転席に乗り込むと、鼻歌交じりにハンドルやシートの位置を細かく調整し始めた。
「……ちょっ、足がギリギリ届くくらいだな……」
「プッ……」
「笑わないでください! どうせ私はチビですよ!」
「そう言えば、昨日抱き上げたとき、すごく軽かったなと思ってね」
僕が昨日の救出時のことを思い返して口にすると、陽葵の顔がみるみる真っ赤に染まっていった。
「マサキさん! 女の子に体重の話をするのはNGですよ!?」
「そうです! もう……せっかく王子様が現れたと思ってたのに!」
「王子……?」
「もういいんです! 出発しますからね!」
そう言うと、陽葵は威勢よく車を発進させた。
アクセルを目一杯踏み込んだのか、すさまじい加速とともに猛烈なGがかかり、僕たちの身体がシートへと深く押し付けられた。
「さすが5,000cc……トルクがめちゃくちゃ太いですね!」
「……もしかして陽葵さん、スピード狂?」
「そういうわけじゃないです! まずは車の性能を限界まで知ってから運転したい派なんです!」
そう言いながらも、彼女はすぐに常識的なスピードへと落としてくれた。
車の好きを自称するだけあって、彼女のハンドルさばきやペダルワークは実にスムーズで、見事な運転技術だった。




