希望
雪乃たちと別れると、A棟にある院長室へと向かった。
最上階にある院長室の前には受付の女性がいたが、以前僕が良子と一緒に訪れたことを覚えていてくれたおかげで、すんなりと院長との面会を取り付けることができた。
「どうしたんだい井上くん。また何かやらかしたのではあるまいな?」
白崎院長は、以前僕が奈緒への暴行容疑で誤逮捕された件がよほど面白かったのか、またニヤニヤしながらネタにしようとしてきた。
「院長……その節は大変お世話になりました。おかげさまであれ以来、警察の方々とも親しくさせていただき、しっかりと捜査協力も果たしておりますよ」
「ふはは、冗談だよ。君の活躍は聞いている。佐伯くんも良い人材を紹介してくれたと手放しで褒めていたよ。それで、今日はどういった要件かね?」
「これをご覧いただけないでしょうか」
僕は手元に抱えていたファイルから冬子の作成したレポートを取り出し、院長の前にそっと差し出した。
「何かのレポートかね。どれどれ……」
院長はパラパラと一読すると、ゆっくりと歩いて自らのデスクへ戻り腰掛けた。そして僕に手でソファーへ座るよう促すと、食い入るように冬子のレポートを読み込み始めた。
やがてデスクのペン立てから赤いペンを取ると、気になる箇所にマーキングを入れ始めていく。
「……これを書いたのは誰だね?」
「僕が保護している女性の一人です」
「ふむ。正式な研究論文としては裏付けとなるデータや資料が少なすぎるが……考察の筋道としては実に素晴らしい」
「彼女は医療関係者ではなく、いわゆる素人です。ですが、コールドスリープで眠っている彩香を助けたい一心で、独学でゾンビ病原体の解明に取り組んでいるんです」
僕が理由を明かすと、院長は深く頷いた。そして癖なのだろう、手にしたペンの持ち手をカンカンとおでこに当てながら考え込んだ。
「しかし、残念だが……この推論の裏付けを取るための検証は、今のうちの病院では不可能だ」
院長の言葉に、僕の胸はすっと冷え込んだ。
「……やはり難しいのでしょうか?」
「まず環境の問題だ。数年前のパンデミック時に高濃度酸素を注入する機器などは購入済みだが、噛まれた患者を経過観察・検証すること自体が不可能なのだよ。設備も、そして対応できる人員もね」
院長の判断は痛いほど理解できた。感染の恐れがある噛まれた患者を病院内に連れ込むこと自体が甚大なリスクであり、途中で死亡してゾンビ化する可能性も極めて高い。万が一対応を誤れば、病院のスタッフや他の避難者まで感染してしまうのだ。
「それに、この白心病院は臨床研究を目的とした施設ではなく、あくまで医療行為として実績のある治療を提供する場所だ。だからこそ、検証に必要な高度な電子顕微鏡も、それを正しく分析・判断できる専門のスタッフも不在なのだよ」
「……納得いたしました」
「しかし──」
院長が意味深に言葉を区切った。
「何か、手立てがあるのですか!?」
「K市に、明星大学があるのは知っているかね?」
「はい。僕はK市の会社に勤めていましたから、よく知っています」
「ほう、君はあの街の出身だったのか。……話を戻すが、明星大学の付属病院は生物学において国内トップクラスの権威だ。特に現理事長の明智明子さんは、世界的にも論文などで認められている第一人者だよ」
「そこへ持ち込めば、この病原体の研究をしてもらえるのですね?」
「ああ、恐らく向こうでもすでに研究を進めているはずだ。……もっとも、あの大学病院が無事ならばの話だがね」
「分かりました。僕が直接、明星大学へ行ってみます」
もし病院が稼働しているなら、僕自身が出向いて直談判しよう──そう決意を固めた僕を、院長が手で制した。
「待ちなさい。まだ続きがあるのだよ。その明星大学の系列施設に、明光医科学研究所という病院があってね。そこにはあらゆる最先端設備が揃っている」
「そんな研究所があるのですか……!」
「そこは世界レベルで見ても最新鋭の機材を惜しげもなく導入しており、今回のゾンビ騒動についても、海外で症例が出始めたごく初期の段階から臨床試験を行っていると聞いている」
「それは凄いです……! もしかすると、すでに治療法やワクチンが開発されている可能性も……」
「可能性はある。……しかしね、そこの所長が非常に問題のある人物でな」
白崎院長が眉をひそめて語るには、明光医科学研究所の所長は、本来なら明星大学の理事長に就任するはずの人物だったという。しかし過去にスキャンダルを起こしてその道を閉ざされ、系列の研究所へ事実上左遷された経緯があるらしい。
さらに倫理観にも重大な欠陥があり、白崎院長の見立てでは「己の名誉と功績のためなら、人間を試作品扱いするような人体実験まがいのことすら平然と行っているのではないか」とのことだった。
かなりの危険人物であることは間違いない。だが、それでも彩香を救う手がかりになるのなら、頼らない手はなかった。
「……君が一人で乗り込んだところで、面会すら叶わずに追い返されるのが関の山だろう。私から個人的に話を通してみるよ」
「本当ですか! ありがとうございます……!」
「ただし、もし向こうへ向かうことになったなら、このレポートの立案者である女性も同席させてほしい。協力を仰ぐなら女性に直接話させるべきだ」
「分かりました。彼女にも伝えておきます」
狂気に満ちた所長の存在に不穏な予感を覚えつつも──僕は、固く閉ざされていた彩香の復活への扉が、確かに一歩前へと開いた手応えを感じていた。




